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旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

現代の探検

2015年12月11日 20時02分48秒 | エッセイ
現代の探検

 子供の頃何になりたかった?色々あるよね。いくつもあったり、だんだん変わってきたりして。自分はスポーツ音痴ついでに歌音痴なので、野球の選手というのはまず無かった。小学校の文集などでは「学校の先生」と書いたが、あれはウソだ。子供の建前だ。本当は探検家になりたかった。考古学の博士というのも良いなー。両方合わさればインディー・ジョーンズだね。
 子供の頃に良く読んでいた本に出てくるような冒険、探検がやりたかった。ヘイエルダールのコンチキ号漂流記や、ゴビ砂漠で恐竜の化石、恐竜の卵の化石を収集する、といった類の冒険だ。密林に埋もれたアンコール・ワットを訪れヨーロッパに紹介したフランスの植物学者アンリ・ムオ、トロイの遺跡を発掘するシュリーマンも良いね。中高生になってからは、河口恵海やスウェン・ヘディン、極地探検家のスコット隊や他の探検隊等に憧れた。
 もっとも探検一直線ということはなく、「三国志」「アラビアのローレンス」「十五少年漂流記」各種の戦記等に浮気した。浮気ついでに言えば、オードリー・ヘップバーン、シャーロック・ホームズ、ジューヌ・ベルクにも西部劇にも嵌ったもんだ。
 探検家にはならなかったけれど、大学生の時にタイや印度でミニ放浪をした。社会人になってからもタイ・カンボジア、タイ・ラオス国境地帯でボランティアをやった。大人になって貿易の仕事について、途上国を主として30ヶ国余を訪れた。スーツを着て冒険も無いものだが、中東や中南米諸国は特に面白かった。仕事が終わった後や休日、移動日などに街に出て散策するのは実に楽しい。仕事で高級なホテルに泊まっていたから旅は快適。
 サラリーマンをリタイヤして警備員になってからは、旅行でカンボジアとベトナム、カンボジアとラオス、トルコ、ミャンマーと4回旅した。この4回とも旅行記をこのブログにupしているので、未だの人は是非読んでね。旅する時は、半年以上前からその国の事(文化・歴史・紀行文なんでも)を書いた本を集めて読み、カンビジア(クメール)語、トルコ語、ビルマ語を勉強する。これが相当に役に立つし、気分も盛り上がるってもんだ。ただトルコとカンボジア(アンコール・ワット)の本は沢山あったが、ミャンマーは少なくラオスはほとんど無かった。
 ガイドさんを雇う観光旅行であっても、気分は探検だ。もっともこの4回の旅の間中、快適で楽しく危険のキの字にも遭遇しなかった。しっかし楽しかったな。また行きたい、というよりラオスとミャンマーには住みつきたい。この2ヶ国に住むなら、日本には微塵も未練はない。全く無い。ベトナムは住みたいとは思わない。住んだら常に気を張っていなければならない。治安でいえばカンボジアの方が少々悪いが、人はのんびりしている。ベトナムの人は頭が良い分、カモはだまさなきゃ、と思っている人も多いのだ。公安も怖い。
 イスタンブールは3ヶ月位滞在したいね。トルコ国内も半年位かけて旅してみたいが、骨を埋めようとは思わない。第一異教徒は死んだらどこに葬られるんだ。それにしてもトルコの人々の底知れぬ親切には魂消た。食いものは5ヶ国の中で一番良い。どの国も良かったが、トルコ料理は文化の域に達している。日本にいてもミャンマー料理店よりは、トルコ料理店に行くね。ドネルケバブ、熱々の回転するオーブンにあぶられた肉を、長いナイフでこそぎ落し、パンに野菜と一緒に挟んだの、美味かったなー。1ヶ150円位だった。
 さて今まで読んだ世界旅行(放浪)記、探検記、紀行文等で面白かったものをランダムであげてみよう。全てをカバーはしていないよ。文庫本がたまると定期的に古本屋に持って行って売っちゃうから、ああ面白い本だったな、と記憶に残っていても題名が出てこない。

*「糞尿博士・世界漫遊記」中村浩 現代教養文庫 : もう絶版だろうな。
*「どくとるマンボウ航海記」北杜夫 新潮文庫 : 子供の時は面白かった。今読んでもそうかは分からない。
*「深夜特急」1,2,3巻 沢木耕太郎 新潮社 : これは文句なしに面白い。入門編に良い。
*「全東洋街道」上・下 藤原新也 集英社文庫 : これは感動した。特にビルマとインドの話し。
*「インパラの朝-ユーラシア・アフリカ大陸684日」中村安希 集英社文庫 : 彼女の勇敢で公平な姿勢がよい。
*「さまよえる湖」スヴェン・ヘディン 鈴木啓造翻訳 中公文庫 :これぞ探検。
*「チベット遠征」スヴェン・ヘディン 中公文庫 : 探検は政治情勢の隙間を縫って。
*「メコン・黄金水道をゆく」集英社文庫 : 椎名誠は好きな作家だが、海外紀行物は感心しない。旅行期間が短くて深みがない。ただこの本は面白かった。
*「インドシナ王国遍歴記-アンコール・ワットの発見」アンリ・ムオ 中公文庫 これはいいよ。著者が好きになった。
*「アグルーカの行方」角幡唯介 集英社文庫 : 同じ著者で「空白の五マイル」ちょっと理屈っぽい。
*「アジアの旅人」下川裕治 : この人の本は真剣に読むというよりは、気楽に読めば良い。千人も乗った船で便所が2つしかない。朝になると男も女も尻を出して三人づつ、代わりばんこで大を出す。中国の話しだす。
*「東方見聞録」マルコ・ポーロ : 図書館で借りてね。長い本ではない。フビライ汗のもとを辞して数十年振りに故郷ヴェネチアに帰る。途中で賊が出ると一年も待ってから先に進む。宝石は服に縫いこんである。故郷に着いたら、誰もヨーロッパ人とは思わなかった。
*「秘境アジア骨董仕入れ旅」上下巻 島津法樹 講談社文庫 : これは文句なしに面白い。骨董屋になろうかと思う。
*「物乞う仏陀」石井光太 文春文庫 : 他に「絶対貧困」「神の捨てた裸体-イスラームの夜を歩く」共に新潮文庫。この人の本を読むなら覚悟がいる。相当きついエピソードがあるから気楽には読めないよ。
*「モンキームーンの輝く夜に」たかのてるこ 幻冬舎文庫 :この人の行動力には呆れる。深みは無いが軽みは負けへんで。
まだまだ沢山ありようだが、キリが無いのでこの辺で。

 探検家の生きにくい世の中になったもんだ。二こぶラクダの隊商を連ね、先頭に日章旗を掲げてタクラマカン砂漠、天山南路を踏破した大谷探検隊の若者達がうらやましい。この地上で未踏破な場所は、チベットの奥地位しか残っていなかったが、そこも探検されてしまった。後は洞窟か深海か。洞窟は良いね。中国には未踏の洞窟がたくさんあるし、最近ベトナムで発見された洞窟も凄い。
 或いは浮浪者の仲間になって生活体験をするか、モロッコに行って外人部隊に入るか。早稲田大学探検部の高野君(後輩なのでそう呼ばせてもらう。自分は探検部ではないが)も何を探検したら良いよか戸惑った。朝鮮人参の実(毒だよ)を山ほど食ったり、天狗茸(毒キノコ、幻覚作用あり)を探したり。朝鮮人参の時は、最初は何でもなかったのだが夜中に暴れだし、瞳孔が開いて1ヶ月ほど光と色彩が眩しくなって困っている。やがてコンゴにUMA、ムガンベを探しに行く。高野氏の本はどれも面白いが、正直ちょっと当たり外れがあるのでベスト5を挙げておくね。
1.「ミャンマーの柳生一族」
2.「アジア新聞屋台村」
3.「アヘン王国潜入記」
4.「謎の独立国家ソマリランド」
5.「腰痛探検家」
欄外。「ワセダ三畳青春記」「巨流アマゾンを遡れ」「幻獣ムガンベを追え」「西南シルクロードは密林に消える」etc

高野氏の探検の準備が面白い。行く土地の言葉を覚えるんだ。コンゴの時はフランス語とリンガラ語、ビルマの時はビルマ語とカレン語。いつも奇想天外なエピソードが出てきて捧腹絶倒、一つだけ種明かしをしちゃうね。
 中国で、お産の時に新生児と一緒に排出される胎盤を食う習慣がある、という話を聞きこんだ。近所でお産があると、親戚縁者が箸を持って産婦の胎盤料理を食いにぞろぞろ集まるという。本当かよ。高野氏は箸を持って真相を探りに出かけるが、さすがに中国でも「エエー、ウソー」となりーーー

親父にまた助けられた.

