川勝平太を頼みに知り合いを回っていると時々聞かれることがあります。
「なぜ川勝さんは、出馬しないといっていたのに出馬したのか?決断力がないんじゃないか、ブレているんじゃないか?」です。
新聞だけを読んでいると確かに誤解されてしまいますので、丁寧に説明しています。
一言で言えば「川勝さんの文化芸術大学に懸ける熱い思い」と、「義の精神」からでた誤解です。
このことを正しく伝えられるのは、川勝さん本人か、川勝氏擁立の一番最初(5月17日)から、出馬決意(6月5日)に至るまでずっと見続けていた私たちしかいないかもしれません。
文化芸術大学は京都大学出身の“西の哲人”高坂正尭先生がその設立に向けて精魂傾けた大学です。
残念ながら高坂先生は96年に急逝されてしまいますが、その遺志はご子息から寄贈された「高坂文庫」に残されました。
この「高坂文庫」は京都大学研究室にあった貴重な資料が文芸大に移管されたものです。
高坂先生の逝去によって初代学長に就任されたのが、“東の哲人”東京大学出身の木村尚三郎先生でした。
愛知万博の総合プロデューサーを務められたりして活躍された先生ですが、06年病魔に倒れご逝去。
そのあとの学長として、石川理事長(石川県知事)から“三顧の礼”をもって迎えられたのが川勝平太氏でした。
歴代内閣のブレーンを務め安倍内閣の「美しい国」や、静岡県の「富国有徳」といったキャッチフレーズも川勝氏の著書から引用されたものですから、東西の哲人たちの後を任せられる最高の学長であることは疑いようもありません。
こうして川勝氏は静岡文化芸術大学2代目学長に就任されました。
5月20日に川勝先生と初めてお会いしたとき、先生はこう述べました。
「私は石川理事長(石川県知事)が知事選に出なさいといえば出ます。
しかし、そんなことは100%無いでしょう。それでも出るとしたら私が学長を首になったときか、私自身が辞表を提出したときです」
同日午後、私たち4者と自民党決起Gは民間出身の県知事を擁立するための「夢あるしずおか創造会議」を立ち上げました。
その際に自民党県議が報道陣の誘導質問に引っ掛けられて、ついつい「川勝平太」の名前を出してしまいました。
記者会見終了後、文書にて個人名の報道規制をお願いしましたが時既に遅く、夕方のテレビニュースや翌日の朝刊に報道されてしまいました。
5月21日、大学にマスコミが殺到し、学内は大騒ぎです。
川勝先生は取材に応じ、「99.99%ない」と発言し、それが「出馬なし」の報道となるのです。
川勝先生からすれば“三顧の礼”をもって迎えてくれた石川知事を裏切ることはできませんから当然の発言です。
この川勝発言に驚いた自民党決起Gは、自民党県連から出された文書注意処分により足を止められてしまいます。
5月26日、決起Gを除いた4者で正式に川勝先生に出馬要請を行ないました。
これを知ったマスコミは翌27日、また大挙して大学に押しかけます。
大学理事会終了後にマスコミ取材を受けた川勝先生は、再度「出馬なし」とのコメントを発しますが、翌日流された報道に対して「自分が申し上げたかった内容が正確に伝わっていない。正式な回答は6月5日にする」との文書をマスコミに配りました。
実は27日に行なわれた理事会で石川理事長が退任されたものの新理事長は決まらずに、6月5日の理事会に延期されていたのです。
6月5日に開催された理事会で新理事長に石川県知事が再任されました。
再任された石川理事長に川勝先生は辞表を提出し、午後の出馬表明に臨まれたのです。
任命権者である石川知事との義理は5月27日で果たせましたから、後顧の憂い無く県知事選への出馬を決意できたのです。
川勝さんの心の中は実に明快であり、万にひとつものブレはありませんでした。
見事なくらい士の心をもった素晴らしい人間です。