旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

大陸打通作戦 

2016年07月16日 22時36分18秒 | エッセイ
大陸打通作戦   

 先の大戦に於いて、真珠湾奇襲、マレー半島上陸(順番としてはこちらの方が早い)、フィリピン空軍基地の空襲に引き続いてマレー沖海戦でレパルス、プリンスオブウェールズを沈めた。チャーチルは第二次世界大戦で最もショックな出来事は、このマレー沖海戦であったと回想した。香港攻略、シンガポール進撃、フィリピン攻略、インドネシア占領と続き、帝国は開戦から半年で東アジア全域を手中に納めた。しかし南方資源、石油・アルミ・鉄・ゴム・食糧を手にしたものの、この帝国には何とその先の戦略が何も無かった。
 ミッドウェー海戦で虎の子の四空母を、精鋭パイロットと共に失い、ガダルカナルで消耗戦に巻き込まれた後はジリジリと負け続けた。日本の駆逐艦は米潜水艦を一隻も沈めることが出来ず、シーレーンはズタズタにされ商船は次々に沈められ、その後は見るも無残な玉砕(全滅)戦が敗戦の日まで続く。
 ビルマでは何の必然性も
ないのに、人跡未踏のチンドウィン山脈を徒歩で越えて印度に攻め込むインパール作戦が行われた。ビルマ人の家畜数万頭を徴用したが、のどかな農村から引っ張り出された牛は、険しい山を一頭も超えられなかった。最前線の日本兵は鬼のように勇敢に戦ったが、弾丸は尽き食糧は全く届かず、目標としたインパールの街の灯りを目にしながら、雨季の土砂降りの中を撤退せるを得なかった。米一粒送らずに、進め進めと遥か後方から叫ぶだけの司令部に抗議し、撤退した現場指揮官が3名とも罷免されるという事態になり、軍隊として崩壊しつつあった。退却路ではマラリアが蔓延し、病死・餓死・凍死した日本兵が豪雨の中に累々と横たわり、その道は白骨街道と呼ばれた。
 米軍はマキン・タラワを皮きりに反攻を始めトラック、次いでラバウルを無力化しギルバートに上陸。太平洋の島嶼を一つ一つ潰して日本本土に迫った。マリアナ沖海戦に大敗してサイパン、テニアン、グアムを失う。ついにフィリピン、捷一号作戦で連合艦隊は壊滅し硫黄島、沖縄と悲惨な敗戦は続く。
 そんな中で、1944年(昭和19年)4月17日~12月10日、終戦の半年ちょっと前に行われた大陸打通作戦(正式名称、一号作戦)は連戦連勝、作戦距離実に2,400kmを踏破し、大勝利の内に作戦を終えた。今回は知られざる本作戦を紹介しよう。


 この大作戦が知られていないのも仕方がない。敗戦国の敗戦間際の大勝利など、だれも知りたくはない。とはいえヒットラーの西部戦線におけるバルジの戦いとかは有名なのにな。まあ相手が中国軍、国民党軍で、その国民党が第二次大戦の終戦から数年で中国本土から消えてしまうのも、この作戦が知られていない原因なのだろう。帝国陸軍にとっては空前絶後の規模の作戦で、完璧といっていいほどの勝利をものにした。この作戦に参加した将兵は最初から最後まで主に夜間ひたすら行軍したことだろう。体の弱い者は行軍から脱落して取り残され、作戦を終えてベトナムに着いた時には兵はより精鋭となっていた。

 1943年(昭和18年)夏、ソロモン諸島とニューギニア方面に於いて、米軍を主体とする連合軍の反攻は強まり、日本は最も避けたかった泥沼の消耗戦に巻き込まれていった。すでにこの時点で艦船50隻、航空機1,500機以上を失い、20万人以上の戦死者を出していた。また100隻を超える米潜水艦の活躍により、シーレーンはズタズタにされ商船やタンカーが貴重な積み荷と共に、次々と海に沈んだ。
 このような切迫した状況にあって、事態打開のために大作戦が立案された。それが「大陸打通作戦」、正式名称を「一号作戦」と呼ぶもので、立案者は服部卓四郎大佐である。中国東北部を起点として広大な中国大陸を一路南下し、途中で会敵する中国軍を粉砕して都市を占領し、敵飛行場を根こそぎ潰す。今のベトナム、当時の仏領インドシナに達し、進駐している友軍に合流する。そして南方占領地と日本本土を陸路で結び物資の輸送を鉄道で行う。本作戦の目的を整理するとこうなる。
・華北と華南を結ぶ京漢鉄道を確保することで、南方資源地帯と日本本土を陸上交通路で結ぶ。
・米軍の長距離爆撃機B29の航空基地を占領し、台湾・朝鮮・本土への空襲を予防する。
・蒋介石率いる中国軍を撃破し、その継戦意思を粉砕する。
・戦況悪化と物資欠乏の中で勝利のニュースを作り、国民の戦意高揚に努める。