2015年12月08日 19時32分03秒 | エッセイ
親父にまた助けられた。

 小さい時、親父に助けられた記憶が三つある、と言って三個のエピソードを簡潔にまとめれば一丁上がり、原稿料は振り込んどいてね。だけど助けられた記憶は二つしかない。あれ、あれ、二つじゃあ収まりが悪いぜ。何か無いかな。えい面倒だ、創作しちゃえ、とも思ったがそれも案外易しくはない。しゃーない、今回のエピソードは二個だ。
 最初の記憶はうんと小さい時だ。小学校1,2年か、下手をすると年長さんか、といって自分は幼稚園に一年しか行っていないらしい。まっいずれにしてもまだ〝つ〟が付く年だ。
 家族でスキーに行った。草津温泉だ。草津よいとこ、一度はおいで。ところがその冬は雪が少なかったらしい。そこで親父は計画をたて、早朝に出発して万座まで徒歩スキーで向かう事にした。親父はスポーツマンで山登り、沢登りが得意。縦走スキーもお手の物。たいした距離ではないし、険しい地形でもない。一気に踏破だ、と思ったんだろう。ところが女子供の足弱を甘く見過ぎた。4時間位歩いて万座に着いた頃には、体は冷え切り鼻からつららが垂れ、姉ちゃんは雪を見過ぎて、目を痛めていた。母は散々父を責めたが、実際着いた時には半分遭難していた。自分は今でも記憶がうっすら残っている程で、逆に楽しい思い出なのだが妻と娘、二人の女から非難された父はへこんだことだろう。
 さて万座でスキーを始めたが、ボーゲンだのエッジでブレーキをかけるだの知らないから、止まる時は横倒しになるしかない。ゲレンデの下の方、傾斜もゆるやかになってきた所で止まろうとしたが、スキーの板が二本揃っているので止まらない。止まれ、止まれ!尻もちをついたが、仰向けの体ごとスルスルと落ち続ける。車は急に止まらない。チビスキーも止まらない。
 自分の記憶では、落ちて行く先に奈落へ通じる断崖絶壁がある。仰向けズルズルで多少はスピードダウンしたとはいえ、奈落はズンズンと近づく。じたばたするが止まらない。もう駄目だ、お仕舞いだ。そう思った瞬間、どこから現れたのか親父が奈落と自分の間にサっと体を入れ、自分をバシっと受け止めてくれた。助かった。ギリギリじゃんか。
 あの絶壁は何だったんだろう。今でも記憶に残る断崖だが、そんなに危ないものがスキー場にあるとは思えない。ちょっとした段差か、傾斜のきついスロープでもあったのだろうか。しかしさすがは国体にも出たスキープレーヤー、危ない時にサっと現れた親父は頼もしくて、恰好よかったなー。

 二回目のエピソードも小さい頃の話だ。うちは洋服屋の商売をやっていて、家にはいつも乗用車があった。親父は車の運転が好きだった。自分も車に乗るのは嫌いではなかった。乗り物酔いをする体質ではなかったしね。親父はちょっとした仕事の外出などでも、よく自分を誘って助手席に乗せた。退屈しのぎと眠気防止を兼ねていたのかもしれない。
 今考えると昔の車の方が現在のものより、重々しくて高級感があったように思う。親父は新車に代えるとシートのビニールを何カ月も剥がそうとしなかったので、新車の乗り心地は今一つだったな。或る時チビの自分が車の脇に立って、いつものようにボーっとしていた。勉強は出来たのだが、それ以外の自分はいつもボーっとしていたような気がする。子供の頃の写真を見ても、実にボーとした子だ。
 その時、気がつかなかったが自分の小さい手は、車の縁にかかっていた。そして車の後部ドアが閉まりかけていた。たまたま振り向いた親父が、状況を瞬時に見て取り、ドアを抑えたか自分を車から引き離した。次の瞬間にドアはガチャリと閉まった。この時も危なかった。自分の手は意味も無く車の縁を触っていた。ドアが閉まったら、真ん中の指三本の先の方がはさまっていた。指が押しつぶされたら相当痛かっただろうな。ギャーギャー泣いたな。骨折していたかもしれない。
 「危なかったなー」ニヤっと笑った親父もびっくりしたんだろう。自分は別に口止めされた訳ではないが、この事を母親には話さなかった。親父は言えば怒られるから黙っていた、と思うよ。








