城郭探訪

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赤尾氏館  近江国(木之本)

2013年12月11日 | 館跡

お城のデータ 

所在地 : 伊香郡木之本町赤尾 マップ:http://yahoo.jp/2q4EkR

築城年 : 不詳

形  式 : 平城(居舘)・・・現状;個人宅

遺  構 : 土塁、横堀、池

訪城日 : 2013.12.7

土塁

 

赤尾氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 

赤尾氏(あかおし、あかおうじ)

家紋は四つ柏。本姓は源氏を称する(『赤尾家譜』より)。しかし、近江国伊香郡発祥の伊香氏、並びに正親町三条家(嵯峨家)の支族(姓氏類別大観)の系統にも名が見えその出自は定かではない。

古くより近江国伊香郡赤尾(現滋賀県長浜市木之本町赤尾)を本貫地とし、土豪・国人領主として赤尾の地を治めた。

近江国湖北四家(赤尾氏、雨森氏、磯野氏、井口氏)の一つとされ、戦国時代にあらわれた赤尾清綱はもっとも知られている。また、北近江の戦国大名浅井氏にあって、清綱は海北綱親、雨森清貞とあわせて海赤雨の三将と呼ばれた。

京極氏家臣時代

赤尾氏は代々近江国の守護大名京極氏譜代の家臣で、『江北記』には京極氏の「根本当方被官之事」として今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・浅井・小野八郎・河瀬九郎・二階堂ら12氏のうちの一つとして記されている。 また後に家臣になったものとして「一乱初刻御被官参人衆」が文明二年(1470年)であることから、少なくともそれ以前より京極氏に仕えたものと考えられる。 京極氏の源流である佐々木氏(近江源氏)が、平安時代中期より近江にある事を考えると、かなり古くから京極氏に仕えたものと考える事が出来る。

浅井氏家臣時代

戦国大名浅井氏の台頭により京極氏が衰退すると、同じく京極氏根本被官であった浅井氏に従う。 『寛政重修諸家譜』には浅井亮政の生母に赤尾教政女(むすめ)とあり、『姓氏類別大観』では赤尾教政は 浅井亮政の兄とされている。 尚 『赤尾家譜』によると浅井氏庶流である浅井賢政の長子、教政(二男に亮政)が母方の赤尾新次郎の後を継いだと記されている。 戦国大名浅井氏内での赤尾氏の重要性を考えると、浅井氏と赤尾氏は何らかの血縁があったものかと思われる。

赤尾清綱は初め孫三郎、後に美作守と称す。諱を清綱とする。戦国大名浅井氏初代浅井亮政の頃から浅井家に仕  え、浅井家の宿老として浅井氏三代に仕えた。小谷城内の防衛の要所、本丸横下に赤尾屋敷と呼ばれる袖曲輪をもちそこに在番していた。通常、家臣は城下に屋敷を持ちそこを居館とするものだが、城内に自身名の付いた曲輪を任せられていた事をからも、浅井氏に於いて赤尾氏の重要性が窺われる。

信長公記(第六巻阿閉謀叛の事)では小谷城落城で、『浅井備前(長政)・赤生(赤尾)美作生害させ』の記述があり最後まで命運を共にしたことが窺える。 尚 清綱の子供らの命は、清綱のそれまでの働きと忠義に免じて織田信長直々に助命したといわれている。

浅井氏の滅亡により赤尾氏も本貫地の赤尾を追われ、新たな主家の地に移り住むようになる。

赤尾山城

堀跡(現在:用水路)

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