モヒカン族、スー族
アメリカインディアンという呼び方には違和感がある。元々コロンブスが勝手にインドと間違えたのだし、口は達者だがいかにも喧嘩の弱そうなインド人とはイメージが合わない。彼らモンゴロイド系の民は、紀元前12,000年ごろ最終氷河期にベーリング海峡を歩いて渡り、時間をかけて南北アメリカ大陸を縦断し南極の近くマゼラン海峡に達した。15世紀にやってきた船乗りが、新大陸発見とかいうのはおこがましい。10世紀末にはヴァイキング(アイルランド系ノルマン人)が、カナダに入植を試みたが失敗している。明の鄭和の分遣隊が、コロンブスの百年近く前に到達しているらしい。ポリネシア系の人たちも航海して来ている形跡がある。
ネイティブアメリカン(黒人はネイティブアフリカン)という呼び方には、どこか胡散臭さが付きまとう。やはりシャイアン、クロウ、コマンチといった部族名で呼ぶのがしっくりとくる。彼らのことについては、自分自身西部劇に毒されて随分と誤解していたことが分かってきた。
1492年にコロンブスがカリブ海の島(サン・サルバドル島)に上陸して以来、インディアンにとっては受難の連続となった。コロンブスのスペイン兵は非武装のインディオを手当たりしだいに虐殺した。短期間に5万人の住民を殺している。生き残ったインディアは奴隷として酷使した。支配を広げるに従って更に殺し、拷問して金のありかを探った。またコロンブス一行が持ち込んだ伝染病、天然痘・麻疹・ジフテリア・猩紅熱等は、南北アメリカには無かったので急速な感染によって、たちまち人口が減少した。
サント・ドミンゴ、プエルト・リコ、ジャマイカ、キューバ島の原住民100万人はことごとく絶滅した。スペイン人による南米征服により、インカ帝国の住民は1,600万人から108万人に、アステカの方は1,100万人が100万人に激減した。それによって金銀採掘や大規模農園での労働力が不足し、それを補うためにアフリカ大陸から奴隷として黒人を連れてきた。悪辣の連鎖だな。現在の中南米諸国では、大虐殺と伝染病から生き残ったインディオとアフリカから奴隷船に乗せられて連れてこられた黒人、欧州各地からやってきた白人移民の子孫が複雑に混血している。
コロンブス以前に約1,000万人いたと推測されるアメリカインディアンは、2,000年の国勢調査では247万人に減少している。この247万人の内、一番人口が多いのはナバホ族、次いでチェロキー⇒チョクトー⇒スー⇒チベワ⇒アパッチ⇒ラムビー⇒ブラックフット⇒イロコイ⇒ブエブロ族となっている。ナバホ族はアパッチ族に近い種族で、第二次世界大戦中に動員され通信兵として、太平洋の島嶼で日本軍と対戦している。通信の発信者も受信者もナバホ族を介することにより、英語が得意な日本兵に通信を傍受されても内容を分からなくしたのだ。前線ではナバホの通信兵を護衛すると同時に、捕虜になりそうな局面では射殺する役目の下士官がついた。最前線で日本兵を見たナバホの青年は、「後ろにいる白人より敵兵の顔立ちが我々に近く、親近感を抱きそうになって困った。」と述べている。
さてアメリカインディアンに対する誤解だが、次のようなものだ。我々日本人の持つ知識や感性が、彼らよりも白人に近いことが分かるだろう。
・映画『モヒカン族の最後』の中で、息子を殺されモヒカン族の血は途絶えたと嘆く戦士のイメージが強くて、本当にモヒカン族は絶滅したのかと思ってしまう。結論から言うと、モヒカン族の子孫は残っている。少数ながら居留区やNYに今でもモヒカン族の小さなコミュニティーがある。しかし多くのアメリカ人は、映画と小説の影響でモヒカン族は死に絶えたと思っているので、役所での権利関係の手続きで困ることが多いそうだ。あの小説のモデルはモヒカン族ではなくてマヒカン族なんだそうだ。
・頭頂部もしくは中間部分の髪だけを残して毛髪を削ぐモヒカン刈りは有名だ。戦士が狩りや戦いの時に弓を射やすくするために行うが、モヒカン族だけでなく、対立するモホーク族もこの髪型をしている。