 ホテル亜細亜のけだるい朝

2015年12月08日 19時29分06秒 | エッセイ
   ホテル亜細亜のけだるい朝

 のっけからごめんなさい。蔵前仁一氏の名著『ホテルアジアの眠れない夜』(講談社文庫)の題名をもじっちゃいました。それにしても何て素敵な題名。題名だけで無条件に買うね。
 アジアの暑苦しいあの夜この夜、低い天井に取り付けられた動きの遅い扇風機が、密度の濃い熱帯の空気をゆっくりとかき回す。月明かりか街灯か、窓から差し込むかすかな光が、天井を動き廻るヤモリの姿を浮かび上がらせる。チチッチチッと鳴くヤモリ。遠くから夜通し単調な旋律の音楽が、窓越しに入ってくる。得度式か葬式なのか。空気はジトっと湿っていて、夜具も水気を含んできた。うつらうつらするが、深い眠りには陥らない。夜中なのに隣でシャワーの音がする。今何時なんだろう。時計を探ったら本当に起きてしまう。朝はまだかな。
 なーんてことに自分はならない。どんな時、どんな場所でも直ぐに寝ちゃう。何でも食って、どこにでも寝る。自分の特技だ。これほど努力のいらない特技はにゃーよ。亜細亜の暑い国の安ホテルで目を覚まし、一瞬ここはどこ?あーXXにいるんだった。今日も明日も明後日も、特にする事は無いんだ。この街にいてもいいし、次の街に移動するのも良いね。
 いい天気そうだ。今日も暑くなりそう。腹減った。まずは朝飯、何を食うかな。今日はどこに行こう、何をしよう。そんな朝を迎えてみたい。若いころはそんな日々が続いたもんだが、もう一度欲しいな、亜細亜の旅のそんな朝。

