「日本人の死生観」と題された本は他にも何冊かあるが、五来重の『日本人の死生観』(講談社学術文庫 2021年 初版 角川書店 1994年)はその中でも際立った名著ではないかと思う。今年刊行された『宗教と日本人』(中公新書)が話題になっている気鋭の宗教学者岡本亮輔氏が解説を書いている。
本書の冒頭は、書名にも採られた「日本人の死生観」というタイトルをもった文章で、文体からしてもともとは講演だったと想像される。掲載誌初出一覧によると、小学館の『創造の世界』第九号(一九七三年)が初出である。この文章を今週月曜日の授業で紹介した。
ルース・ベネディクトの『菊と刀』を念頭に置きながら、菊と刀によってそれぞれ象徴される貴族文化・王朝文化と武士道・武家文化とが、どちらも世界に誇れる日本文化であることを認めつつ、五来は、「もう一つひじょうに大きなもの」が従来の日本人論から抜け落ちているとまず指摘する。それは、「庶民の持っている思想、宗教、あるいは人生観、死生観のようなもの」である。そこで、五来は、その庶民的なものの象徴として鍬を挙げ、菊と刀と並べて、鍬も入れないと日本人論は成立しないと主張する。
この前提に立ち、日本人の死生観を、武士道や仏教者の言説などよりももっと深いところから解釈しようと五来は試みる。その解釈は四つの観点からなされる。
一つは、霊魂観。人間が死んでから、霊魂はいったいどうなるのか。この問いに対する答えに日本人の死生観の根本、あるいは日本人の宗教の根本が根ざしている。
一つは、その霊魂のいく世界。「他界」である。言い換えれば、日本人の死後観、あるいは死んでのちの生活の問題である。
一つは、霊魂不滅ということ。と同時に、再生、復活の信仰が日本人の死生観に大きく影響している。
一つは、罪業観。より具体的には、罪業を償うための「贖罪死」のことである。
この順に、五来は自らのフィールドワークの成果を存分に盛り込みながら、庶民において言説化されることなく生きられてきた死生観を捉えようとしている。
結論として、日本人は「罪滅ぼしということをひじょうに重んずる宗教をもっている」という。罪業観は仏教にもあるが、日本の場合は、それがもっと実践的なものとしてあると強調する。
五来自身は、死刑制度には本書でまったく言及していないが、日本では現在もなお死刑存置派が圧倒的多数派を占める理由も、もしかすると、このような「実践的」罪業観にその淵源があるのかも知れない。
今まで、このブログを見逃していました。
いろいろと示唆に富んだリポート、興味深く拝読いたしました。
過去記事もボツボツと開いて見ます。
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