城郭探訪

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寺村城(寺村館) 近江国(蒲生)

2014年01月12日 | 平城

 

 得照寺

 

寺村城の土塁の一部寺村城(てらむらじょう)は寺村城の土塁の一部http://yahoo.jp/2RIAo0

寺村氏によって築かれた平城である。寺村館(てらむらやかた)ともいわれる。

近江寺村城の築城年代は室町期ともいわれるが定かではない。

位置は旧近江国蒲生寺村地域で、土塁の一部が現在の滋賀県東近江市蒲生寺町40番地と綺田町351番地の境あたりに残っており、「高薮」と呼ばれる竹藪から得照寺を含めた西側一帯が寺村城址である。現在も土塁の一部が約10m程度残っている。

天正年間には寺村半左衛門が居城した記録が残っている。

『近江蒲生郡志』によれば、寺村城址近くの得照寺は、天正年間に寺村半左衛門の邸地に草堂を営んだことに始まる。

得照寺の宗派は西本願寺(正式名称は本願寺)を本山とする浄土真宗本願寺派である。

寺村城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』logo
 
所在地:東近江市蒲生寺町寺 (旧:蒲生郡蒲生町寺) マップ:http://yahoo.jp/arUX9e
別 名:寺村館
城 郭:平城
築城主寺村盛久
築城年:室町期
主な城主:寺村半左衛門盛久
遺 構:土塁・得照寺
訪城日:20131.12

 

 

この近くに『小姓が淵』という場所があり、ここは日本書紀の人形伝説のある。

http://yahoo.jp/_h67HK

寺公民館 駐車5~6台可http://yahoo.jp/GGZSNw

寺村橋の上の方に、小姓が淵という所があります。今はすっかり埋まってしまい、跡形もありませんが、数十年前までは、まだ、冷たい清水が湧いていました。ここで泳ぐと、「人魚が出て来て、足を引っ張るから、早く帰っておいで」と、言われた所でした。


小姓が淵は大字名が示す様に、大きな寺が二つもありました。二つとも天台宗の寺で、この寺の住職の身の回りを世話する男の小間使いが、幾人かいました。いつも、美しくお化粧をし、袴をはいてお手伝いをしていました。小姓が淵の「小姓」とは、身の回りの雑用をした少年という意味せす。
ある夏の事、二人の小姓が、夏の暑さにたまりかね、佐良久川の上流へ、涼を取りに泳ぎに行きました。水がよどんで、大変深そうな所で泳ぐことにしました。いまでいう、準備運動をせず、入水したのです。清水が冷たく、心臓麻痺を起こして死んでしまいました。
 この事があってから、やがて村の人々の間に、「人魚」が出るという噂が広がりました。この人魚が、大水で下の方に流されてしまい、それが、川合の願成寺にある「人魚のミイラ」になったと、言われています。
 そのミイラはもと明治の中頃、日野のある人が、松平城主より大金で買い受けたものでした。ところが、買い受けた後、夜な夜な、家中の者がうなされ、大声をあげたりして、夜も寝られなかったのです。あまりにおかしいので伺ってもらいましたら、
「私らは修行して僧になる身だったのに、修行中、人魚になり、こんな醜い姿となって、人の前にさらされる身となりました。こんな取り扱いをされているのは、情けない事です。念仏の声のする所に行きたいのです。」と言って、さめさめ泣いているということです。
大金を出して買ったものですが、「こんなに苦しんでいるとは、一大事」と、はじめ、流れ着いた場所へ持って行って、さらに観音様のお慈悲にすがってもらわねばと思い、願成寺に届けられたということです。
体長は六十センチばかり、桐の箱に入って、「顔は猿の如し」と聞いています。三十年に一度の秘仏聖観音の御開帳の時、一部の信者にだけ拝観させています。

この小姓が淵の話は日本に二十二か所の人魚伝説がある内の一つで、日野にも「人魚塚」があると聞いています。

寺村氏

家紋丸に隅立て四つ目結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
本姓:宇多源氏佐々木氏流
種別:武家
出身地近江国蒲生郡寺村
主な根拠地:近江国・土佐国
著名な人物:寺村小八郎・寺村半左衛門・寺村重友・寺村道成
 

寺村(てらむら)氏は、日本の氏族。

概要

宇多源氏佐々木氏の庶流。家紋は佐々木氏の代表家紋である「平四つ目結」から派生した「丸に隅立四つ目結(まるにすみたてよつめゆい)」などを使用。近江国蒲生寺村の領主であったことから寺村の姓を名乗るようになり、室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に仕えた。六角氏の家臣の多くは国人領主であり、被官化されていたとはいえ独立性が高かった。

1563年(永禄6年)に六角氏の御家騒動(観音寺騒動)が起こると、六角氏本家だけではなく、南近江の国人連合の結束と勢力の衰退につながり、さらに六角氏が観音寺城の戦いで織田信長の上洛軍に敗れると、寺村氏一族は、浅井長政に仕える者、羽柴秀吉に仕える者、山内一豊に仕える者、蒲生氏郷に仕える者、蒲生郡小野村に居住する者などに分かれた。

近江寺村氏

寺村小八郎は、浅井長政に仕え、1570年に姉川の戦いに従軍し、以後1573年まで4年にわたり小谷城に詰めた。最後まで浅井家への忠誠を変えない者達に長政は感状を与えたが、有名なのが寺村小八郎に与えたもので、「ここ4、5年骨身惜しまぬお働き忠節これに勝るもの無く、ことに今度の籠城は誠に神妙に存じ候。愈々この上ともご奔走が大切、心底より望むところ確かりと申し付け候」がある。

寺村盛久(寺村半左衛門)は、蒲生氏郷に仕え、天正年間には近江寺村城に居城した。 蒲生氏郷の伊勢、会津への移封に従い、葛西大崎一揆の平定にあたっては、氏郷本隊の三段目を任された。

寺村家の枝連衆であった寺村重友は、当初は羽柴秀吉に仕え、その後、秀吉よりお預けの形で山内一豊に仕えた。天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となり、山内一豊の移封に従い、遠江国(静岡県)掛川を経て、土佐国(高知県)に移り、初代土佐寺村氏となった。

本陣寺村氏(近江)

六角氏の滅亡後に、寺村行隆と、その子寺村規行は病身であることから武士を捨てて小野村に移り、本陣役を務めるようになった。寺村規行には2人の兄弟があり、共に長浜城主であった山内一豊に仕え、のちに土佐へ入った。 佐和山城の落城後は小野宿は廃止され、1603年(慶長8年)、中山道の整備に伴って小野村から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣役を務めていた寺村庄兵衛は鳥居本に移り、引き続き鳥居本宿でも本陣役を務めた。寺村規行から数えて10代目の寺村義貴の時に、本陣は廃止となった。

本陣寺村家の家紋は「五段梯子(はしご)」であるが、『綱要日本紋章学』(昭和52年)によれば、「土佐山内氏家臣寺村氏が、梯子を用ひて天正十八年山中城に乗り込んだ武功を紀念するために用ひた」のが梯子紋の歴史上の登場とされている。

土佐寺村氏

当初は羽柴秀吉に仕え、秀吉よりお預けの形で山内一豊に仕えた寺村重友は、天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となった。山内氏の遠江国掛川入封時は家老職400石、土佐国入封時は中老格4400石を給され、初代土佐寺村氏となった

二代目の寺村淡路重次は3200石、三代目の寺村主膳重昌は山内可氏の三女を妻に迎えた。

また、四代目の寺村淡路重信は、山内可氏の子である山内定氏の長女を妻に迎えた。

幕末には、寺村成相(中老格700石)の三男寺村道成(左膳)は参政として藩政の中枢にあった。薩長に近づきたい土佐藩は、ついに1867年(慶応3年)の6月に京都の三本木の料亭吉田屋において土佐藩と薩摩藩の首脳会談をもった。土佐からは後藤象二郎・寺村道成、薩摩からは小松清廉・西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保利通、仲介人として坂本龍馬・中岡慎太郎が参加し、薩土盟約を締結した。盟約破綻後も大政奉還路線を進め、主君山内容堂ほか4名(後藤象二郎・寺村道成・福岡孝弟・神山左多衛)の連名で大政奉還建白書を提出した。幕末の政治活動を記した『寺村左膳手記』『寺村左膳道成日記』は、幕末の土佐藩の中心にいた人物の記録として貴重な史料である。

維新後、土佐寺村氏の多くは「日野」と改名し、家紋は「鶴に丸」を使用した。姓や家紋を改めた理由は不詳であるが、公家の日野家との古くからの関係から「日野」と「鶴に丸」を使用したようである。高知県立図書館の山内家宝物資料館所蔵『侍中先祖書系図牒』の系図には、「寺村」という箇所に「日野」と改めた紙が貼ってあり、家紋は「鶴二蝶梯子」とある。寺村道成は日野春草(春章)と改名したが、祐天寺(東京都目黒区)の日野春草の墓には「五段梯子」の家紋が刻まれている。

寺村道成の次の当主である日野成義(軍馬)は板垣退助の姉である勝子を妻に迎え、勝子は日野成文(次郎三)や山田平左衛門の妻となった信(のぶ)を生んだ。

寺村氏と「日野」の接点

  • 鶴紋を使う蒲生氏と関係があるとする説。近江国蒲生郡には日野町という場所があり、蒲生定秀(氏郷の祖父)が1533年(天文2年)から3年程かけて日野城を築城した。
  • 「鶴に丸」紋を使う公家の日野家と関係があるとする説。本願寺第三世である本願寺覚如の父覚惠は、日野広綱と親鸞の末娘覚信尼との間の実子である。浄土真宗の宗祖である親鸞は日野有範の息子であるため本願寺は日野家である。本願寺第十一世である本願寺顕如は、1557年(弘治3年)4月17日、宇多源氏佐々木氏嫡流である六角定頼の猶子の如春尼と結婚した。
  • 土佐寺村氏の初代寺村重友が日野家の流れを汲んでいたとの説があるが不詳である。
  • 近江寺村城に居城した寺村盛久の草堂から始まった得照寺は、親鸞を宗祖とする浄土真宗本願寺派である。
  • 日野唯心は、徳川家康側近の僧侶として仕え、崇伝、天海に次ぐ地位にあり、近江国蒲生郡に1,030石余の所領をもった。唯心の次代で、日野家は朝廷に仕える堂上家と、幕府に仕える高家に分かれた。

参考資料・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・滋賀県中世城郭分布調査

本日も訪問、ありがとうございました。