城郭探訪

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「城郭探訪」フォトチャンネル一覧

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ch 356234
彦根城外堀探検会 2012.12.21
 江戸時代、徳川譜代大名筆頭格として知られる彦根藩主井伊家歴代の居城として営まれた近世城跡。一六〇四年に築城が始まり、約二十年かけて完成した。今回、城跡の南東部に位置する外堀の一角、土塁が良好に遺存する地点が追加指定されるもの。  市教育委員会によると、彦根城の外堀は一六一五~二二年の第二期工事後半に完成したと考えられ、総延長は三・八キロ。  このうち今回、追加指定されるのは、土塁が良好に保存された同市錦町、中央町一帯の約千三百平方メートル。  明治維新後、埋め立てが進む中、土塁と堀が認識できる唯一の遺構だった。 市教委の今年三月末から七月にかけての発掘調査で、高さ五・五メートル、上端幅四メートル、下端幅十七メートルの台形状の土塁が二十三メートルにわたって存在していることが判明し、市教委は文化庁に報告書を申請していた。  彦根城跡は昭和三十一年(一九五六年)に特別史跡に指定後、初の追加指定で、外堀の指定も初めてである。
更新日時2015-12-20 21:11:10
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ch 354697
アフター関ヶ原合戦 彦根平田山城・徳川家康陣城跡
11/29日 日曜組  ★平田山城新規巨大詳細図面発表★ 徳川家康 没後400年 本格城郭見学 特別企画 アフター関ヶ原合戦 彦根平田山城・徳川家康陣跡の復活彦根平田町信号雨壺山/旧彦根市火葬場駐車場10時  現定20人 早いもの勝ち 参加費1000円  米原市文化協会 城歩会 平田山城見学会 11/29と11/30 資料に登場する関連人物   1 観音寺 六角定頼     蒲生郡野寺城主 吉田安芸守 日置流弓術家   2 長浜市高月町出身     江北一の剛弓、勇将磯野為員(宮澤平八朗)     3 徳川家康と井伊直政の佐和山城攻め本陣
更新日時2015-11-30 23:40:13
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ch 354613
佐久間玄蕃盛政の行市山陣城と前田利家の別所山城の見学会
 2015.11.28は時雨ました。少し暗い気分でウッデイパル余呉の森林文化センターに到着すると多数の城郭愛好家が、東京、愛知、三重、兵庫、大阪、和歌山など次々集合 県内は長浜市、彦根市、米原市、東近江市、近江八幡市、大津市から、ぞくぞく到着冬なのに余呉は異様な熱気。私達は先ず別所山城と行市山城を濃霧の中を登山して是 を次々に見学攻略。 行市山頂で講師は立ったまま、賎ヶ岳合戦弁当を食べる。参加者の体温を保つ為に早速下山。行市山城、別所山城を再度見学。ロープで足場も確保、講師は此処で徒歩下山しながら橡谷山城、中谷山城などの柴田勝家陣営の陣城も併せて県内外の人々にスペシャルプライスとして是を付加見学。結局は、行市山城、別所山城、橡谷山城、中谷山城などの4城を次々に見学攻略して毛受兄弟の墓も見学する、なんと五段構えの見学33人の陣容で、行市山麓に無事到着。
更新日時2015-11-29 23:38:08
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ch 354296
【近江歴史探訪】大名庭園と竹生島を訪ねて
日時】平成27年11月21日(土)10時 〜 16時頃 ※小雨決行 【場所】JR彦根駅〜玄宮楽々園〜お浜御殿庭園〜竹生島〜夢京橋あかり館 【集合】JR彦根駅 【解散】夢京橋あかり館(滋賀県彦根市本町2丁目1-3) 【定員】60名(20名×3班)※先着順・定員になり次第受付を終了します。 ※各班同じコースを時間差で探訪します。 【対象】やや健脚向け(歩程約7km。竹生島の参道は急傾斜です。) 【行程】各班共通 ≪集合≫JR彦根駅西口 → 玄宮楽々園 → 旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園 → 彦根港 →(航路)→ 竹生島 →(航路)→ 彦根港 → 夢京橋あかり館≪解散≫ 【費用】1,100円(ガイド料・入園料・拝観料) ※竹生島航路乗船運賃として3,500円が別途必要です。乗船時に各自でお支払いいただきます。 【持物】健康保険証(コピー推奨)、弁当、水筒、歩きやすい服装等
更新日時2015-11-26 13:13:42
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ch 354066
西岡城を見て 唖然絶賛!
