旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

記暗殺教団と秘密の花園   

2016年07月07日 22時33分50秒 | エッセイ
暗殺教団と秘密の花園   

 おっと、タイトルを見ただけで今回の話が分かった人がいるね。でも貴方、最初にこの話を歴史書で読んだ時にはマジかよって思ったでしょ。時は中世、所はシリアからイラン(ペルシャ)にかけての山岳地帯、登場人物は屈強な若者、「山の長(おさ)」または山の老人、そして美女軍団。
 村の若者が旅人と知り合い、意気投合して飯屋で歓談するが、突然猛烈な眠気が襲いテーブルに突っ伏して眠ってしまう。目を覚ますと清浄な空気に包まれた花園にいて、微笑みかける絶世の美女に膝枕をしてもらっている。彼女は見たこともない美しい衣服を身にまとい、とても良い香りがして澄んだ声で話す。彼女に手を引かれ、異国の花々が咲き誇る庭園を夢見心地で歩くと、ミルク、蜂蜜、葡萄酒と冷たい水の湧き出る泉が点在している。泉のほとりには珍しい実をつけた様々な果樹が植わり、蝶や小鳥が舞っている。隣を歩く美女に負けず劣らぬ美しい女性たちが、笑って彼に手を振る。また彼女達は、妙なる楽曲を奏し歌って舞う。若者は訳が分からないまま、美女たちの肉体の歓迎を受け、御馳走を振る舞われる。時を忘れて楽しむ若者。
彼が再び眠りから覚めると、元の貧しい村の食堂に座っている自分に気づく。茫然とする若者の前には、旅人が座っていて彼を見つめている。「お前はあの楽園に戻りたいか?」強く頷く若者。「もしあそこに戻りたければ×△国に行き、この短刀で王を殺せ!殺害に成功すれば、あそこに戻れる。失敗してお前が死んでも、あそこに戻ることが出来る。」若者は楽園のことで頭が一杯、一心不乱になって指定された国に向かう。さてこの花園のイメージには最初から死の匂い、死後の楽園の印象が色濃く出ている。
この話はマルコ・ポーロが『東方見聞録』でヨーロッパに紹介した。「秘密の花園」を山頂の城塞の中に造り、暗殺を指示したのは山の老人、若者を眠らせたのはハシッシ(大麻)で、暗殺者を意味するアサシンという英語はここから生まれた。これがアラビアンナイトのお伽話なら、面白いねで済むが、ほぼ史実なのだから恐れ入る。
暗殺教団ニザリ派(ニザール派)は、イスラム教のイスマーイール派の分派。イスラム教でシーア派とスンニー派が分かれたのは、権力者の後継者争いによるが、イスマーイール派がニザリ派とムスラアリー派に分かれたのも、ファーティマ朝のカリフ=イマーム位を巡る政争による。元々が世捨て人の宗教である仏教はともかく、キリスト教ではあまり見られないことだ。しいて言えば英国国教会の独立か。
ニザリ派は11世紀末から13世紀半ばまで、シリアからホラーサーンに点在する城砦、イラン高原に築城されたアラムート城砦を中心に独立し、敵対するセルジューク朝や十字軍の要人を暗殺し、また脅迫して栄えた。テンプル騎士団長も暗殺され、十字軍の諸侯は震え上がった。最盛期には現在のトルクメニスタンを含んで300以上の山岳城砦を持っていた。山の老人は何代にも渡る指導者なのだが、教団を最も繁栄させた長老はラシード・ウッディーン・スイナーンであった。
この地方、ニザリ派の人々はムラヒダ(異端の住処)と呼ばれ、暗殺者の若者達はフィダーイー(自己犠牲を厭わぬ者)と呼称された。成人の若者を拉致するのではなく、幼少期に山の中の城に連れてきて各国語や武術、忠誠心を隔離して教育し、一度だけ楽園を味あわせて暗殺に送り込むという説もある。テロリストの英才教育だな。彼らは毒薬や飛び道具を使わず、常に一本の短刀を用いた。時には殺さずに枕の横に短剣を付き立て、いつでも殺せると脅迫することもあった。いつでも殺せる。この脅しを受けてニザリ派への非難を続ける者はいない。
現代の自爆犯も、ジハードで死んだら天国に行き30人の処女に永遠に囲まれる、と聖職者から吹きこまれる。スンニー派のアッバース朝のカリフは29代30代と続けて暗殺され、それ以降のカリフは公衆の前に姿を現さなくなった。スンニー派は、ニザリ派を蛇蠍の如く嫌い見つけ次第に殺した。一方ニザリ派は、君主(カリフ)将校(司令官)宰相(大臣)及び法官、聖職者、知事、市長を次々と暗殺した。
しかしながらニザリ派の王国が滅んだのは、スンニー派による攻撃ではなくモンゴルによる侵略だった。モンゴル帝国の皇帝モンケは1253年、ペルシャ遠征に弟のフラグを司令官に任命した。その際モンケは何よりもニザリ派教徒を根絶するように命じた。モンゴル帝国の情報収集能力は非常に高く、モンケはニザリ派がいかに危険な敵であるかをよく知っていた。以前モンケは、ペルシャの大法官が鎖帷子を身に着けて自分の前に現れたことを不思議に思い、その法官に理由を尋ねた。彼はニザリ教徒の短刀から身を守る為に、常に衣服の下に着けていると答えた。
フラグ率いるモンゴル軍はニザリ派の山城を一つ一つ陥落させ、3年をかけてニザリ派の掃討をほぼ終えた。しかし険しい山の頂に築かれた城砦に出入り口は一つしかなく、中には17年もの間包囲され抵抗を続けた城もあった。その城では住人、兵士の服が17年間で擦り切れて凍死していったため、マムルーク朝に降伏したという。
それでもニザリ派は絶滅したのではない。今でも45,000人のニザリ派がシリアにはいるし、スンニー派を装う隠れニザリ派の数は数倍いるのではないか。彼らは戦乱や侵略によって混乱が生じると世に出てくる。またニザリ派信徒はインド、パキスタンを中心にアフガニスタン、中国、タジキスタンなど中央アジア・インド方面、タンザニアを中心とするアフリカ、ミャンマーを中心とする東南アジア方面、そして欧米に数百万人が暮らしている。もちろん今は、暗殺教団とは無縁でその面影すらない。
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旧軍体質の残滓   

