担当しているいずれの授業でも、授業の主題への導入のために私がよく使う説明方式は、その主題に関して、同意語あるいは類義語と見なされることが多い二つ三つの言葉を比較し、それらの間の弁別的価値を明らかにすることを通じて、考察対象となった各語のニュアンスを理解させるという方式である。
この方式は、辞書的レベル・通時的レベル・文脈的レベル・使用者レベル・言語間レベルの五つの階層、階梯、あるいは領域それぞれにおいて実行される。この五つのレベルは、列挙されたこの順番通りに基底から順次高次の段階へと進むことを必ずしも意味してはいないが、実際の手続きとしてはこの順序に従うことが多い。
一見意味の区別がはっきりしない複数の語を前にして、それらをよりよく理解するための最初の手がかりとして、ある一つの辞書が同意語・類義語あるいは対義語についてどのような説明をしているかを見る。しかし、それだけでは解決できないことも少なくない。そこで、複数の辞書の説明を比較してみる。それぞれの辞書が工夫を凝らした説明をしてくれていたり、それぞれに異なった用例を挙げてくれたりしていると、こちらの理解にとって大いに役立つ。だが、限られた紙面の中での辞書的説明には自ずと限界があり、辞書間比較を行っても問題の解決には至らないこともある。
この場合、通時的レベルに移行する。簡単な一例を挙げれば、現代語での「けしき」と「ながめ」の区別がはっきりしなければ、古語辞典を参照する。これで解決できることがしばしばある。しかし、古語でははっきりとしていた区別が現代語では曖昧になってしまう場合もあるから、なんでも古語に立ち返ればよいというものではない。
直接的には解決をもたらしてくれない場合でも、古語に立ち返ることが解決の鍵を与えてくれることもある。たとえば、条件を表す接続助詞の「たら」「なら」の違いは、「たら」と「なら」がそれぞれ完了の助動詞「たり」と断定の助動詞「なり」から来ていることから明瞭に説明できる。
もちろん、このやり方が通用しない場合もある。例えば、原因・理由を表す「ので」と「から」の違いの説明のためには古語辞典はまったく役に立たない。もっぱら現代語における区別が問題だからである。
«もっぱら現代語における区別が問題だから»
«もっぱら現代語における区別が問題なので»
と並べて書くと、代替が効かないのは文脈次第で、本当に説明が困難です。
どうも、お邪魔しました。