・インディアンの固有の風習に頭の皮を剥ぐことは無かった。最初に頭の皮を剥いだのは、入植者である白人の方だ。18世紀のアメリカ政府機関が敵対勢力のインディアンやフランス人を殺させて、その証拠として頭の皮を懸賞金をかけて募集した。
・白人が入ってくる以前も部族間での闘争はあったが、銃器も馬もなく模擬戦争や戦争遊びのようなものが主流だった。相手を絶滅するような激しい戦いはしていない。
・インディアンには土地所有の概念は全く無かった。白人が金を払って彼らの土地を購入したと思う。金なり馬なりを受け取ったインディアンは、白人が贈り物をしてこの土地に住む権利を求めてきたと判断する。白人は買ったのだから出て行け、インディアンは何で、となる。
・インディアン社会では男女が同権であった、というか母系社会で財産権は妻が持っていた。結婚も離婚も個人の自由で、他人が口をはさむことは無かった。後に白人が自分たちの制度に則って父系の財産相続を押し付けるので混乱する。またいわゆるオカマちゃんは、スピリチュアルなものとして大切にされていた。負傷者の手当てや赤ん坊の名付け等の役割を担った。これも当時のピューリタンは嫌悪する。
・そして最大の誤解。今でも大抵のアメリカ人が分かっていないし、自分も間違っていた。インディアンに好意的な西部劇でもここが間違っている。すなわちアメリカインディアンの世界は、欧米のようにまたインカやアステカ/マヤのように皇帝や王、首相が君臨する縦割り社会ではない。彼らは伝統的に極めて高度な個人主義文化を持つ。酋長は「調停者」「世話役」又は「奉仕者」であって、「指導者」「指揮官」又は「部族長」ではなく、「裁判官」でもない。酋長は誰かに任命される訳ではないし、部族民を従属させたり命令する権限など全く持っていない。そもそも彼らの社会に、人に命令する強制するという考えはない。戦争においても彼らは個人又は部族単位で自由参加しているのであって、司令官がいる訳ではない。インディアンの社会は細かい集団に細分化され、それぞれが自治を保ち己の判断で動いていたのだ。酋長も大戦士も区別できず、酋長を司令官や首長だと思い込んでいる白人は、インディアンが協定を結んでも約束を守らないと思い、同じ過ちと何度も繰り返した。アパッチの戦士ジェロニモも、スー族の偉大なシャーマンにして大戦士シッティング・ブルも酋長ではない。
さて保留区に追い込まれたインディアンは、鉄道が通るだの金が出たといっては協定を破ってより辺境に追いやられる。食糧は保留区の管理官によってあくどく中間搾取され、反抗的だといってそれさえ停められる。リンカーン大統領もインディアンに対しては血も涙もない。
インディアン戦争は1890年12月29日、合衆国騎馬隊500名による護送中のスー族に対する無差別殺戮で終わりを告げた。女と子供も含む150名以上がウーンデッド・ニー・クリークにおいて虐殺された。死んだ白人兵25名は味方からの誤射による。その当時スー族の間で、死者を蘇らせるゴースト・ダンスが盛んだった。白人兵はその執拗なダンスに苛立っていた。
ここで筆を置くのもつらいので、リトルビックホーンの戦いを最後にしよう。1876年6月25日、米陸軍インディアン掃討軍はモンタナ州南東部において、儀式と会議のために集結していたスー族、シャイアン族、アラバホ族の1,500人規模の野営地を発見した。手柄に逸るカスター中佐は、上官から翌日の一斉攻撃を下命されていたのを無視し、第七騎兵隊単独での攻撃を決める。インディアン斥候、アリカワ族のブラッディ・ナイフ酋長や副官の忠告は聞き流した。
カスターは隊を三つに分け、副官リノが渡河して威力偵察を行うが、騎兵隊の動きを把握していたスー連合軍の巧妙な攻撃を受けてたちまち撃退された。カスターは独断で総攻撃をかけるが、カスター隊の接近を待ち構えていたクレージ・ホースやゴールといったスー族戦士、シャイアン族の戦士ツー・ムーンズらの待ち伏せ攻撃に遭いしだいに追い詰められてゆく。2時間に渡り戦闘は続く。水の無い河川敷に追い詰められたカスター隊の生き残りは、両岸から弓矢、銃弾をバッファロー狩りのように浴びせられ、本隊225名はカスター自身と共に全滅する。
しかしスー族だけで136人が戦死し、160人が負傷しているので全く一方的な戦いであった訳ではない。カスター配下の「第七騎兵隊」は隊員に東欧系の遅れてきた移民が多く、黒人兵もいた。戦いの間際には部隊の行軍に疲れ、士気は低下していた。弾薬は1人につき124発しか装備していず、幌馬車に2万4千発以上残してあった。これは後でインディアン達の戦利品となる。
この戦場跡では近年になって調査が行われているが、戦場に今も残る薬莢の数が、インディアン側はカスター隊の4倍発見されている。第七騎兵隊は単発式のスプリングフィールドだが、インディアン部隊では47種類以上の銃が使用されていた。ヘンリー連発銃も使われているし、先込式の旧式銃も多かった。旧式銃は不利なようだが、地面に落ちた弾丸を詰め直して撃つことが出来る。手斧と弓矢も主要な武器だ。単発銃より弓の方が連射に優れている。
調査の過程で野ざらしの頭骨が出てきたが、これがひどい歯槽膿漏でカスター隊のXXという隊員であることが分かった。カスター隊は最終段階ではパニックになって逃げまどっている。銃弾が尽きたのだろう。
インディアンには樹木や獣を尊いものとして、人と同等に扱う深い精神世界があった。霊的な夢を重視する風習もあった。しかしこの150年間で、民族の誇りも文化もコナゴナに打ち砕かれた。現在の彼らに会ったら、失望させられる可能性は大きい。ジャンクフードで太り、怠惰で暴力的なアル中になど会いたくはない。シッティング・ブルは言う。「インディアンだって?私の他にはもうインディアンは残っていない。」
アメリカインディアンという呼び方には違和感がある。元々コロンブスが勝手にインドと間違えたのだし、口は達者だがいかにも喧嘩の弱そうなインド人とはイメージが合わない。彼らモンゴロイド系の民は、紀元前12,000年ごろ最終氷河期にベーリング海峡を歩いて渡り、時間をかけて南北アメリカ大陸を縦断し南極の近くマゼラン海峡に達した。15世紀にやってきた船乗りが、新大陸発見とかいうのはおこがましい。10世紀末にはヴァイキング(アイルランド系ノルマン人)が、カナダに入植を試みたが失敗している。明の鄭和の分遣隊が、コロンブスの百年近く前に到達しているらしい。ポリネシア系の人たちも航海して来ている形跡がある。
ネイティブアメリカン(黒人はネイティブアフリカン)という呼び方には、どこか胡散臭さが付きまとう。やはりシャイアン、クロウ、コマンチといった部族名で呼ぶのがしっくりとくる。彼らのことについては、自分自身西部劇に毒されて随分と誤解していたことが分かってきた。
1492年にコロンブスがカリブ海の島(サン・サルバドル島)に上陸して以来、インディアンにとっては受難の連続となった。コロンブスのスペイン兵は非武装のインディオを手当たりしだいに虐殺した。短期間に5万人の住民を殺している。生き残ったインディアは奴隷として酷使した。支配を広げるに従って更に殺し、拷問して金のありかを探った。またコロンブス一行が持ち込んだ伝染病、天然痘・麻疹・ジフテリア・猩紅熱等は、南北アメリカには無かったので急速な感染によって、たちまち人口が減少した。
サント・ドミンゴ、プエルト・リコ、ジャマイカ、キューバ島の原住民100万人はことごとく絶滅した。スペイン人による南米征服により、インカ帝国の住民は1,600万人から108万人に、アステカの方は1,100万人が100万人に激減した。それによって金銀採掘や大規模農園での労働力が不足し、それを補うためにアフリカ大陸から奴隷として黒人を連れてきた。悪辣の連鎖だな。現在の中南米諸国では、大虐殺と伝染病から生き残ったインディオとアフリカから奴隷船に乗せられて連れてこられた黒人、欧州各地からやってきた白人移民の子孫が複雑に混血している。
