内的自己対話-川の畔のささめごと

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レヴィ・ブリュール『原始的心性』(La mentalité primitive)を読む(9)― 予見不可能性

2015-06-14 15:41:51 | 読游摘録

 『未開社会の思惟』における分析は、客観的な空間的組織よりも主観的な共同的行動がより大きな社会的機能を果たしている様々な社会における知覚の諸形態をその対象としている。その分析は、共同的行動に際してそれらの社会が依拠する諸指標を記述する。その指標とは、記憶、数量化、抽象化などの諸形態である。しかし、その分析は、それらの指標が、「私たち」がそれに慣れ親しみ、それに従って生きている西洋近代の論理の堅固な構築性に対して、「不適切」であることを結論として導く外はなかった。なぜなら、「私たちの論理」は、合理的なある秩序の中で諸事物を区別することによって、世界をより予見可能なものとしようとするものだからである。
 未開社会に観察される、予見可能性に関して「不適切な」世界観を前にして、「私たち」はこう問わざるをえない。「私たち」の世界観に比べて、はるかに予見不可能な出来事に左右されているこの世界観を、どのようにして内側から理解すればよいのか。その世界を解釈するだけではなく、その中で現実に行動し、その中で出来事をそれなりの仕方で予見することを可能にしている「彼ら」の世界観を、「私たち」は、どう理解すればよいのか。
 1910年の『未開社会の思惟』においては、このように外側から問われていた未開社会における世界観の問題が、自らがそこに生きる社会の問題として問わざるを得なくなる歴史的出来事がレヴィ・ブリュールを襲う。第一次世界大戦である。もちろん、この大戦がヨーロッパ社会にもたらした精神の危機は、レヴィ・ブリュール個人が直面した社会学的・人類学的問題を遥かに超える次元にまで達していたのは言うまでもない。しかし、私たちは、レヴィ・ブリュールの心性の社会学の中に、ヨーロッパ精神が自らの危機に直面して、内側からそれを超克しようとする一つの真摯で謙虚な精神的努力の表現を見ることができるだろう。
 戦争経験は、レヴィ・ブリュールに、それまでのように安定的であることを止めた世界の中での行動形態を発見させる一方、その新しい世界の中でもまた作用し、その世界をそれまでとは違った仕方で予見可能にしようとする「見えない諸力」(« forces invisibles »)を新たな光の下に見ることをも可能にした。1922年の『原始的心性』において、「未開人」心性の分析は、科学的論理の枠組みの中にとどまったままでの形而上学的な戯れであることを止める。それは、不確実な世界において行動するとはどういうことなのかを内側から理解する試みへと変容したのである。
 私たちは、つねに多かれ少なかれ予見不可能な世界の中に生きている。近代合理主義によって生み出された諸科学がもたらした、あるいは今ももたらしつつある諸知見とその応用は、世界における予見可能な領域をますます時間的にも空間的にも拡大しつつある。人類は、この世界の中で生存し続けるかぎり、出来事・諸現象の予見可能性を高めようと努力し続けるだろう。しかし、それにもかかわらず、いつでも予見不可能な出来事は発生しうる。
 このほとんど根本的と言ってよい世界内在的予見不可能性に対して、社会的存在である私たちは、いかに知覚世界における共同的行動によって対処するのか。どのような社会でも問われうるという意味で普遍的なこの問いが、『原始的心性』を今日の世界の中で私たちに読み直させるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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