機械性はそれ自体において自足的ではない。機械的説明は既得の習慣には適用され得るが、ある一つの新しい習慣の形成は機械的・自動的には発生しないし、習慣形成という「自然」現象に機械論的説明を適用することはできない。
ラヴェッソンの自然哲学の要を成すこのテーゼは、十九世紀後半のフランスの実証主義的スピリチュアリスムの系譜の中で継承されていくが、ほぼ時を同じくして大西洋の向こう側アメリカにもこのテーゼに非常に近い主張をしていた哲学者がいる。チャールズ・サンダーズ・パース(1839-1914)である(昨年12月30日から今年の1月1日にかけての記事と1月25日・26日の記事を参照されたし)。
1898年、パースはハーヴァード大学があるマサチューセッツ州ケンブリッジ市内で自身の哲学について八回に渡る連続講演を行うが、その第七講演がまさに「習慣」と題されているのである(この講演は、この連続講演の他の五つの講演とともに岩波文庫の伊藤邦武訳『連続性の哲学』に収録されている)。第八講演「連続性の論理」の中で、唯物論者と自分の哲学の違いに言及しながら、パースは次のように主張する。
これに対してわたしが主張するのは、存在するものはすべて、第一に感情であり、第二に努力であり、第三に習慣である、ということである。これらはすべて、われわれにとっては、その物質的な側面よりも精神的な側面の方が良く知られているものである。一方死んだ物質とは、習慣が完全に硬直化して、感情の自由な遊びや努力の非合理性が完全に死滅した末の、最終的な結果でしかない可能性がある(岩波文庫261-262頁)。
この一節を読んで、私たちは直ちにラヴェッソンの習慣論との親近性に思い至らないわけにはいかないであろう。
講演「習慣」の結論部では、自然の諸法則はどのように形成されるのかと問い、パースは次のように予測する。
すべてのもののうちでもっとも可塑性に富むのは人間の精神であり、その後に来るのは有機体の世界、原形質の世界である。そしてまさしく一般化する傾向は、人間精神の大原則であり、観念連合の法則、習慣獲得の法則となって現われている。また、すべての活発な原形質のうちにも習慣を獲得する法則が見られる。したがってわたしはこれらの考察から、宇宙の諸法則は、一切のものが一般化と習慣獲得へと向かう、普遍的な傾向性のもとで形成されてきた、という仮説に導かれたのである(同書221頁)。
私たちはこのパースの予測とラヴェッソンの習慣論の次のテーゼとを重ね合わせてみることができるだろう。
En descendant par degrés des plus claires régions de la conscience, l’habitude en porte avec elle la lumière dans les profondeurs et dans la sombre nuit de la nature. C’est une nature acquise, une seconde nature qui a sa raison dernière dans la nature primitive, mais qui seule l’explique à l’entendement. C’est enfin une nature naturée, œuvre et révélation successive de la nature naturante (Ravaisson, De l’habitude, op. cit., p. 139).
意識の最も明瞭な領域から次第に下降していくに際し、習慣は意識の光と携へて自然の奥底へ暗夜へと下つて行く。習慣は、獲得された自然、第二の自然であつて、これは第一の自然の中に究極の根拠を有し、しかも唯これのみが第一の自然を悟性に対して解き明かすのである。つまり習慣は「生まれた」自然である、「生む」自然の相継ぐ業績であり啓示である(ラヴェッソン前掲書『習慣論』野田又夫訳)。
追記 今日の記事は、Anne Fagot-Largeault の論文 « L’émergence »(dans Daniel Andler, Anne Fargot-Largeault, Bertrand Saint-Sernin, Philosophie des sciences II, Gallimard, collection « Folio essais », 2002, pp. 951-1048)に基いて書かれている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます