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旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

ビルマ紀行~立派な古木に会える国-2

2015年03月25日 08時06分12秒 | 旅日記
目次
・短い前置き
・ビルマとミャンマー
・長すぎる前置き

ビルマ編
・中国人街とインド人街(ヤンゴン市内)
・ミャンマーの歴史

パガン編
・パガンのパゴタ群
*ローカティイッパン寺院
*マヌーハ寺院
*アーナンダ寺院
*ダヤマンヂー寺院(幽霊寺)
・ブッたまげ、パワースポット、ポッパ山

インレー湖編
・インレー湖のほとり
・ファウンドーウー・パヤー
・インディン遺跡
・カックー遺跡

ヤンゴン編
・シュエダゴオン・パヤーは仏陀パーク
・ヤンゴン川向こう

・仕舞いに一言、三言

インレー湖編
インレー湖のほとり







 シャン州の高原にある大きな湖です。ヤンゴン市内のインヤー湖と名前が似ているので注意。山に囲まれた美しい湖で、ここで漁をするインダー族は片足をオールにかけて舟を漕ぎます。一説では水上生活で歩くことが少ないため、足腰を鍛えることを目的として足漕ぎをすると言われています。
 インレー湖の標高は884m、表面積は平均で43.5㎢の縦長の湖で水深はとても浅くて、最深部でも3.1m、雨期はそれに+1.5m加わります。大きさで言うと浜名湖(65㎢)、十和田湖(61㎢)より一回り小さい位ですね。12月の末でも朝晩は寒いという程ではありませんが、湖を突っ走るボートは高速なため、夕方は何か着ないと湖の上で寒い思いをするよ。
 湖自体が青く空も蒼く澄み渡って、周囲の山が湖面に写る様は一幅の絵画のようです。夕陽が赤くなると湖面を静かに染めて光の道を作ります。湖の周囲の道路は両側に木が植わった見事な並木道となっています。田畑で働く農民や子供達の行き交う姿を見るのは楽しいね。

ファウンドーウー・パヤー




 大きな水上寺院です。ここも、またガーペー僧院も建物の基礎は湖底に打ち込んであるのでしょうが、廻りを水で囲まれているので、まるで船の上にいるかのような錯覚に陥ります。ここには繊細な造りの仏像が数多くあるのですが、ご本尊の五体の仏像は笑っちゃいます。金箔を貼りすぎて元の形がさっぱり分からない金団子になっちゃった。ちなみに金箔は1セットが約300円か500円で3~5枚の10x10cm位の吹けた飛ぶように薄い箔が紙に包まれて売っています。薄いので台紙ごと対象物に押し付けてこすります。ミャンマーの物価から考えるとこの金箔セット、相当に高い。だいたいミャンマーの人はパゴタに来る前から小銭(10円,20円,50円)をお布施用に両替して用意しておきます。パゴタではお布施を入れる箱に景気よくパカパカと入れていきますが、そんなに入れて大丈夫?
 ここの金団子仏は男性しか触れません。別段ミャンマーで女性の地位が低いという訳ではないと思います。旅行中全くそのような印象は受けなかったし、この国では呼びかける際、「お母さん、お父さん」と必ず母父となっています。子供の時ご飯を食べさせてもらったし、お母さんの方がよりお世話になっている、というシゴク当たり前なご意見。市場の売り子はほとんど全員が女性で、ホテルでも食堂でも女性が活躍していますし、道路工事でも女性が働いています。一つには込み合う仏像近くでお坊さんとの接触を避ける意味があるのでしょう。
 ついでにここに記しますが、この地方独特の蓮の繊維を大変な時間と手間をかけてほぐし、蜘蛛の糸のような細い糸につぐみ、それを編んだ独特な生地があります。小さなマフラーでも五千円位してずば抜けて高額ですが、手に載せると何も載っていないよりも軽い位で、溶けていってしまいそうに柔らかい。

