城郭探訪

yamaziro

田中氏館(下ノ城・南市城)    近江国(安曇川)

2013年07月07日 | 居館

お城のデータ

所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町田中南堀 map:http://yahoo.jp/NqWA6H
別 称:下の城・南市城
築 城:鎌倉期末
初城主:佐々木田中出雲守氏綱
区 分:居館

遺 構:地名

標 高:93m 比高差:ー

目標地:下ノ城バス停・稲荷神社・安曇川中学校

駐車場:下ノ城草の根ハウス周辺

訪城日:2013.7.6

お城の概要

安曇川中学校の西400m程の県道沿いにある稲荷神社から北へ少し行った辺りに築かれていたと考えられている。遺構はなく、この周囲に残る「北堀」、「東堀」、「南堀」、「堀ノ内」などの地名により推測する。

さて、南市城の遺構と思われるものは今日ほとんど残存しておらず、したがってその位置に関してもこれまで推測の域を出なかった。

しかしながら、現在使われている下ノ城周辺の小字名とそれの畦畔の観察を通じて、大体の南市城の位置を確認することはできる。まず、下ノ城集落とそれの南に伸びた道路までの水田を「南堀」といい、集落の北に伸びた水田を「北堀」という。また集落の東に接した水田を「東堀」というが、それに対応する西堀の小字名はない。そのかわりに北堀の西隣りに「戌亥堂」が、南堀の西隣りに「堀ノ内」がある。だが、この戌亥堂なるものが、果たして南市城に関連した建物であったかどうかは、今のところ明らかでない。つぎに畦畔についてであるが、集落は周囲の水田よりも若干高く、北辺は東西にほぼまっすぐに区切られており、その集落の北辺に接して幅七mの水田が平行に長く走っている。さらに、その北隣りの水田(幅一三m)も東西に長く延びている。残りの三辺のうち西辺の畦畔もほぼ同様に観察することができる。これによって、南市城は現在の下ノ城集落に重複していて、六五m×六八mの南北に少し長い方形プランの平城であって、周囲の幅七mの空堀跡を入れると七九m×八二mの規模を有していたことが知られる。(後略)」とあります。 

稲荷神社

お城の歴史

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「高島郡安曇川町田中字南堀」、別称は「下ノ城」、創築年代は「鎌倉時代後期」、創建者は「佐々木田中出雲守氏綱」

 城の歴史は「(前略)南市城は、上寺城と共に田中氏の居城(館)であって、佐々木高島氏の始祖ともいうべき高信の次男頼綱(朽木氏)が、次男氏綱を田中郷の地頭に任じて、田中氏を名のらせたことに始まる。

田中城(上寺城)に対する、田中氏の居館(下ノ城)。高島七頭の一人で田中城を詰城とした田中氏の居館。

田中氏は、高島高信の次男頼綱のさらに次男である氏綱にはじまる。田中氏は、いわゆる高島七頭の1つとして勢力をもった。
その後の田中城および田中氏について詳細は不明だが、元亀三年(1572)の織田信長の高島攻略によって、他の高島の諸城と同様信長に制圧されたものと思われる。


 ちなみに、江戸時代初期に柳川城主32万石にまで登りつめた田中吉政は、天文17年(1548)、筑後国主田中吉政は、田中重政の長男として近江国に生まれ、母は、浅井郡国友(滋賀県長浜市国友町)の地侍(じざむらい)国友与左衛門の姉。

田中氏の出自(しゅつじ)については、江戸幕府が編纂した系図集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』に、「先祖 は近江国高島郡田中村「滋賀県高島郡安曇川町田中」に住し、伯耆守崇弘のとき田中を称号する』としています。近江守護の佐々木氏の庶流の高島田中氏としています。

一方、田中吉政の出身地を浅井郡三川「滋賀県長浜市(旧:東浅井郡虎姫町)三川」とする説もあり、慶長9年(1604)正月に、吉政自身が寄進した三潴(みずま)郡大善寺の玉垂宮の鐘の銘には、「生国江州浅井郡宮部縣子也(あがたのこなり)」とあったようです。そして、田中家は、吉政の 正嫡忠政「吉政の四男」に跡継ぎがなかったため廃絶しますが、本家を継がなかった吉政の長男吉次の系統や三男吉興の系統は旗本として家が残ります。このうち、三男吉興の家に係わる系図(柳川古文書館蔵)の、吉政の父重政は、「江州浅井郡三河(川)村に蟄居、病死」したと記述されています。蟄居は本貫ですることが多い ことから、吉政の出身地を三川とする説も有力です。

この田中氏の出身と云われるが?。田中吉政は(現:長浜市)虎姫町三川城主で、 の、現在のところは真偽不明である。     

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、日本城郭体系、遺跡ウォーカー、高島の城、田中吉政公とその時代

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