2016年07月07日 22時32分02秒 | エッセイ
旧軍体質の残滓   

 三野正洋氏の『日本軍兵器の比較研究』(光人社NF文庫)の中に、氏の優れた意見が書かれていたので一部紹介したい。陸軍と海軍(又は空軍、海兵隊)の仲が悪いのは日本に限ったことではないが、日本のように天然資源の無い小国は仲たがいして限られた資源(人や技術も)を無駄にする余裕などはなかった。海軍のゼロ戦を陸軍が使えば、一式戦隼はいらなかった。陸軍の四式戦、疾風を海軍が使えば紫電改はいらなかった。実際にゼロ戦パイロットの板井氏が乗り較べて疾風に軍配をあげている。爆撃機、偵察機でもダブっている機種は多々ある。
 機関銃や高射砲まで別々に開発した。ダイムラーのエンジンをライセンス契約して日本で製造したが、陸軍と海軍がそれぞれ別々に契約しライセンス料を二重に払っている。性能テスト、改良、運転マニュアルもそれぞれで行った。これでは国の恥をさらすようなものだ。このように効率の悪い軍が勝てるはずがない。
 それでも海軍は開戦時、無敵のゼロ戦を持ち、正規空母6隻からなる連合艦隊は世界最強だった。酸素魚雷は航跡をほとんど出さずに、航続距離も炸薬量も抜きん出た性能を持っていた。活躍はしなかったが、海底空母イ400シリーズは、発想からして実に面白い。ところが陸軍は、中島飛行機の活躍で航空機だけは良いものを揃えたが、他に独創的なものといえばただ一つしかない。別にあるとすれば、細菌を詰めたのみ爆弾か。
 強襲揚陸艦〝神洲丸〟(その発展形として〝あさつ丸〟)である。これは陸軍が開発した唯一のオリジナル兵器で、昭和七年の上海事変の教訓を踏まえて建造し、昭和九年に竣工した。排水量7,200トン、速力20ノット、戦車搭載可能の大発艇29隻、小発艇25隻、57ミリ砲艇2隻、偵察用高速艇2隻搭載。他に使われなかったが、カタパルトで戦闘機と爆撃機各6機の発進が可能だった。神洲丸は日中戦争(第2次上海事変)と太平洋戦争(マレー・ジャワ上陸)でその真価を発揮した。あさつ丸もマレー・ジャワ上陸に間に合った。しかしその後は上陸作戦など行われず、両艦は輸送任務に従事して2隻とも沈められた。米英がこの種の揚陸艦を就役させるのは昭和17年以降であるから、実に先駆的な兵器であった。
 旧帝国陸軍は明治38年制定の三ハ式小銃が使っていたし、機関銃、大砲、迫撃砲全てが外国のCopy製品でしかも精度が落ちる。ドイツ軍は世界最高の戦車を持ち、大陸間弾道ミサイル、超長距離砲、ロケット・ジェット戦闘機、誘導弾、音響追尾魚雷等々を開発し、原爆を除いて連合軍を技術的にリードしていた。それに比べて日本陸軍の装備は二流で、日本の中戦車は敵の軽戦車にも勝てない。対戦車砲弾は敵戦車の装甲に跳ね返される。日本軍が発明したのが、うつぶせになって背負う亀の甲羅のような砲弾避けとは、実にくだらない。
 日本軍が第二次世界大戦に先立つ何年もの間、相手にしてきた中国軍に対してはそのような粗末な装備でも対抗出来た。しかし1939年5~9月に起こったノモンハン事変でソビエト軍と戦い、近代戦の恐ろしさと自軍の貧弱な装備の実態を痛切に知らされた。だがノモンハンが満蒙国境の局地戦であったのをいい事に真相を隠ぺいし、血を払って得たはずの教訓に目を背けたまま米英との戦争に突入した。日本軍の銃剣突撃にアメリカ兵は悲鳴をあげて逃げ惑う、と兵を騙した。ところが戦場では、大和魂などは大量の砲弾・機銃弾の前に粉みじんに撃ち砕かれた。
 ノモンハンに関東軍は、82門の重砲を集めた。これほどの大口径砲が一つの戦場に集まることは、日本軍としては前代未聞だ。これでソ連軍など木端微塵に粉砕出来る。関東軍の幹部は勝利を疑わなかった。かくして3日間に渡る砲撃戦が始まった。3日後、日本軍に残っていたのは弾丸を撃ち尽くした5門の砲だった。実に77門、94%が粉砕された。ソ軍は百数十門を揃え、弾丸を日本軍の3倍から4倍を使用した。ソ軍の砲は日本製と同じ口径でも射程が1,2割長く、日本軍が最大15センチの砲を用意したのに較べ、ソ軍は20.3センチ砲を用いた。
 ノモンハンの後、ソ軍の前戦指揮官は日本軍を以下のように分析している。
・装備の近代化が遅れている。
・下士官、兵は勇敢で特に近接戦闘に強い。
・上級指揮官は愚かで硬直化した作戦を繰り返し、臆病である。