インディン遺跡






 ファウンドーウー・パヤーからボートで3-40分、湖の中の水路のような道を進むのは楽しいね。時々水の段差があってボートが狭い所をカクンと落ちるのが微妙に爽快。船着き場近くからインディン遺跡の中心までには、1km程の長い屋根付きの参道が通っています。軽い登り道になっているのですが、その参道の両側はずらりと土産物屋が店を出しています。
 この地方の手織のバックと布地、骨董品の店が多いのですが、余り商売熱心ではなく、客の数より売り子の方が多いですね。道のど真ん中で子犬が昼寝をしています。ジャングルに埋もれた忘れ去られた遺跡が勝手に好きな自分から見たら、このお土産横丁は興ざめですが、カミさんとガイドのフクさん(この二人は年も近く、意気投合して大の仲良し)は大喜びで大きなシャンバックを1ヶ400円ほどで三つも四つも買っていました。
 インディンでいつパゴタ造りが始まったのか、よく分かっていないようです。伝承ではアショーカ王(在位:紀元前268-232年頃)が寄進した塔がある、というけれどもそんなに古くはないでしょう。17-8世紀に造られた物が多いようです。最盛期には2,000以上あったそうですが、現存する塔は1,057、その大半が崩れて石と土に戻りつつあります。なかなか趣があります。小さくとも基本通り四面に門があり、中には小さな仏像が入っていたり、蜘蛛の巣が張って台座だけになっていたりします。
 この遺跡の近くには草原や農地が広がっていて、小さな村がありタマリンドの大木が植えられていたり、気持ちの良い所です。この遺跡、日本人が見るとお墓に見えてしまうのですが違いますよ。これは小さなパゴタなんです。庶民でも一族が力を併せて造り上げた小さな仏塔です。それが集まって千、二千とまとまったのがインディン遺跡です。インレー湖周辺には他にタントー、サガーという遺跡があるそうです。他にも双子山というガイドブックには載っていない仏教遺跡がシャン州にはあるそうです。
 最後にここで一つ声を大にして言いたいことがあります。朽ち果てて崩れかけている塔が多い中で、いくつか真っ白に、又は金ピカに塗り固められた不自然な塔が散見されます。まるで子供の粘土細工のようにこってりと塗られているので、元の彫刻も装飾も全く分からず、凹凸もなく分かるのは塔の元の高さと大きさだけです。こんなにひどい遺跡の破壊は見た事がない。こののっぺらぼうのような異様に白い又は金色の塔は、信者の寄進によるものです。ちょうどインディンの大本山のようなお寺(パゴタ?)に入った時に、在家の人がお寺の関係者と話していました。「塗り固め」をどの塔にするかと相談していました。止めて下さい。最も価値のある古くて大きな、彫刻の細やかな塔から潰されていってしまう。この点に関してはミャンマー人の美意識を疑います。八百年もたっている美しい文化遺産をセメントで塗り固めないで下さい。つるんとしたおデブな金の塔が美しいと思うなら、新しく作って下さい。コアとして古い塔を使わないで下さい。これは再生ではなく、破壊抹消です。ここで言ってもしょうがないのかもしれないけれど、本当に心が痛みます。