戦さの真相

2015年12月05日 14時20分51秒 | エッセイ
戦さの真相

 武士の時代(源平の頃~島原の乱)の戦場で傷ついた兵士の、負傷の原因を文献で調べた先生がいた。新書で以前に読んだのだが、本の題名はすっかり忘れた。それによると戦傷で圧倒的に多いのは矢傷、投石による打撲傷、後には鉄砲傷であった。つまり近接戦闘ではなく、遠くから矢合戦をするのが主流だったわけだ。運悪くまぐれ当たりといったケースが多いようだ。
 次に多いのは、攻城戦での骨折や打撲、下から攻めていて城方が上から投げおろす石や材木に当たったり、避けようとして落ちたりした傷だ。それから槍によるもの、最後が刀傷だ。つまり映画やTVのような近接戦闘は滅多に起きなかった訳だ。但し敗走となると話しは変わる。逃げる敵を勢いにのって後ろから追いすがって斬りまくる。
 戦国最大の激戦、姉川の戦いでもがっぷり組んで死闘を繰り返している時よりも、敗走を初めてからの戦死者の方が圧倒的に多い。設楽が原の合戦で信玄の重臣達が根こそぎ戦死している。馬防柵に阻まれ、立ち往生している所を鉄砲隊に打ち抜かれた、そう思うよな。自分もそう思っていた。ところがそういった前を向いた討ち死には山県、内藤だけだった。馬場、甘利、小幡、原x2、土屋、真田兄弟は皆、敗走に移ってから乱軍の中で討ち取られている。敵に背を向けて逃げ出したら兵士じゃあ無くなる。追う奴は危険がほとんど無いし、ここで手柄をあげなきゃってなものだ。うまくいけば大将首を拾えるからな。
 刀傷は10に一つか20に一つしかなく、刀傷を受けた日には仲間から、「お前切り合ったの?すげーなー。」とヒーロー扱い。あと投石による傷、これがあなどれない。旧約聖書には、ダビデ少年が投石(ひもをぶん回して石を遠くに投げるもの)でペリシテ人の巨人兵士ゴリアテを倒している。額に命中させて脳震盪を起こし倒れたところを剣でとどめをさした。
 三方が原の合戦では武田軍の投石部隊が丘の稜線に現れ、一列になって徳川軍に向かって石を投げている。こちらは空飛ぶ円盤型の縁を鋭く尖らせた形状の石をサイドスローで投げたようだ。専門職の石投げ部隊だ。当たれば騎馬武者は落馬する。石が弓矢にまさる点は、相手が重装備(鎧・兜)でもどこかに当たれば打撲の衝撃を与えられる点だ。矢は鎧と兜で威力がそがれる。遠ければ体にまでは刺さらない。ホロ武者が背負う空気の抜けた熱気球のような背負い布は、実に効果的で矢の勢いを八割方減らすという。
 次に槍、戦国時代の花形兵器だ。密集した集団で文字通り槍衾を作って戦う。槍は時代が下るにつれ、しだいに長くなり織田軍や斉藤道三の部隊では4.5mほどの長さだ。密集して槍を構えて近づき、先端が敵に届く距離になったら、突くより槍先を持ち上げて敵を上から叩く。長い方がアウトレンジで戦えるというメリットの他に、敵に近付き過ぎると怖くなって萎縮する、という点が重要だったのだと思う。
 中国には古代に戈(か)という武器があった。草刈鎌を槍の柄につけたような武器だ。長い柄の先に取りつけた鎌を相手の首に引っかけ手前に引く。うまくいけば相手の首が手前に落ちる。これなども臆病な兵士をなだめて、「とにかく相手に近づけ。戈の先を敵の首の後ろにかければ良い。後は思いっきり引っ張りながら逃げろ!」卑怯な武器だ。これは日本には伝わらなかった。
