暁の空に響き渡る歌声。
まだ薄蒼い空気の中を、冴え冴えとしたメロディが流れてゆく。
その清らかさは、いつもどんな時も私の胸を振るわせる。
喜んでいるのか。
哀れんでいるのか。
中性的な微笑みからは、うかがい知れない。
幾千の時が流れても。
きっとこの歌声だけは残されていくだろう。
時と共に風化していく全てのものの中で。
この歌声だけが。
その美しさだけが。
時を越えて語り継がれていくだろう。
そんな風に思わせる調べだった。
ノアールはその名のとおり「黒い」瞳の持ち主で、いつも不敵な微笑みを浮かべている。
白磁器のような滑らかな肌は、太陽の光よりもむしろ月光の方が美しく映えた。
宮廷という閉塞された空間にいて、ノアールは一筋の光を放つ。
宮廷歌手として、宴の夜に現れた姿を私は鮮明に思い出すことが出来る。
華奢な体を煌く砂金で装飾し、ベルベット地のマントをひるがせて、颯爽と登場した。
仮面の奥から、深遠な何かを見つめるように虚空に目を凝らす。
紅を塗ったように赤い唇から、最初の一声が漏れた時、宮廷は一瞬でノアールに魅了されていた。
どこまでの伸び行く高音。
それは晴れ渡った夏空のような涼やかさよりも寧ろ、荒廃した砂漠を渡る風のような。
そんなどこか物悲しさを漂わせていた。
私は圧倒されながら、ノアールに目を奪われていた。
心を奪われていた。
陶酔するような夢見心地で、歌声に抱かれながら、それでもどうしても分からなかった疑問を隣の将軍に問いかける。
「あの者は・・・男なのですか?女なのですか?」
将軍はやはり目を奪われながら、意味深に微笑んだ。
「あれはノアール。男でもなく。女でもない。性を超えた存在なのだ。」
その時の将軍の、まるで謎賭けような言葉が、実は真実だったと知ったのはそれから随分後だった。
宴の後のほてった体を冷やそうと、バルコニーに降り立った時。
そこにノアールがいた。
ただそこに佇んでいるだけで異彩を放つノアールは、時折こんな風に気配を潜ませることがある。
人ごみの中に、自分を埋没する術を知っているのだと思う。
バルコニーに立つノアールに、そっと私は近づいた。
ぶどう酒の杯を持ちながら、相変わらず挑戦的な瞳で私を見ていた。
「素敵な、歌声だったよ。」
私はそう言うと、ノアールは上目使いに私を見て、小さく微笑んだ。
軽くあしらわれているようにも見えるし、人見知りしているようにも見える。
ノアールらしい、曖昧な微笑だった。
「私は戦で長らく宮殿に来ることはなかったのだけれど・・・君のような宮廷歌手がいるのだったら、もっと頻繁に足を運ぶべきだったな。」
「・・・・。」
「・・・・。」
言葉が続かない。
ノアールは聞いているのかいないのか、口元だけは変わらずに微笑んでいる。伏目がちな瞼の奥に見える、黒曜石の瞳が艶やかに光るのが見えた。
「王様に気に入られたのさ。」
不意に鈴が鳴るような声がした。
あまりに高く涼やかな声だったので、初め幻聴かと思った。しかし私を見据えるノアールの瞳を見て、それが彼の地声なのだと気付いた。
「召抱えられた。」
「そんな言い方はよせ。」
私の言葉に、ノアールは悪戯っぽく肩を竦めた。
「いつの時代でもおんなじだろう。」
「でも。」
「いいんだ、気にしてない。歌えれば、それでいいんだ。」
そう言ってノアールは、舞台を降りる時のような大袈裟な一礼をすると、黄金色の玉座の元へと歩いていった。玉座の肘掛に腰かけるノアールの顔は、ぞっとする程妖しく艶めいいる。先ほどの、まるで少女のような声の持ち主とは思えない。
天使に愛されるような歌声を奏でながら、同時に悪魔のように強かに生きるノアール。
私は呆然として、ただただ目が離せなかった。
カストラート。
女性でも男性でもなく。そして同時に女性でもあり男性でもある。
それは一種のシャーマンのような存在なのではないか。
だからこそ、人はノアールに惹かれるのではないだろうか。
儚い恋心を抱くのではない。畏怖に近い思いを、歌うノアールに抱くのだ。
その神々しさは、あまねく天地を支配していると言われても納得出来るような、そんな幻想を抱かせるのだ。
今私は上空を見遣って、高い鉄塔に立つノアールの姿を見つけた。
その胸に飛来するものは、どんな思いなのだろうか。
民衆に掴みかかられ、引き倒され、無様に地を這うかつての王を、どんな瞳で見下ろしているのだろうか。
哀れみか。
憎しみか。
悦楽か。
それとも・・・無心か。
でもどんなに目を凝らしても、ノアールの思いを見透かすことは出来ない。
しかしそれは、いつもそうだった気がする。
栄華の夜の中で、ただノアールは歌うだけ。何かを求めることもなく、何かに執着することもなく。誰かを愛することもなく、愛されることにも無頓着だったように思う。
ノアールは、ただカストラートで在り続けた。
暁の空に響き渡る歌声。
まだ薄蒼い空気の中を、冴え冴えとしたメロディが流れてゆく。
見晴るかす鉄塔の上で、ノアールは歌っていた。
そしてそれは、滅び行く一つの王朝への弔いの歌だった。
ギロチンへの道のりを歩みながら、王は一度だけ振り返った。
歌うノアールを見遣る瞳には、哀しみよりも懐かしさよりも、むしろ畏敬の念が込められていた。
そう。結局誰もノアールを手に入れることは出来なかった。
蒼空の中に響き渡るソプラノと同じ、手を伸ばしても届かない遠い場所にいるのだ。露に満ちきらきらと光る雲間の中を、まるで思い出したかのように翼を広げたとしても、きっと私達は何の疑問も抱かずに信じられるだろう。
カストラート。
人でありながら、人でない。
男でもなく女でもない。同時に男であり、女でもある。
全ての性と条理と真理を、卓越した存在なのだ。
ノアールはそっと手を伸ばし、虚空に薔薇の花びらを放った。
紅い花びらがひらひらと風に靡き、一斉に紅い蝶になったように見えたのは幻覚か。
少なくとも降りそそぐこの歌声が、我々の未来を祝福するものであることを、私は一心に願っていた。