カックー遺跡






 ここはインレー湖の北東30km、シャン州の州都タウンヂーを経由して約二時間のドライブです。標高1,430mの高原の街、タウンヂーは人口が20万5千人、気候が温暖で植生が欧州と似ているので、植民地時代に英国人の避暑地として栄えました。ビルマで植民地政府の警察官を五年間勤めた英国の作家、ジョージ・オーウェルもここで休暇を過ごし、小説の中にこの街のことを記しています。街の中心から一本中に入ると、欧州風な建物がペンキははがれ色あせてはいるが、あちらこちらにチラホラと見受けられます。ガイドのフクさんは、「この街は景気が良いのでしょう。活気がある。」と言っていましたが、自分には建設ラッシュのヤンゴンほどには見受けられませんでした。
 タウンヂーからカックーまでの道路は未舗装の田舎道で、乾季だから良いようなものの、雨季はとんでもないことになりそう。何度も小さな水路や小川を渡るのですが、車が通る橋ゲタは、上の方をカットした丸太のような木で造られています。樽のフタのような木の上を車やトラックが通ります。途中で女性達が道路工事をしていましたが、「あっダメ、その造り方じゃあ大雨が来たら一発で壊れる」と勝手ながら思いました。一車線の道路は何度かコブ牛の群れに遮られたけれど、運転手は牛にも人にも、それはそれは優しい運転をしていました。
 この遺跡は2,000年9月に外国人に開放されました。他にも奥地に似たような遺跡があるのではないかな。ここに入るのには必ずパオ族のガイドをつけなければなりませんが、今回我々についた人は、英語の上手な20歳の可愛らしいお嬢さんでした。パオ族の黒い服と頭にとても長いオレンジ色のターバンをきれいに折り畳んでつけ、パッチワークのバックを肩からかけています。パオ族の言葉はビルマともシャンとも全く異なっていますが、とても熱心な仏教徒である事は共通しています。レストランでもそうでしたが、パオ族は美人が多いんでないかい。
 彼女は一人娘なのですが、お父さんの意向で十歳から一人でタウンヂーの街に来て、英語とガイドの勉強を始めたそうです。街からバス等で5~6時間はかかる実家の村には年に1.2回しか戻らないそうですが、ちょうど来週、いとこの結婚式か何かで帰るとうれしそうに話していました。そこで持参していた百円shopのアイテム(鉛筆・ボールペン・アメ・万華鏡)をプレゼントしました。万華鏡は興味深々、好評でした。
 カックーの仏塔は現在2,478個あるそうで、インディンよりも細長くて小型の塔が密集して整然と並んでいます。パオ族の人達は手を併せたままで歩きながら参拝していました。どうでもよい事ですが、やたらに張り切って走り廻り、どでかいカメラでバシャバシャ撮影していた日本人のオジさんが派手にすっころんでウンウン言っていましたが、カメラは大丈夫だったんでしょうか?ガイドのお嬢さんは、ああいう人につくと、良い撮影ポイントはどこかとこき使われて大変、と言っていました。遺跡で走ってはいけんよ。
カックーの遺跡の様子は写真からでも見てとれるでしょうが、実はこの遺跡には素敵なおまけがあるんだよ。塔のてっぺんに付いている金属箔が奏でる妙なる音色。金属片の大きさと形状によって様々な音が、風が吹く度に上の方からチリンカランと下りてきて、重なり合い風に飛ばされて消えて行きます。大半の塔は壊れかけているから、金属の風鈴はそんなに多くはないのだけれど、とても心地よいものです。風が吹く度に現れる綺麗な和音。数百年前は塔が色鮮やかで、風鈴の奏でる音は遠くまで響き渡ったんだろう。

