福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

太融寺 境内にある淀殿の墓

2017-12-17 06:00:00 | ★大阪城もメチャ面白い😄
昼の太融寺界隈は初めて、14日 最後に尋ねた#太融寺
地下鉄谷町線 扇町から歩いたのでチョットしんどかったですね

大阪駅から至近距離の“大融寺 “

淀殿に纏わる話は余談ですが・・・面白い❣️

その境内に
#淀殿の墓がある


西門から入った。直ぐ左の奥になる

一番奥の隅にひっそりと






余談

✳️家康と淀殿の結婚話➡︎実現しなかった秀吉の奇策!! ある本より!

●奈良、興福寺の『多聞院日記』に記述があるらしい
★注目の記述
【大阪にて去る十日秀頼母、家康と祝言これあり候、太閤の書き置きある由に候】
とある事で、秀吉の遺言により、慶長四年九月十日に淀殿は徳川家康と結婚する事になっていたと言うのだ。しかし、淀殿はこれを嫌がって、大野治長が結婚式を妨害したらしい。
秀吉は
【家康には、秀頼の母淀殿を室として政事を後見して、秀頼の成人を待ってのち、政権を返すように仕組んだ】
●1599年9月9日 家康が大阪で秀頼に拝謁した。家康は、秀吉の遺命を盾に秀頼の母淀殿を室にしようとした。秀頼の母淀殿は、すでに大野修理亮治長を通じて妊娠していたので拒絶従わなかった。家康は激怒、修理を捉えて関東に流した。・・・別の書に記されている。との事。
“密通” “妊娠”は兎も角、秀吉の遺言は事実だった可能性がある。・・・と述べている。

●秀吉は、家康の孫娘千姫を秀頼の妻にする事で、秀頼の安全を図ったが、それでもなを秀吉は徳川家康の不安を解消されなかった。その秀吉が最後に思いついた妙案が淀殿を家康と結婚させる奇策ではなかったか!!

●淀殿は、この結婚をよしとはしなかった。もし、結婚が実現していたら、その後の歴史はどの様な展開をみせたのであろうか!!!

✳️さて、淀殿のお墓ですが、西門の近くにひっそりと!ここより以前は、大阪夏の陣で亡くなられたあと、 遺骨を大阪城外に集め、ほこらにして祀られていました。
ほこらが明治時代になって移祀されることとなり、 その時に遺骨は大融寺さんに埋められ塔が建てられました。・・・何故、大融寺になったか?
淀殿(茶々)は近江の武将、浅井長政(あざいながまさ)の長女として生まれました。 母は織田信長の妹、絶世の美女として名高いお市の方(おいちのかた)です。 お市の方の娘3人は浅井三姉妹(あざいさんしまい)として有名ですね。



✳️太融寺 高野山 真言宗
当寺は弘仁12年(821年)にこの地に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により、創建されました。ご本尊の千手観世音菩薩は、嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子河原左大臣源融(みなもとのとおる)公が、この地に八町四面を画して、七堂伽藍を建立され、浪華の名刹として参詣者でにぎわいました。当時を偲ぶ境内地の名称は今に伝えて、太融寺町、堂山町、神山町、扇町公園、野崎町、兎我野町等として残って居ります。
 元和元年(1615年)5月、大阪城落城のとき兵火で全焼しましたが、元禄年間に太堂、南大門など諸堂25棟が復興して、“北野の太融寺”と市民に親しまれ大いに栄えました。
 昭和20年(1945年)6月戦災で堂塔伽藍一切が灰燼に帰しましたが、ご本尊千手観世音菩薩は無事難をまぬがれました。戦後再建に着手、本堂、大師堂、不動堂、宝塔、客殿、本坊、庫裡、鐘楼、東・西・南・北門、御供所20余棟が復興しました。

★境内の一隅には、大坂夏の陣で自刃した淀君の墓も。明治13年(1880)には当寺で国会期成同盟が結ばれ、自由民権運動はここから全国へ広がったと言われている。