城郭探訪

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高田館(渡辺氏館)  近江国(湖北)

2016年03月27日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市湖北高田町  map:http://yahoo.jp/-HAvg3

別 称:渡辺氏館

現 状:宅地・畑地

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:渡辺氏

遺 構:土塁・堀

目標地:兵主神社

駐車場:兵主神社前空地

訪城日:2016.3.20

お城の概要

 高田館は高田集落の南にある兵主神社の北側にある畑地・宅地一帯であった。「滋賀県中世城館調査報告」によれば、「現当主は十四代目に辺り…」とあるので現在も子孫の方が住んでいるのだろう。

宅地なので道路から見るだけだが、土塁の上に祀られているのが八幡様であろうか。左から手前に掛けて堀が回っているようである。

お城の歴史

 築城年代は定かではないが。

赤田渡辺氏

嵯峨源氏渡辺綱の子孫と伝えられている。
 渡辺綱は嵯峨天皇の皇子源融の後裔で、摂津国西成郡渡辺村に移って渡辺を称するようになった。多田源氏源頼光に仕えて四天王の一人近江に土着 等の四男七郎備は越後から近江に移り、その子左衛門尉栄(さこう)は犬上郡曾我村に居を構えたという。『『尊卑文脈』には向の赤田孫肥後守高までが記されている。高のあと、記録によれば衒・滋・輝とつづいて赤田隼人正隆(たこう)に至った。隼人正隆はなかなかの人物で、永正年間(1504~20)に一族・家臣を引き連れて八町村に移り住み、八町城を築き、小さいながらも犬上郡の一角に勢力を張ったのである。
 隆は江北の戦国大名に成長した浅井氏に従い、江南の佐々木六角氏との戦いに身をおいた。その一方で、領内の水利をはかり、橋を架け、道を開くなどして領民から敬い親しまれていた。そして、六十一歳のとき常禅寺を建立し、家督を嫡男の興に譲ると禅三昧の生活に入り、弘治元年(1555)に世を去った。
 信濃守興も浅井氏に属して六角氏と対峙、永禄十一年(1568)、神崎郡位田の戦いで戦死した

やがて、尾張の織田信長が上洛の軍を起こすと、浅井長政は信長と結び、対する六角氏は没落した。その後、信長の朝倉攻めをきっかけに、長政は信長と袂を分かって敵対関係になった。
 元亀二年(1570)、織田信長と浅井長政・朝倉連合軍とが姉川で戦ったとき、信濃守姓は浅井方の部将として参戦、抜群の活躍を示した。姉川の戦いに敗れた浅井氏は、天正元年(1573)、織田軍の攻撃を受けて小谷城で滅亡した。渡辺氏も小谷城の戦に加わり、浅井氏と没落を共にした。

 その後、豊臣秀吉が天下を統一すると、姓の子堅が五千石をもって秀吉に召し抱えられた。そのとき、秀吉は姉川の合戦における渡辺姓の奮戦振りを物語ったという。かくして再興なった渡辺氏だが、文禄二年(1593)堅が死去、残された子達は幼かったため所領没収、一族離散の憂き目となった。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こると堅の子虎之介は、赤田氏再興を図って西軍に属して力戦したが、合戦は西軍の敗北に終わり渡辺氏の再興は頓挫した。その後、野に下った虎之介は、家の再興を願って藤淵に身を投じ、龍神になったと伝えられている。
 いまも、赤田氏の故地である犬上郡の曽我・八町などには、村岸・成宮・田部・藤野氏など赤田氏の一族を称する家が繁栄している

堀に囲まれた「土壇の祠」

兵主神社側から

現・渡辺家

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、武家と家紋

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