福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

KLM ASIA. 新塗装100 PH-BQF. お初です❣️離陸シーンだけど逆光なんです・・・

2024-06-18 06:00:00 | 2019年関空の情景
2019年10月1日
プレイバックシーン



KLM 100周年塗装が増えている。ボディも流線型の新塗装だ。
KLM運航便で"歴史的な遺産? KLM ASIA. "の機材がKLM機材と混在して運航され時折飛来する。
今日は、KLM ASIAの新塗装機が飛来している・・・ベテラン氏から情報です
30 Sep 2019 Amsterdam (AMS)➡︎Osaka (KIX) KL867
PH-BQF. Boeing 777-206(ER)

am 9:04. Bランに到着

出発は
am 10:37
レドームが白い

2019.10.1. KLM ASIA 塗装新調です

●旧塗装の同機 PH-BQF
離陸

余談
KLM ASIA ロゴ機材の撮影写真は7機だけどASIAロゴ機が何機あるのかは不明だ
①PH-BQI. 100周年ロゴ ボディは旧塗装
②PH-BQL. 100周年ロゴ ボディは旧塗装
③PH-BQK
④PH-BQH
⑤PH-BVB. ボディは新塗装
⑥PH-BQM
⑦PH-BQF

KLMアジア 

KLMには傘下にKLMアジアというかつての日本アジア航空に似た会社が存在する。これは台湾及び中国双方に路線を持つことに対する政府圧力が背景にあったからである。これと同じくしてヨーロッパ各国のフラッグキャリアはアジアという名称を付けるなどして別会社の設立や別会社を装った便名で運航していたが直接運航の認可によりすべて消滅(もっとも、KLM以外は路線自体が消滅)、ただしKLMアジアのみKL便として現在も運航している。当時KLMアジアとして使用されていた機材の一部は、「KLM Asia」のロゴをまとったまま使用されている。

✳️日本アジア航空について
概要
日本アジア航空は日本航空の完全子会社 (JALグループ企業の一つ) であり、1975年8月8日の設立以来、主に東京国際空港(羽田)を拠点に日本と台湾を結ぶ路線に就航していた。国際航空運送協会(IATA)航空会社コードはEGであるが、IATAには加盟していなかった。
なお、台湾では「日亜」の略称が使われることがあった。2008年3月31日をもって日本航空に吸収合併され、32年の歴史に幕を降ろした。なお同年4月1日からは、合併後の日本航空が自社便として運航している。
同社のICAOコードであるJAAは、2009年12月に設立されたタイ王国の航空会社であるジェットアジア・エアウェイズが2010年以降、使用している

設立の背景

1972年に、日本国政府と中華人民共和国政府との間に日中共同声明が出され、国交が築かれたことにより、日本は台湾を統治する中華民国政府と断交した。日本 - 台湾路線は、当時は日本航空により運航が続けられていたが、後に当時の内閣総理大臣・田中角栄の肝いりで締結が急がされていた、日中間の航空協定を締結する際の中華人民共和国政府からの申し入れにより、同国に乗り入れる日本の航空会社(=日本航空)の台湾乗り入れは禁止とされた。
その上に、このような状況を受けた1974年4月21日の台湾当局による日台間の航空路線断絶により、台湾への便は廃止(中華航空も日本乗り入れ中止)となったうえ、日本航空機の台北FIR通過も一時拒否された。
そこで、別会社として設立された日本アジア航空が台湾への便を運航することで、日中航空協定における日本航空の乗り入れ禁止項目を避け、日本航空グループにおける台湾航路を補う役割を担うこととなった。このような策は当時、両国に乗り入れる世界中の多くの航空会社でみられた。KLMオランダ航空によるKLMアジア航空(KLM asia)などもその一例である。

運航開始

日本アジア航空マクドネル・ダグラスDC-10型機(初代塗装)
1975年8月8日に日本航空の全額出資で設立され、同年9月15日に、日本航空からリースされたダグラスDC-8-53型機によって東京国際空港と台北の台北松山空港、および高雄国際空港間の運航を開始した。その後、1978年の新東京国際空港(現・成田国際空港)の開港を受けて、本拠地を同空港に移転した他、日本航空からのリース機材によって、貨物便の運航も開始した。
なお、その後も日本アジア航空および日本航空は、日本国政府および多くのマスコミの表記と同様、中華人民共和国政府による「一つの中国」政策を受けて、正式国名である「中華民国」ではなく「台湾」と表記していた。

拡大

その後の両国間の輸送量の増加を受けて、マクドネル・ダグラス DC-10-40型機やボーイング747-200/300型機を導入した。1990年代以降はグアム、当時イギリスの植民地であった香港やインドネシアのデンパサール、ジャカルタ路線の運航も行ったほか、関西国際空港や名古屋空港発の路線も開設した。
1992年に金融機関などを対象とした第三者割当増資を行ったため、日本航空の完全子会社でなくなった(出資比率は90.5%になった)が、2004年に株式会社日本航空システム(のちの株式会社日本航空)の完全子会社となった。

消滅

その後2007年に、日本側の対台湾の窓口である財団法人交流協会と、台湾側の亜東関係協会が、日本 - 台湾路線の直接運航を認めることを確認した。これを受けて2008年4月に日本航空インターナショナルと統合されると報道され、同年3月31日をもって運航を終了し、日本航空インターナショナルが日本アジア航空を吸収合併、翌4月1日に運航および便名が日本航空インターナショナルに承継された。
なお、日本アジア航空の日本と台湾で勤務する殆どの社員と全ての運航機材、運航発着権も2008年4月1日をもって日本航空インターナショナルにそのまま移管、承継された