ヤンゴン編
シュエダゴオン・パヤーはブッダパーク












 伝承によると2,500年前、紀元前585年にモン族の兄弟が印度を商用で訪れていた際に、お釈迦様に面会して直接八本の聖髪をもらい受け、帰国してモン族の王に捧げました。王はこの聖髪を丘の上に置き、高さ九mのストューパを建てた。それがこのパゴタ(パヤー)の始まりだと言います。
 ヤンゴン市内、丘全体がパゴタで中腹から下は公園になっています。中央の百mある黄金の塔を中心に、様々な時代に建てられた個性豊かな仏塔や建物、色々な建造物(多くは金色)、造形物、休憩スペース、大小様々な鐘等が立て込んで造られています。さながら仏陀パークですね。俗にして聖、卑ではない。ここには夜になってからガイドさんと、午前中にカミさんと都合二回訪れましたが、それぞれに趣があってとても良かった。夜は21時まで入れますが、昼も夜も人で一杯です。数えたら何百体あるのか、あちらもこちらもお釈迦様だらけで、夜は電飾ギンギン。ホントここはテーマパークのノリだね、楽しくなってきた。通路は停電して何度も暗くなるのに(直ぐ復旧するが)塔のライトアップやお釈迦様の光背は別電源らしくて消えない。
 この仏陀パークには隠れた小部屋、意外なスペース、思いがけない建物があちらこちらにあって、ガイドさんに教えてもらわなくては、とても行かないような建物の裏側に小洞窟か半地下室のような所があって、そこに窮屈にお釈迦様が祭られていて隠れパワースポットになっていたりする。最初にフクさんと一緒に行って良かった。お祈りの仕方、ろうそくや線香のあげ方、カミさんは瞑想の方法、呼吸法をフクさんに教えてもらいました。お祈りは他の人がやっているのを横目で見て、格好よい人のを真似るのですが、いかんせん付け焼き刃、外国人だって直ぐに分かるね。だけど曲がりなりにも仏教徒で良かった。イスラムの国を旅する時のような疎外感は味あわなくて済むもんな。
 中央の黄金の塔は残念ながら修復中で養生がなされていました。天頂部は取り外して交換が出来るようになっています。古い天頂部の金具が展示されていました。ビルマ最後の王朝の英明なミンドン王が寄進したものでしょうか?風見鶏の所に取り付けられていた76カラットのダイヤモンドは現在のものに付け代えられています。このダイヤの他に天頂部の金具にはダイヤ5,451ケ、ルビー1,383ケが収納されているそうです。お金持ちのおばあさんが亡くなり遺言で由緒ある翡翠の指輪をパゴタに寄進したりします。そういった宝石が天頂部にビッシリと格納されています。パゴタの一郭にここの昔の白黒写真や現在の写真をパネルで展示しているコーナーがあって、とても興味深いのですが、この金具の内側には宝石、指輪がゴチャマンとつけてあります。それらは半端ではない質と量です。最上級のヒスイはミャンマーでしか採れませんし(日本は二番目の産地)、ビルマのルビーはピジョンブラッド(鳩の血)という色合いの高級品が産出します。
 百年前も建造物は立派なのですが、人口は今よりもずっと少なかったのでしょう。写真の中の境内は閑散としています。英国人が土足で歩いている姿も写っています。英国人といえば、ここシュエダゴオン・パゴタは英緬戦争に於いて二度戦場になりました。
 第一次英緬戦争では、ビルマ側の不意を突きヤンゴン上陸を果たした英印軍(一万数千)が市内で唯一の高台であるこの丘に立てこもりました。ラカインの戦場から引き返して来たビルマ軍は市民を疎開させ、折しも雨期による大雨の中、三万人の兵士が下から正面攻撃をかけ、ついに七千人になるまで勇敢に戦いますが、いかんせん銃器の性能が格段に違う。