 始皇帝の秦の決戦兵器、弩(または連弩)も日本に入ってこなかった。弩は素晴らしい兵器だ。キリストが生まれる200年以上前に、中国にはこれほどの技術があったのだ。始皇帝が短期間に中国を統一出来たのは、弩に依るところが大きい。弩は滑車を用いた弓矢の連射装置だ。ハンドルを手でカチャカチャ動かすことによって、箱に収めた短めの矢を連射する。弩は木製の3つのパーツに分かれるが、極めてシンプルな構造なので直ぐに大量生産出来る。矢は10本を一度に格納し、全部発射し終わったら補充する。その連射スピードだが、TVの歴史番組でボルトアクションのウィンチェスター銃の名人と競い、わずかに弩が勝っていた。
 ひざをついて弩を構え、矢の先端を斜め上にして敵に向け、ハンドルを動かす。カチャカチャカチャ十回動かせば10本の矢が飛び出す。弩の大部隊を編成して一斉に矢を放てば、500m先を進撃してくる敵部隊は頭上から、空が暗くなるほどの矢の雨を食らい全滅する。弩の短所は、射程距離の短さと正確性だが、弩連射部隊を大編成にすれば正確性は問題にならない。点を狙えなくても面でカバーする。射程距離の短さは、近づくまで待てばよい。何しろ撃ち始めたら矢のシャワーだ。長弓の射手は10年といった長い期間の訓練が必要で、次の矢を射るまでに時間がかかる。騎馬隊の突撃にあったら、二射が限界だろう。弩なら一秒で1射、10秒で10射するから馬も騎兵も針ねずみのようになる。弩の操作に訓練はいらない。弩を敵に向けハンドルをカチャカチャと動かすだけだ。映画『レッドクリフ』の後篇で、呉の軍が魏の曹操軍の砦を攻めるシーンで一瞬弩が出てくる。ここでは砦から射手が顔を出すのを阻止する目的で使われていた。気づいた人はいるかな。
 あと倭寇、主に明代の中国と朝鮮を震え上がらせた日本の海賊。日本刀の伝説的な切れ味の良さと共に、死を恐れない大胆不敵、神出鬼没な活躍が怖れられた。時として船を下りて内陸深く浸透し、城塞都市を襲い掠奪した。倭寇は北九州の水軍が中心になっているが、実際には多国籍軍で多くの中国人が参加していた。一説によると真倭、つまり日本人は10の内2-3人しかいなかったという。中国人海賊が倭寇に化け、チョンマゲ、フンドシをしていたのだ。全くの偽倭寇もいただろう。「倭寇だ!」という先入観から来る恐怖心を利用したのだ。倭寇が舟戦で使った武器だが、ヤガラモガラのような単純なものが好まれた。ヤガラモガラは太めのバットに沢山の釘を打ち込んだ(釘の頭ではなく、先端の方が先を向いている。)もので、こんなので殴られたらいやだ。鎧だろうが兜だろうが上から打撃で押しつぶす。
 だいたい金属製の防具を着ている相手に刀で切りかかるなんて阿呆だ。切れる訳がないじゃん。刀が曲がるし衝撃で手がしびれる。刀は刃こぼれしてボロボロになるか、折れてしまう。倭寇は水に落ちた奴を見つけると、長い棒の先にブラシをたくさんつけたような道具を髪の毛に巻きつけ水から引き揚げた。火器もよく使った。
 さて色々と書いてきたが、昔の武士は意外と臆病で、割りと卑怯だったのね。職業軍人は死なない事が仕事のようなものだし、年中戦さをしているのだから、要領よく立ち回らなくちゃ命がいくつあっても足らない。近代戦で機関銃に徒歩で立ち向かった、第一次大戦の西部戦線の兵士や、日露戦争で旅順要塞に向かった日本兵の方がはるかに勇敢だとは思うよ。ただ彼らには選択の余地が無い。戦いを楽しむ余裕など微塵も無かった。武士の時代の戦は物語の主人公のように華々しくて、楽しむ余裕すらあったように思える。
 アアこんな話しをしていたら、半日しゃべっても終わりやしない。ここらでいったん切るね。またそのうち、この続きを、Adios!