今後この城が湖西線や北陸腺の合流する場所として、国道303や国道8号の交わる交通の要衝として、我々滋賀県民に大きな貢献をもたらしてくれ、 城の研究上では、天正11年賎ヶ岳合戦の頃の佐久間玄蕃盛政の行市山陣城に、土塁構成や縄張構成が類似しており是非一見の価値ある十二分の屈指の遺跡と思います。 西岡城=遺跡見学会  1 主城 2西城 3東砦 4見張砦 西岡城は塩津熊谷氏の宗家「国人衆」、熊谷下野守直房の居城と、推定される、壮大堅固かつ顕著な中世城郭遺跡。  西岡城の特徴=主郭 土塁全長25間 (因みに、佐久間玄蕃盛政行市山城 土塁全長25間)  ・土塁の総囲いからなる。織豊系城郭=天正11年期の賎ヶ合戦に、改修をうけた可能性を示唆する、矩形土塁の縄張、北西に2ヶ所馬出的機能。  ★ 遺跡の残存状態が異常なほどに良好。城跡の土塁も明瞭に見学可能。  B 中世城郭として完成度の高さ。土塁の美しさ、堀切の鋭利さ、大掘切の深さ。 甫庵太閤記巻第六  丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事長秀其比は若州并江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表に三千、塩津海津に七千賦り置、江北を静めける処に…云々
更新日時2015-11-23 22:49:03
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ch 354005
鎌刃城見学会(隅から隅まで)
お城の概要 大堀切から北の尾根を少し下ると堀切がある。さらに大堀切の西斜面を南へ100m行くと大石垣が見られる。 大堀切の南斜面を登ると北副郭に着く。登り切ったすぐの大穴のところが大櫓跡らしいです。中央東側には石垣造の桝形虎口、一段上がった南の曲輪には物見櫓の西側斜面に角石垣と小石垣が残っている。 北副郭の段々曲輪を登ると主郭へたどり着く。主郭北面に石垣造の桝形虎口、南面には土塁跡があり、土塁上に木製の鎌刃城趾碑が建っている。 土塁下に堀切があり、主郭南側が南副郭です。南副郭の奥に土塁跡と消えかけた説明板が建っている。 南副郭の土塁下には深い堀切、鎌刃城の名の由来である南の尾根に続く鎌の刃のような細い土橋が続き、堀切が途中にあります。 歴 史 土肥氏が築城、のち堀氏が居城する。 文明四年 (1472) 坂田郡の土豪今井秀遠が堀次郎左衛門の籠る鎌刃城を攻める。 文明十八年 (1486) 多賀宗直に属する鎌刃城主堀氏成が今井秀遠に攻められる。 天文二年 (1533) 同四年(1535)、同七年(1538)に近江守護六角定頼が今井定清に命じて鎌刃城を攻め島秀安が城代となる 佐々木六角氏に降った堀氏が再び城主となる。 禄二年以降 (1559) 浅井方の城となる。 元亀元年 (1570) 浅井長政は織田方に降った堀氏に換えて百々越前守を入れる。 姉川合戦後には織田信長が堀氏を最前線基地となる。 元亀二年 (1571) 浅井軍に攻められるが、横山城を守備する木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の加勢により落城を免れる。 天正二年 (1574) 堀氏が改易され廃城となる。 坂田郡では、旧近江町寺倉の西隣の大字西円寺にある西円寺館は、今井氏の一族寺倉氏の屋敷とあげられ、旧米原町の三吉・寺倉には地頭山城があって、堀氏が築城して守備した鎌刃城(番場に所在)の支城であり、浅井長政の頃は今井氏が守備し、三吉の門根城は浅井家臣堀氏の屋敷だと記されます。 永正七年(1510)頃の浅井家臣に、坂田郡箕浦城を本拠とする今井肥前守がおり、その墓が西円寺にあるといわれます。寺倉にある禅寺・総寧寺(そうねいじ)は、亨禄年中に兵火にかかった後、新庄氏によって再建されました。 これらに見える今井・寺倉・堀・新庄はみな同族で、藤原秀郷流と称されます。
更新日時2015-11-23 12:17:04