コロンブス以前に約1,000万人いたと推測されるアメリカインディアンは、2,000年の国勢調査では247万人に減少している。この247万人の内、一番人口が多いのはナバホ族、次いでチェロキー⇒チョクトー⇒スー⇒チベワ⇒アパッチ⇒ラムビー⇒ブラックフット⇒イロコイ⇒ブエブロ族となっている。ナバホ族はアパッチ族に近い種族で、第二次世界大戦中に動員され通信兵として、太平洋の島嶼で日本軍と対戦している。通信の発信者も受信者もナバホ族を介することにより、英語が得意な日本兵に通信を傍受されても内容を分からなくしたのだ。前線ではナバホの通信兵を護衛すると同時に、捕虜になりそうな局面では射殺する役目の下士官がついた。最前線で日本兵を見たナバホの青年は、「後ろにいる白人より敵兵の顔立ちが我々に近く、親近感を抱きそうになって困った。」と述べている。
さてアメリカインディアンに対する誤解だが、次のようなものだ。我々日本人の持つ知識や感性が、彼らよりも白人に近いことが分かるだろう。
・映画『モヒカン族の最後』の中で、息子を殺されモヒカン族の血は途絶えたと嘆く戦士のイメージが強くて、本当にモヒカン族は絶滅したのかと思ってしまう。結論から言うと、モヒカン族の子孫は残っている。少数ながら居留区やNYに今でもモヒカン族の小さなコミュニティーがある。しかし多くのアメリカ人は、映画と小説の影響でモヒカン族は死に絶えたと思っているので、役所での権利関係の手続きで困ることが多いそうだ。あの小説のモデルはモヒカン族ではなくてマヒカン族なんだそうだ。
・頭頂部もしくは中間部分の髪だけを残して毛髪を削ぐモヒカン刈りは有名だ。戦士が狩りや戦いの時に弓を射やすくするために行うが、モヒカン族だけでなく、対立するモホーク族もこの髪型をしている。
・インディアンの固有の風習に頭の皮を剥ぐことは無かった。最初に頭の皮を剥いだのは、入植者である白人の方だ。18世紀のアメリカ政府機関が敵対勢力のインディアンやフランス人を殺させて、その証拠として頭の皮を懸賞金をかけて募集した。
・白人が入ってくる以前も部族間での闘争はあったが、銃器も馬もなく模擬戦争や戦争遊びのようなものが主流だった。相手を絶滅するような激しい戦いはしていない。
・インディアンには土地所有の概念は全く無かった。白人が金を払って彼らの土地を購入したと思う。金なり馬なりを受け取ったインディアンは、白人が贈り物をしてこの土地に住む権利を求めてきたと判断する。白人は買ったのだから出て行け、インディアンは何で、となる。
・インディアン社会では男女が同権であった、というか母系社会で財産権は妻が持っていた。結婚も離婚も個人の自由で、他人が口をはさむことは無かった。後に白人が自分たちの制度に則って父系の財産相続を押し付けるので混乱する。またいわゆるオカマちゃんは、スピリチュアルなものとして大切にされていた。負傷者の手当てや赤ん坊の名付け等の役割を担った。これも当時のピューリタンは嫌悪する。
・そして最大の誤解。今でも大抵のアメリカ人が分かっていないし、自分も間違っていた。インディアンに好意的な西部劇でもここが間違っている。すなわちアメリカインディアンの世界は、欧米のようにまたインカやアステカ/マヤのように皇帝や王、首相が君臨する縦割り社会ではない。彼らは伝統的に極めて高度な個人主義文化を持つ。酋長は「調停者」「世話役」又は「奉仕者」であって、「指導者」「指揮官」又は「部族長」ではなく、「裁判官」でもない。酋長は誰かに任命される訳ではないし、部族民を従属させたり命令する権限など全く持っていない。そもそも彼らの社会に、人に命令する強制するという考えはない。戦争においても彼らは個人又は部族単位で自由参加しているのであって、司令官がいる訳ではない。インディアンの社会は細かい集団に細分化され、それぞれが自治を保ち己の判断で動いていたのだ。酋長も大戦士も区別できず、酋長を司令官や首長だと思い込んでいる白人は、インディアンが協定を結んでも約束を守らないと思い、同じ過ちと何度も繰り返した。アパッチの戦士ジェロニモも、スー族の偉大なシャーマンにして大戦士シッティング・ブルも酋長ではない。