 幕末の戌申戦争では、有効射程百mのゲベール銃が主体の幕府軍が、有効射程一千mのミニエー銃(主にエンフィールド銃)を持つ新政府軍にコテンパンにやられましたが、ここでも銃砲の性能の差は勇気では埋められません。どだい玉の装填にかかる時間が全然違うし、ビルマ軍の大砲は炸裂しない鉄の玉を打ち出すだけでした。終日攻め続けたビルマ軍は丘を戦死者で埋め尽くして、ついに撤退しました。持久戦に持ち込めば良かったのに。
 第二次英緬戦争では逆にビルマ軍がシュエダゴオン・パゴタに立てこもりましたが、英印軍に打ち破られました。第三次では戦争にすらならず、最後の王と王妃は牛に引かせた荷車でボンベイ(ムンバイ)に移送され、死ぬまでその地に留め置かれました。王国は滅びました。ミンドン王が76カラットのダイヤつきの天頂部をここに寄進したのは、第二次英緬戦争の後ですが、略奪をしなかった英植民地政府と日本軍をちゃっとだけ褒めておきます。
 さて日本人なら友達モードに入るのに、血液型は何?って聞くけれど、ここでは何曜日生まれ?というのが取っかかり。水曜は午前と午後に分かれているので、全部で八曜日あり、それぞれの曜日に動物がついています。自分が何曜日かはこちらを参考にして下さい。
http://www.yangonow.com/jpn/culture/day_and_destiny/index.html 
ちなみに自分は土曜でドラゴンです。のん気な人が多く、人にだまされやすいそうです。そりゃお世話さま。各曜日ごとに祭壇が作ってあり、小さな仏陀、その後ろに守護神のような立像、壇の手前下の方に曜日ごとの動物が造形されています。小さなスペースの所は円形にぐるりと八曜日の祭壇が並んでいて、大きな所は祭壇がそれぞれ独立して間隔が開いています。各々ろうそく、線香をたてる場所が設けられていてまた水場とコップが用意されています。大小はあれ基本的にどこでもそうなっています。コップに水をくんで仏さまや守護神、動物にかけます。繰り返し何度もかけます。願い事がお母さんの病気の回復だったりするので真剣です。
 この八曜日の所だけでなく、それぞれの好みの場所、好きなお釈迦様像の前で、ミャンマーの人はじっと座っていたり、お経を唱えたり、何度も祈りおじぎをし、中には開いたスペースに座って瞑想に入っていたりと、思い思いのインナートリップで長い時間をパゴタの中で過ごします。またグループでボランティアの清掃を行うので、パゴタの中はゴミ箱も無いのにチリ一つありません。こんな風に自分の内面を深く見つめる人達は直ぐにカッとなったりはしないわな。自殺も無いな。出家すりゃあいい。
 自分とカミさんはその日の夜に帰国するという最終日、この日は元旦でしたがここシュエダゴオン・パゴタで午前中、半日をのんびりと過ごしました。お正月(この国は旧正月ですが)のせいか晴れ着を着た人が多く、観光客も地元の人もまたお坊さんも家族連れもと、たいへん賑わっています。ただ大声を出す人はいないし、皆さん比較的ゆっくり歩くから不愉快な混雑ではない。それどころかホント楽しくなってきた。開きスペースに寝っころがって人間観察。カミさんはフクさんに教わった瞑想を試すとかでちょっと離れていった。ちょうど視線の先に小さなドーム型のお堂があり、お釈迦様が祭ってある。その中に薄ピンクの衣をまとった尼さんが二人、向かい合って何やら熱心におしゃべりをしている。お釈迦様と尼さんが二人、三人でお堂は一杯。二人は何を話しているんだろう。結構長いこと見ていたが、ずっと話しをしているな、と思ったら自分が眠っていた。カミさんに起こされたら二十分ほどたっていて、見ると二人の尼さんはお祈りをしていました。