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ch 353554
近江の城郭【境目の城~長比(たけくら)城】
戦国時代の近江では江北を支配する京極氏・浅井氏と、江南を支配する六角氏が勢力争いを繰り広げており、現米原市域は両者の勢力圏の境界に位置していました。またその東側は美濃と国境を接しており、領国の境界でもありました。こうした境界警備を目的として築かれた城を「境目の城(さかいめのしろ)」と呼んでいます。米原市長久寺の長比城はそうした境目の城のひとつで、元亀元年(1570)、浅井長政が織田信長に敵対し、近江と美濃との国境付近に築いた城です。標高400mの野瀬山の山頂部にあり、土塁(どるい)や食い違い虎口(くいちがいこぐち)などの遺構を見ることができます。  今回の講座では、濃尾国境に位置する長比城跡を、文化財専門職員の案内で御覧いただきます。
更新日時2015-11-23 21:42:10
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ch 353260
永源寺の山城と森のハイキング
鎌倉時代から戦国時代にかけて佐々木六角につかえた豪族小倉氏の山城を歩くコース。秋が深まる緑の森の中のハイキングです。 山上口バス停(集合)→山田城跡→八尾城跡→星野溜→愛郷の森・池田牧場(昼食)→高野城跡→おなべの方の居城→山上小倉城→山上口バス停(解散 (歩程 約10km)
更新日時2015-11-24 11:33:37
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ch 351648
堂木山陣城・神明山陣城見学会 2015.10.24
余呉城郭フォーラム【堂木山陣城・明神山陣城見学会】 賤ヶ岳の合戦  北国街道を南下し、江北に着陣した柴田軍が行市山を中心とした山麓に展開して砦を築くと、羽柴軍の天神山砦は標高も低く、羽柴軍の他の砦からも突出した形となり、秀吉は天神山砦を捨て木村隼人等に堂木山砦、蜂須賀正勝に神明山砦を築かせて防御ラインとした。 天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれた。調略によって秀吉方に寝返った長浜城主:柴田勝豊(病床の為)の重臣で長浜衆と呼ばれた山路正国、大金藤八郎らが堂木山砦に布陣していた、山路正国は砦を脱走して柴田方へ走った為、その後には木下半右衛門が入った。 神明山砦は余呉湖の北岸にあり、北東へ伸びた丘陵の頂部、標高294.5mの山頂に築かれている。天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれた。城将は蜂須賀彦右衛門尉家政と木村小隼人重茲であった。同じ尾根の北東先端には堂木山砦、南西には茂山砦がある。 神明山陣城は、天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれた。城将は蜂須賀彦右衛門尉家政と木村小隼人重茲であった。
更新日時2015-10-29 14:55:14
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ch 351018
金剛輪寺城  近江国(秦荘)
天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。 本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。 【金剛輪寺】は元寇の役(蒙古襲来)の戦勝記念として、時の近江守護職・佐々木頼綱によって建立された本堂は、鎌倉時代の代表的な和様建造物として国宝に指定されています。堂内には御本尊をはじめ、阿弥陀如来坐像、十一面観音立像など平安から鎌倉時代の仏像が安置され、その多くが国の重要文化財に指定されています。
更新日時2015-10-27 23:17:01
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