 帝国陸軍の精鋭関東軍は戦争前から、近代戦に通用しない時代遅れの軍隊に成り下がっていた。では何故日本軍は二流の軍隊になってしまったのか。日露戦争では、機関銃に苦しめられたとはいえ、同じロシア軍に勝っていたのに。
 一つには日本が山東出兵(昭和2年)以来、ずっと戦い続けてきたことに原因があるのだろう。たえず戦費を垂れ流していては、思い切った技術革新に費やす予算もタイミングもない。また二流の軍隊でも三流の相手には勝てたのだ。しかしこれは自身の怠慢に対する言いわけに聞こえる。実際に戦っている軍隊は強い。戦場では多くの改善点、改良点を見出すことが出来る。また新兵器を開発して試すことも出来たはずだ。

 さてここからが三野氏の意見である。

『軍人自体が軍の近代化に消極的であった。』

1.軍内部の地位(ポスト)の削減への恐れ。 - 近代化で余分な部分を削る(スリム化、リストラ)と出世、昇格できるポストが減る・
2.機械化への反対 - 機械化して、そのための勉強をするのが年寄りには億劫。
3.計画性、研究の不足 - 日本陸軍の兵器全般について言えることは、設計の甘さである。日本陸軍の重砲にはすべて左右一対(2ヶ)の車輪しか付いていない。重量10トンを超す砲でもだ。米軍はダブルのタイヤ対(計12ヶ)を使っている。前線部隊のことを考えていないとしか思えない。
4.創意、工夫、改良を嫌う姿勢 - 日本陸軍では兵器の使用法を厳しく定め、はみ出す事を禁じた。また前線部隊が独自の改良を行うのを許さなかった。ノモンハンで日本の対戦車砲はソ軍戦車に全く歯が立たなかった。一方前線に多く配備されていた三八式野砲はソ軍戦車を撃ち抜ける。この野砲を使えば米軍のシャーマン戦車も撃破出来る。しかし部隊が全滅の危機に陥るまで、野砲を対戦車砲として使うことを許さなかった。
ドイツ軍が高射砲として開発した88ミリ砲が、対戦車砲としても有効なのを戦場で知り積極的に活用したのと真逆な反応である。

 またヨーロッパの戦場に於いては、それぞれの陸軍の戦車が前面に砂袋や丸太をくくりつけて敵の砲弾の威力を少しでも削ごうとしているし、応急的に装甲板を溶接している。しかしブリキのように薄い日本軍の戦車には、そのような工夫は全く見られない。柔軟な発想と縁のない高級軍人は前線での工夫による兵器の性能向上を許さなかったようだ。
 『我々は最良の兵器を開発し、配備している、それを前線部隊が勝手にいじっては自分達の権威が保てない。』この腐りきった日本陸軍の体質は現代にあっても残っている。それは各省庁、地方自治体の官僚、役人の体質と一致するのではないか。
・ 規制々々で民間の活力を奪い、
・許認可を楯にして改革の芽を摘み、
・海外の動きに眼を向けず、広い視野を持とうとしない。
・加えて弱い立場の民間から甘い汁を吸おうと画策する。

けだし卓見である。役人のみならず、民間の会社の中でもこのような愚劣な傾向はよくある。このお下劣な体質を改めない限り、社会は停滞して淀み、日本人は世界の中で嫌われ続けるのではないか。「出る杭は打つ」「長い物には巻かれろ」式の世の中では息が詰まって窒息してしまう。そうは思いませんか。
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