いわゆる「鎖国」体制下での外交の窓口としての「四つ口」論を最初に打ち出したのは荒野泰典で、1981年のことであった(初出は、『講座 日本近代史2 鎖国』〈有斐閣〉所収の論文「大君外交体制の確立」。後に『近世日本と東アジア』東京大学出版会、1988年に収録)。
その四つの口とは、中国・オランダを中心とする長崎、朝鮮に対する対馬、琉球に対する薩摩、アイヌに対する松前のことである。幕府は、これら四つの「口」のうち、長崎を直轄領として対外関係全般の管理統制の中心とするとともに、他の三つの「口」での対外関係は、それぞれ対馬藩・薩摩藩・松前藩に管掌させていた。
この「四つの口」論は、いまでは高校生向けの学習参考書にも簡単な記述が見られるようになっている。例えば、山川出版社の『詳説 日本史研究 改訂版』(2008年版)には、次のような記述がある。
こうして長崎・対馬・薩摩・松前の四つの窓口を通して、幕府は異国・異民族との交流をもった。近世のアジアにおいて、伝統的な中国(明・清)を中心にした冊封体制が存在する一方、明清交代期を契機に日本を中心にした四つの窓口を通した外交秩序が形成されたことに注目する必要がある。(256頁)
いわゆる「鎖国」体制が確立された1640年に外交の窓口は上記の四つ場所に固定化されるが、人々の間に「四つの口」という意識が生まれるのはずっと後のことで、十八世紀末以降である。それは「鎖国」という言葉そのものが初めて翻訳語として使われた十九世紀始めと時期的にほぼ重なる。
ロナルド・トビ氏によれば、「今日では研究者レベルでは「鎖国」=「国を完全に閉ざしていた」という認識はほとんど否定されている」(『全集 日本の歴史 第9巻 「鎖国」という外交』小学館、2008年)と言ってよい。
トビ氏は同書で、「「鎖国」イメージのなかでは、「四つの口」と呼ばれるこれらの窓口は、「鎖国」の例外とされてきた。だが実際には、「鎖国」が方針で「四つの口」が例外だったのではなく、「四つの口」こそが幕府の方針だったのである。現在でも外国人が日本に入国するときには、空港や港など限られた場所からでないと入国できないように、貿易品や人の出入りを管理するのは、国家として当然のことである」とも述べている。
今日の研究者レベルで共有されているこのような視角から近世日本を見直すことも講義の目的の一つである。
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