万年集落~資源の減らない社会

2015年12月02日 18時52分08秒 | エッセイ
万年集落~資源の減らない社会

 小じんまりとした金魚の水槽、小さな金魚が一匹泳いでいる。金魚藻は窓からの太陽の光を受けて緑色にたなびく。この水槽にガラスのフタをしてみよう。フタをすることによって水は蒸発しなくなる。すると水槽の中に、金魚の寿命が尽きるまで循環した小宇宙が生まれる。藻は太陽の光で光合成を行い成長する。成長した藻をミジンコやプランクトンが食べる。そのミジンコ類を金魚が食べてフンをする。そのフンを栄養素として藻とプランクトンが成長し、それぞれをエサにして-----生命の循環。小宇宙は無駄なく循環して不要、余剰を生じない。でもこの水槽の中で一生を終える金魚は、果たして幸せなんだろうか。危険はないが出会いも無ければハプニングもない。
 先日NHKでやっていた番組の中で、縄文時代を取り上げていた。ご存知のように縄文の火焔式土器の造形は美しい。煮炊きの目的にはじゃまになりそうな装飾は、伸び伸びとして自由奔放で力強く、楽しくて美しい。土偶は個性的だ。宇宙人を思わせるような、型にはまらない自由な発想に満ちている。縄文の社会は1万年継続が可能なものだったという。1万年続いて人が生活しても、余程の自然環境の変化が起きない限り、野山の動植物はその数を減らさない。毎年毎年収集した分は、自然に補充される。人はリスや鹿のように自然の一部として生きる。
 縄文人は狩猟と採集を行う。農耕も遊牧も行わない。大陸との交流は行われていたので、朝鮮半島から稲作の技術を導入する機会はあったのだが、彼らはそれを選択しなかった。稲作に頼らなくとも野山や海川湖から豊かな恵みを享受出来たのだ。例えば野山ではワラビ・ゼンマイ・ヤマイモ・ノビル、海辺では貝や海藻を採る。カニや昆虫、昆虫の幼虫、鳥の卵やハチの巣なども良い。
 東北で数百年続いたと思われる集落の発掘調査を行うと、巨大な物見櫓、大きな集会場のような建物、集落を貫く立派な道路が見つかった。そしてその集落を取り囲むように、広大な栗の木の林が作られていた。栗、ドングリ(ブナ、コナラ、ミズナラ、クヌギ、アカガシの実)、胡桃等は貯蔵に適している。狩りはいつでも獲物が取れる訳ではないが、保存食があれば落ち着いた生活が営める。但し人間の数があまり増えてはいけない。鹿・猪・狼・熊・兎・ネズミ・蛇・鳥といった動物達と同じように、人も適切な数を保つ必要がある。これは重要なポイントだ。旧約聖書に云う「生めよ、ふえよ、地に満てよ。」ではいけない。☆☆☆ 最後に註あり。
 我々は田園風景を見て自然はいいな、田んぼがあって柿の木が植わり、鎮守の森があるねと思う。田畑の脇に村落が広がり、川では水車が回る。これが本当の人間の営みだ、自然と共存した生き方だ、などと思うが水田や畑は本来の自然ではない。照葉樹林の森や平原、湿原を変形させて作ったものだ。厳しい言い方かもしれないが、田畑は極めて人工的なものである。米・麦といった作物の集積は生活の余裕を生み、富の蓄積が生まれた。それに伴って強いリーダーシップを持ったボスが必要になり、徐々に階級社会へと移行する。
 機能的な弥生式土器には独創性も大らかさも感じ取れない。貯蔵可能な収穫物の収蔵に伴って、その掠奪が始まり、やがては集落同士の争いに発展する。稲作は共同作業で、水利は収獲を左右する。水利権や争いごとの調整、隣村との闘争に打ち勝つために権力の集中が行われ、階級社会が定着した。余剰生産の結果、職人や大工、天文・気象を見る人、薬草のプロ、ついでに娼婦といった専門職が生まれ、戦いの武器が進化し、やがては銅、錫、そして鉄といった金属加工の技術を獲得するに至る。そして社会は加速度をつけて前進する。立ち止まれば他の集団に負け、奴隷となるしかない。青銅の剣は鉄の剣には歯がたたない。
 大和大乱の時代が始まり、小集団が征服されたり融合したりして、やがては豪族が誕生する。動き出した社会は止まらない。宗教も発展し人々の救いになったり、逆に人々を抑圧したりする。宗教が発展すると、直接生産活動をしないシャーマンや僧侶といった人達が現れる。占い師や医師が生まれる。分業が定着してそれぞれの技術が飛躍的に進む。
 ところで、近代になってから奇妙な大軍縮を自ら行い、テクノロジーの進化を中断するという、世界史上でも珍しい選択をした社会がある。その国では、大砲・鉄砲から弓矢・槍の時代へ逆行したのだ。日本の江戸時代260年間がそれだ。国の門戸を極めて限定し、原則国交を閉じる〝鎖国政策〟を取りえたのは島国であること、極東に在ること、ポルトガル・オランダ・イギリスが他の植民地や中国で手一杯で未だ手が回らなかったという、多分に外因的な地政学上の理由による。
 そして江戸時代の末期になると、外部的には帝国主義の先進国であるアメリカ、ロシア、イギリス、フランス等の進出。内部的には閉鎖的な経済と硬直化した身分制度の行き詰まりにより、江戸時代は劇的な崩壊を遂げる。しかしながら200年以上戦争のない社会を保ったのはなかなか凄い。環境・自然破壊の極めて少ない社会で、文化的でありながらエネルギー消費のとても小さい世の中であった。地方の族長(藩主)の財力が蓄積するのを防ぐ為の〝参勤交代〟の制度は実にユニークだ。でも仏塔建築競争とかなら形に残ったのにね。