 参戦人員から見て今作戦は太平洋戦争中、最大規模の作戦である。太平洋戦争開始時、兵力90万人以上の日本兵が中国戦線に張り付いていたが、次々に南方方面に抽出した結果62万人に減少していた。兵だけでなく兵器も航空部隊も大幅に減っていた。中国軍が戦意に溢れた軍隊なら、ここで大反撃に出るところだ。中国軍は国民党軍、八路軍、新四軍等併せて300万はいる。
 大陸打通作戦は1943年夏ごろから大本営で検討されていたが、兵力の問題からなかなか実施決定に至らなかった。しかし台湾の新竹空襲、次いで北九州の中島飛行機工場等が繰り返しB29の爆撃を受けるに及び、危機感からついに実施が決定した。支那派遣軍の指揮下にある25師団と11個旅団のうち、歩兵師団17個と戦車師団1個、旅団6個で計50万人。火砲1,500門、戦車800輌、自動車12,000輌、馬7万匹という空前の規模の大作戦が始まった。
 本作戦には中国東北部にいてソ連と対峙している、いわゆる関東軍は参加していない。作戦の実施にあたって、国民党の首都である重慶・成都に一気に攻め込んだ方が良いのではないか、という意見もあった。また東条英機参謀総長は、本作戦を認可しながらも目的を航空基地破壊に限定するように指示したが、服部はあくまで陸上交通路を結ぶことに拘り、作戦計画を変えなかった。
 事前の準備として京漢鉄道の黄河鉄橋の修復が行われ、4/14、第12軍(司令官:内山中将)の部隊が列車で黄河を通過した。作戦の経緯・詳細は省く。作戦は序盤から順調に進み、覇王城を落とし密県を攻略、許昌市を占領して救援に来た2部隊のうち1部隊を撃破、もう一方を壊滅させた。またある連隊は中国軍の物資集積基地を奪ったが、このことが中国軍にとって一番の打撃となった。
 続いて戦車師団を含む攻撃により洛陽を占領。これをもって前半の京漢作戦は完了した。北支那方面司令官の岡村大将は、占領地の規律を重視し、第110師団の占領地帯では夜間でも、民間人が安心して外出できるほど治安が向上した。むしろ国民党軍の方が自国民にとって危険であった。終戦後の復員の際にこの師団は優遇された。
 ここで作戦の第二段に行く前に、制空権のことを記す。日本軍は250機が中国戦線に配備されていたが、消耗と南方への転出で1944年7月には150機に減少した。一方アメリカ軍を主体とする連合国側の航空兵力は増加し、1944年5月には520機、7月には750機となった。日本軍は新鋭四式戦を装備した飛行第22連隊を1ヶ月限定で投じた9月以外は、連合国側が制空権をほぼ握り、日本軍は夜間移動しなければならず、補給線は激しい空襲を受けて前線で弾薬などの不足をきたした。

 余談になるが、太平洋戦争が始まる前から、アメリカ人の冒険好きのパイロットは中国に行き、義勇兵として戦闘機に乗り空爆に来る日本軍爆撃機に襲いかかった。その部隊名をフライングタイガーという。ところが彼らは爆撃機の護衛についてきた戦闘機(試作の零戦)の途方もない運動能力と強力な武装に驚いた。零戦は向かうところ敵なし。10機で来て30機と戦い、ほとんど全機を撃ち落とす。フライングタイガーのパイロットは、この新鋭機の詳細なレポートを作成して本国に送ったが、そのレポートに注目し内容を信じた者は一人もいなかった。