ヤンゴン川向こう





 下町の浅草寺、スーレー・パヤーのちょっと先にヤンゴン川が流れています。この川をフェリーで渡ったらヤンゴン郊外。もちろん人の住む村はずっと先まで続いています。その川向こうに行ってみました。
 フェリー代はいくらなんだろう。安いんだろうな、あとお坊さんは只だな、きっと。サイフを持っているはずがないものね。しらばっくれて切符売り場に並んでいたら、呼び止められて売場の横の事務所に連れていかれ、往復五米ドル、カミさんと二人で十ドル取られた。しかもこの一ドル札は汚れている、折り目がついているから交換、とうるさい。主要なパゴタでも外国人料金がかかります。フェリーといっても自転車と人ばかりで超満員というほどではありません。この船は日本製(無償?)だそうです。短い間でも船に乗るのは気持ちが良いね。
 川向こうの桟橋近くのロータリーでサイカー(自動車タクシー、前向きと後向きに二人座れる)をやとって郊外の田舎を散策しました。桟橋の近くは、ここからヤンゴン市内に通勤している人が多いのでしょう。小ぎれいな住宅が建っていましたが、奥へ進むにつれ掘っ立て小屋のような集落が現れてきました。小さな家に沢山の人が暮らしています。散策を初めて最初は誰もいない小ぎれいなパゴタ、次は民家のようなイスラム教のモスクが現れました。サイカーの兄ちゃんが色々と解説してくれます。
 ヤンゴン川から離れるにつれインド系の住人が増えてきました。女性は巻きスカートではなく粗末な布だがサリーを着る人が増えてきた。この人達はベンガル系なんだろうね。カルカッタのベンガル人はヒンドュー教徒だったけれど、隣りの国がバングラデシュ(ベンガル人の国)な訳だから多数派はムスリム(イスラム教徒)な訳だ。中には仏教徒のベンガル人もいて、その人たちは全員バルア姓を名乗るそうです。
 ベンガル語を母語とする人口は世界の3.2%、1億8,900万人いて、一つの民族集団としては中国の漢民族に次いで大きな集団なんだ。この人達はロヒンギャと呼んで良いのだろうか。でも難民ではないしな。ミャンマーのインド人は色々な時代、様々な形で入って来ているが、英植民地時代に労働者としてイギリスが連れてきた人達が人数としては一番多い。その人達に職を奪われたり、中間層として官吏になったインド人に良い印象を持たないビルマ人がいても不思議ではない。何しろ当時の英国はビルマはインドのおまけ、補給基地としてしか見ていなかったからね。岩波新書の会田雄次氏の名著「アーロン収容所」の中で、戦争捕虜の日本兵には無上のやさしさを見せてくれるビルマの人達が、戦勝国のインド兵には驚くほど冷たい視線を送る場面があるが、難しい歴史と感情があるようだ。
 ともあれサイカーの散策は風に吹かれて楽しい。市場に寄ったりの子供たちにお菓子(1袋百円で二十個位の小袋が入っている。)を配ったりしている内に、アッという間に二時間たっていた。
 最後にサイカーの運ちゃんと料金(結局五百円位)でやり合ったが、まあご愛嬌。この小さな諍いはミャンマー旅行中で唯一のものでした。あっサイカーに時間単位で乗るんだったら、乗り始めた時間を運ちゃんに確認させてからにした方が良いね。