 江戸の町を例にとると、包装紙は笹の葉、履物はワラで編んだ草履、着るものは主に木綿・麻、暖房・調理は炭か焚き木、灯りは植物油・魚油又はろうそく。肉食はほとんどしないで、食事は主に穀物と魚貝類、野菜。全て自然に還る有機物である。まあ屋久杉(樹齢千年を超える巨木)の伐採などはあったが、大きな森林破壊は無くて里山はよく手入れがされていた。枝は切るが木はあまり倒さない。余談だが、韓国の山には樹齢500年を超えるような大木が生えていない。元寇の際に日本攻略の兵船を作るため、根こそぎ伐採してしまったのだ。これは朝鮮も被害者だろうが、日本はより一方的な被害者だから、さすがに韓国も日本に抗議するわけにはいかないな。
 江戸の町は縦横に水路が発達していたので、牛馬に頼らなくてもその十倍も輸送力のある舟によって荷物はスムーズに運搬された。排泄物は貴重な肥料として農村部に送られ、食料増産の基となって循環した。汚物を買い取ってくれるのだから、衛生面でも都合が良い。かまどの灰まで定期的に買い取る業者がいたという。木と紙で出来た家屋は燃えやすくてしばしば大火災を出したが、レンガを作るために山を丸裸にして火を焚いたり、羊を飼って草の根まで食べつくすような事は無かった。
 上水道が整備され公衆浴場が発達していたので、都市の清潔は保たれ、幕末から明治の初めにかけて大流行した、コレラやインフルエンザのような病気
の蔓延は起きなかった。治安はすこぶる良く、殺人などはあれば語り草になるほど起きなかった。その結果、開国した頃の日本は鬱蒼たる森林に囲まれ、野山には野鳥や獣があふれ、川は現在の数倍の水量が流れ、上流にはカワウソが巣を作っていた。海で獲れる魚は信じられない程大きくて、カレイやヒラメなどは肩で担ぐ程の大きさ(魚河岸の絵が残っている。)で、鯨の群れは沿海を群れをなして泳いでいた。
 しかしインフラの整備は悪くて、道は狭くて川は政策的に橋をかけず、山奥の集落へは獣道のような道路しかなく、隣の村より先に行かないで生涯を送るような人々が大勢いた。階級はカーストの如く固定化し、士農工商その下に被差別階級、、を設けた。親の仕事を子が継ぎ、孫が継ぐ。戦争が200年無いのに、鎧のスス払いが一生の仕事だったりする。それを代々世襲する。俺だったら人生に絶望してヤケクソになりそうだ。
 世の中が閉塞し、長いものには巻かれろ、事なかれ主義、くさい物には蓋、横並び精神、出る杭は打たれると、全体を通し陰気で沈滞した社会であった。しかし各種の手工業や絵画、読み物、演芸等は独自の深化と発展を遂げる。この鎖国時代を壮大な実験として捉えると、良い面もあり悪い面もある。しかしとてもユニークな文明だった。幕末~明治の初めに日本に来た欧州の人が目を見張るワンダーランドだ。当時の日本人は平均身長が小さかった。体が小さいということは消費エネルギーも小さいということだ。省エネには適している。住まいも小さくて済む。
 また子供の教育には大変熱心で、江戸の文盲率の低さは群を抜き、教育水準は当時のロンドン、ニューヨーク、パリを上回っていた。教育の蓄積が開国後の急速な発展の原資となった。短期間では作れない、とても貴重な人的資源だ。男女の色ごとにはかなり開放的で、今のようにあくせくしていない。ちょっと信じられないが、明治の初めに日本で仕事をした欧州人が、日本人が時間にルーズなことを嘆いている。
 あ々、こんなに長く江戸の事を書く積りじゃあなかったのに。万年集落、資源を減らさない文明はアイヌの人達も、イヌイット(エスキモー)もアメリカインディアンも、それからオーストラリア、NZ、アフリカ等世界各地で数千年間続けられてきた。しかし農耕を始めると自然との共存は困難になる。年を越えて備蓄出来る食料(つまり富)を持つ事は滅びへの始まりなのか?言い換えればそれは、輝かしい進歩・発展なのだが。食料が増産され人口が飛躍的に増えるのは良いことなんだろうか。或いは滅亡への第一歩となるのだろうか。急激に大増殖したレミングは、集団で爆走し新天地を求めて移動する。その一部は川や海に落ちる。もっとも泳ぎはうまいらしい。
 ここまで人口が増え(キリストが生まれた頃の世界人口は2~3億人、15世紀で約5億人)、電気に頼り一人でパーソナルコンピューターと携帯端末を持つような社会で、狩猟採集の万年集落をそのまま手本にすることは出来ない。しかしながら地球と人間、自然と人間、人のあるべき姿、何か学ぶべき点があるような気がしてならない。
 このままでは世界は行き詰まる可能性が大きい。一人一人で考え、世の中の流れに竿を差して生き方を模索し、選択し変えて行く。一歩の前進は千里への道のスタートだ。まあ俺には面倒ちいが、有志の皆さん頑張ってね。応援するぜよ。
 今回は説教ジイくさかった?ゴメンね。でもたまには真面目に。

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 「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。」= 旧約聖書、創世記。6日目の神の言葉。旧約聖書をバイブルとするユダヤ教、キリスト教、イスラム教、つまり啓典の民はこのように自然と対峙し征服しようとする。人間界に於いても選民思想を貫く。八百万の神を自然の中に見出そうとした日本とは真逆の精神だ。
 仏教は世捨て人の思想だ。つらい現世、輪廻の世界からの解脱を目指す。自然はあるがままに受け入れる。道教も自然体だ。ヒンズー教、儒教、ジャイナ教、ゾロアスター教、よく分からん。ただ旧約聖書に依る人達で、世界の55%は占められる。
 人間を生き物の上位に置き、その上に神を置く。大地を支配下に敷く、この考え方は行き詰っている。しかし過酷な砂漠、土漠地帯で生きていくのが大変な環境の中で、自然に親しめというのもふざけた話しだ。色々な考えがあって当然、みんな勝手な事を言っても良いが、それしかないと思い込み、人に強制したらいかんよ。それはうまくない。