 さて大陸打通作戦の第二段は長沙攻略を目指して5/27に進撃を開始した。今回は漢口駐留の第11師団を中心に、第一弾作戦から引き続き参加する部隊を加え、36万人が長沙を目指した。長沙は1941年にも攻撃したが、占領に失敗している。中国軍は長沙を40万人で守備していた。郊外の丘に拠って応戦する中国軍に対し、6/18日本軍が水路で運び込んだ15cm榴弾砲2門が砲撃を始めると、守備隊は夜陰に紛れて撤退した。横山司令官は掠奪などの発生を警戒して長沙市街への入城を禁じたが、アメリカ軍機の夜間空襲により長沙市街は全焼した。
 ついで日本軍はこれも飛行場がある衝陽の攻略に向かった。衝陽の中国軍の抵抗は激しく、日本軍は大きな損害を出した。ところが救援に来た部隊が消極的で戦わず、ついに中国軍守備隊は降伏した。衝陽での苦戦から第11軍の再編と休養を行い、補充兵10万人を送って第6方面軍(司令官:岡村大将)を新設し、南進を続けた。しかしその間にサイパン島が陥落し、本作戦の目的の一つ(B29飛行場の駆逐)は失われた。
 10月に興安県に到達し、11/3に進撃を再開。第11軍は独断で桂州と柳州に同時侵攻し、11/10までに双方を占領した。中国軍主力は決戦を回避して後退した。しかし日本軍の補給路は伸びきり、ガソリンが枯渇したため、追撃は出来なかった。そして遂に12月に仏領インドシナに到達し、「大陸打通」は見事に成功した。中国側の死傷者は75万、捕虜4万強、火砲6,723、航空機190機を喪失した。日本軍の戦死・傷病者は10万人(うち戦死は1万人強)。
 この作戦は意外にも日本側の想像以上にその後の戦況に大きく影響し、日本の命運に決定的に関わっていった。米国大統領ルーズベルトは開戦以来一貫して蒋介石を強く信頼し支持し、カイロ会談にも引っぱり出している。この大統領には人を見る目がない。人間の形をした悪魔、スターリンに絶大な好意を寄せチャーチルを嫌った。しかしこの大陸打通作戦で、蒋介石の軍隊の余りにも不甲斐ない敗北を目の当たりにしてさすがに目が覚めたらしい。
 中国大陸の航空基地からB29を飛ばして日本本土を爆撃する予定だったが、日本軍に軒並み飛行場を奪われ、それが出来なくなった。もっと奥地に飛行場を移転したら、航続距離が足りなくなる。そこで太平洋の島々を逐次占領する作戦に、力を入れざるをえなくなった。また毛沢東指揮下の中国共産党軍へ注目し始めた。重慶ではアメリカ人の将軍ステルウェルが訓練した、近代装備の精鋭部隊が待機していたが、蒋介石は大陸打通作戦にこの部隊を充てることを拒否し、指揮権もステルウェルに譲らなかった。この精鋭部隊は、北ビルマに投入され拉孟・騰越の日本軍玉砕戦に進む。
 大陸にいる100万の日本軍は、南方に武器と共に抽出されながらも未だに精強な軍隊であることが、改めて証明された。その1/10の部隊によって、硫黄島と沖縄等で予想を遥かに上回る大出血を強いられる米軍にとり、蒋介石が日本と単独講和し無傷の精兵100万人が太平洋に進出してくるのは、背筋の凍る恐怖だ。国には息子や夫を失った家族が加速度的に増え、政権の維持、戦争の継続が危ぶまれかねない。ベトナム戦争がそうだ。戦闘ではパーフェクトに勝っていたのに、国内の厭戦機運に負けた。民主国家は世論を敵に出来ない。選挙があるのだ。
 そこでアメリカは蒋介石の暗殺を計画した。毒殺・航空機事故・自殺に見せかけると三方法を検討したが、1944年のビルマの戦況、原爆の完成等の国際状況の変化で中止した。アメリカが想定していた後継者は、孫文の息子、孫科であったという。しかし孫科は死ぬまで台湾に於いても蒋と手を握っていたから、孫科本人の知ることこではなかったようだ。また日本にとっては不幸なことに、本作戦で日本軍の実力を再評価させたことは、敗戦間際のソ連の軍事介入を容易なものにしてしまった。
 日本軍は釜山からラングーンまで鉄道で往復出来るようになったとはいえ、特に八路軍(共産党軍)のゲリラ攻撃を頻繁に受けて、鉄道輸送はまともに機能しなかった。またマリアナ諸島の陥落により、日本のほぼ全土がB29の作戦圏になってしまった。日本海にまで米潜水艦が活動するようになっては、南方物資の陸路輸送は夢と消えた。
 蒋介石は強い日本軍と正面から戦うよりは、戦力を維持しておいて間もなく訪れる第二次大戦の終了後に、共産党軍を叩き潰す切り札にする積りだったのだ。しかし掠奪、暴行、ならず者集団の国民党軍は民衆から嫌われていた。人民の物は針一本取らない。当時の共産党軍が数年に渡る激戦の末、蒋介石を台湾に追いやった。話が先に飛び過ぎた。蒋は日本軍の強さを骨身にしみて知っている。この強兵100万を中国大陸に封じ込めておくだけで、連合軍にとっては大功績ではないか、と思っていたとしても不思議ではない。
 こうしてみると、蒋が終戦後に日本兵を迅速に復員されてくれたのも理由がありそうだ。「恨みに対して恩で報いる。」蒋介石の言葉だ。15年も戦い、家族や友人をたくさん殺している日本軍を虐待もせずに早く返してくれた。火事場泥棒のように終戦の6日前に介入して、北方領土を獲り日本兵の捕虜を何年にもわたってシベリアに拉致拘束したソ連とはえらい違いで。しかし蒋介石は、武器を取り上げても100万人の日本兵が無気味で、早く自国から出したかったのかもしれない。
 1945年のポツダム宣言受諾の際に、支那派遣軍司令官の岡村大将は、「百万の精鋭健在のまま、敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり。」と無条件降伏に反対した。しかし精鋭百万、どうせ戦うなら米軍とやれよ、と言いたくもなる。

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