仕舞いに一言、三言




 旅行中、外国人で一番目立ったのはフランス人でした。カンボジア・ラオス・ベトナムでもフランス人観光客は相当に多く、ラオスでは外国人を全てファラン(フランス人)と呼んでいました。この三カ国は旧仏領インドシナだったから分かるけれど、ミャンマーもそうでしたか。よほどアジアが好きな人達なんだな。パガンやポッパ山では一家でレンタサイクルに乗って移動したり、彼らは積極的です。だけど仏像ばかり見て楽しいんでしょうかね。フランス人は概してとてもマナーが良いのですが、現地の人や日本人に積極的に話しかけることはしません。プチ陰気な感じ。英語がへたなんかな。
 あと当然ながら隣国のタイの人達は大勢ミャンマーに来ていますが、ちょっと見では現地の富裕層と間違えてしまうね。マナーの悪さが目立つのは、残念なことに日本人観光客です。早朝ホテルの前を托鉢の僧侶の一団が通った時、一番最後の小学生1,2年といったお坊さんの腕をムンズと掴み、立ち止まらせて自分達と写真を撮っていた団体客がいたが、ぶん殴ってやろうか。かわいそうに、あんな手荒な扱いを受けたことのない少年僧はおびえていました。
 ヤンゴンのアウンサンマーケットでは、中学生位の少女尼さんが喜捨を頼むと、フンと言って手で追い払った日本人中年男がいたが、これもぶん殴ってやろうか。この時はカミさんの買い物中、お店の前で座って待っていたら偶然このいやな光景を見てしまった。その直ぐ後、彼女と目が合ったので近くに来てもらい、最後に取っておいた700チャット(70円)を差し上げお辞儀をした。少女尼はハッとした顔をしてはにかみながら手を合わせてくれました。最後のチャット、これでトイレ(有料20円)にも行けなくなったが、サッパリした。
 またガイドのフクさんの話しですが、日本人の中年男性二人をパガンに連れて行った時、裸足になるなら中に入らなくてよい、と言ってパゴタに一つも入らず、外からドライブだけしろ、と言った人がいたそうです。それなら来るなよ。フクさん、お詣りしたかったろうな。
 フクさん、彼女の話しは面白かった。ガイドの体験、ミャンマー人の物の考え方、植物の名前、腐敗した高官への怒り、またチラッと聞いた彼女の生い立ちそのものが大変興味深いのですが、ここで記す訳にはいきません。フクさん、何やかや一杯お土産を買ってもらっちゃって有り難うございました。次回ビルマに行く時もよろしくお願いします。あと鎌倉の大仏のレプリカ、千円位の金ピカのものをカミさんが手みやげとして持参したのですが、大変喜んでもらえました。魂入れまでするとの事、かえって恐縮です。
 今回の短い旅の中でも様々な出会いがありました。ポッパ山の近くで出会った、丸まると太った福々しいお坊さんはわずかな喜捨に対して、何故か自身の大きなブロマイドを十枚位くれました。
 フクさんの友人のホテルオーナーの青年、ヤンゴン生まれですがインレー湖の近くに、主にヨーロッパ人向けの小さいがとても品のよいプチホテルを最近建てました。彼は湖にやさしく油漏れの少なくて音の静かな、ボート用のモーターを輸入する計画を立てていた。夜このホテルをずいぶん探し回ったけれど、気持ちの良い出会いでした。
 パガンのホテルでの夜、音楽が遠くから聞こえる。結構うるさくて次の日の夜も聞こえました。お祭りかな、と思って宿の女主人に聞くと、子供の得度式よ(ここの英語は分からなかったんだが)そこの道を真っ直ぐ行って、三つ目の曲がり角を左、歩いて十分くらいね。行ってごらんなさい。と言うので、真っ暗な道を音を頼りに訪ねました。夜空は北斗七星が輝き、天の川がうっすらと見えるほど澄んでいました。思ったより遠かったんですが、そのでは、お神楽のような舞台が作られていました。王子様のような白い服を来たチビちゃんが数人、正面に並んで座っていて、楽団の席があり、ゴザが敷きつめられすでに何人もの村人が座っています。子供達の横にはたぶん亡くなった祖父母と思われる大きな写真が置いてあり、今から一時間で式が始まるよ、といった雰囲気でした。明るい舞台とご馳走の予感。突然入ってきた外国人に村の人達はイスを出して座るように手真似で言い、お茶菓子を振る舞います。このままいたら間違いなく食事だと思い失礼しましたが、さりげないやさしい心配りに感謝です。
 あとはキリが無いのでここいらへんでペンを置くことにします。次回はラカイン(アラカン)州のミャウーの仏教遺跡を訪れたいと思います。ミャウーは空港のある町から船で八時間かかり、限られた数の観光客しか行きません。相当な規模の中世遺跡で、写真で見る限りパガンやヤンゴンとは違った趣の仏像が建物の高い所にある窓から差し込む陽光の中、静かに座しています。遺跡の周りは密林です。また真偽は不明ですが、中世のアラカン王国にはクリスチャンの日本人傭兵隊がいたと言います。
 最後に自分がミャンマーについて読んだ本の中で一番面白かったのは、高野秀行さん著、集英社文庫「ミャンマーの柳生一族」でした。旅行を考えるきっかけになった本で、その後に読んだ沢山のミャンマー関連の本の中でも、これほど面白い本はありませんでした。
 あとラペットュはうまい。くせになります。ラペトュは発酵したお茶の葉にピーナッツ、唐辛子、乾燥エビ等を混ぜて作るお茶うけのつまみです。この食べるお茶は、適度な苦味、渋味、辛味、スモーキーな香りがあって美味しい。サラダに混ぜても合います。
 これでラスト、最近ミャンマーで「あまちゃん」のTV放送が始まりました。「あまちゃん」はアジア各国で放映されていて人気を呼んでいます。ミャンマーでは夜の19時から週一回で放送は始まったばかりです。一回に何話放送するのかは聞き忘れた。大好きな国で大好きだった番組が放送されるのはうれしい。ではバイバイ(ビルマ語でもバイバイ)次もビルマだ!










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