さて保留区に追い込まれたインディアンは、鉄道が通るだの金が出たといっては協定を破ってより辺境に追いやられる。食糧は保留区の管理官によってあくどく中間搾取され、反抗的だといってそれさえ停められる。リンカーン大統領もインディアンに対しては血も涙もない。
インディアン戦争は1890年12月29日、合衆国騎馬隊500名による護送中のスー族に対する無差別殺戮で終わりを告げた。女と子供も含む150名以上がウーンデッド・ニー・クリークにおいて虐殺された。死んだ白人兵25名は味方からの誤射による。その当時スー族の間で、死者を蘇らせるゴースト・ダンスが盛んだった。白人兵はその執拗なダンスに苛立っていた。
ここで筆を置くのもつらいので、リトルビックホーンの戦いを最後にしよう。1876年6月25日、米陸軍インディアン掃討軍はモンタナ州南東部において、儀式と会議のために集結していたスー族、シャイアン族、アラバホ族の1,500人規模の野営地を発見した。手柄に逸るカスター中佐は、上官から翌日の一斉攻撃を下命されていたのを無視し、第七騎兵隊単独での攻撃を決める。インディアン斥候、アリカワ族のブラッディ・ナイフ酋長や副官の忠告は聞き流した。
カスターは隊を三つに分け、副官リノが渡河して威力偵察を行うが、騎兵隊の動きを把握していたスー連合軍の巧妙な攻撃を受けてたちまち撃退された。カスターは独断で総攻撃をかけるが、カスター隊の接近を待ち構えていたクレージ・ホースやゴールといったスー族戦士、シャイアン族の戦士ツー・ムーンズらの待ち伏せ攻撃に遭いしだいに追い詰められてゆく。2時間に渡り戦闘は続く。水の無い河川敷に追い詰められたカスター隊の生き残りは、両岸から弓矢、銃弾をバッファロー狩りのように浴びせられ、本隊225名はカスター自身と共に全滅する。
しかしスー族だけで136人が戦死し、160人が負傷しているので全く一方的な戦いであった訳ではない。カスター配下の「第七騎兵隊」は隊員に東欧系の遅れてきた移民が多く、黒人兵もいた。戦いの間際には部隊の行軍に疲れ、士気は低下していた。弾薬は1人につき124発しか装備していず、幌馬車に2万4千発以上残してあった。これは後でインディアン達の戦利品となる。
この戦場跡では近年になって調査が行われているが、戦場に今も残る薬莢の数が、インディアン側はカスター隊の4倍発見されている。第七騎兵隊は単発式のスプリングフィールドだが、インディアン部隊では47種類以上の銃が使用されていた。ヘンリー連発銃も使われているし、先込式の旧式銃も多かった。旧式銃は不利なようだが、地面に落ちた弾丸を詰め直して撃つことが出来る。手斧と弓矢も主要な武器だ。単発銃より弓の方が連射に優れている。
調査の過程で野ざらしの頭骨が出てきたが、これがひどい歯槽膿漏でカスター隊のXXという隊員であることが分かった。カスター隊は最終段階ではパニックになって逃げまどっている。銃弾が尽きたのだろう。
インディアンには樹木や獣を尊いものとして、人と同等に扱う深い精神世界があった。霊的な夢を重視する風習もあった。しかしこの150年間で、民族の誇りも文化もコナゴナに打ち砕かれた。現在の彼らに会ったら、失望させられる可能性は大きい。ジャンクフードで太り、怠惰で暴力的なアル中になど会いたくはない。シッティング・ブルは言う。「インディアンだって?私の他にはもうインディアンは残っていない。」
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