旅とエッセイ 胡蝶の夢

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高山右近とキリシタン大名

2017年04月16日 17時01分48秒 | エッセイ
高山右近とキリシタン大名

 高山右近没後400年にあたる2015年(平成27年)、日本のカトリック中央協議会はローマ教皇庁に、右近を福者に認定するよう申請した。その理由は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」というものだ。この申請は翌2016年に教皇フランシスコによって認定され、2017年(平成29年)2月7日に大阪城ホールで、教皇代理の来日によって列福式が採り行われた。
 これによって一大高山右近ブームが始まった、とは思えない。大阪では盛り上がったのだろうか。元々大坂の武将だからな。高山右近とはどんな人物なのか。戦国の世には珍しい生真面目な人だったが、どうもあんまり好きにはなれない。痛快なエピソードに欠けるのだ。斬り合いの中で誤って味方に斬られ、首が半分もげるほどの大怪我から奇跡的に回復した。このエピソードはきもい。
 彼よりも、彼が勧めてキリシタンになった蒲生氏郷の方がずっと魅力的だ。さてキリシタン大名にはどんな人物がいるのかな。中々の個性派がいる。キリシタン大名は、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信・洗礼を受けた大名のこと。秀吉のバテレン追放令と江戸政府の禁教と鎖国を受け、キリスト教は地下に潜るしかなかった。高山右近と内藤如安は最後のキリシタン大名だと言える。
 大名以外では、関ヶ原前夜に家臣に胸を突かせて死んだ細川ガラシャ(忠興の妻、明智光秀の娘)や明石全燈(宇喜多家家老、4万石)、ペトロ岐部やマンショ小西らの日本人司祭が有名。大坂の陣では、明石全燈を始めキリシタン兵が万余も集合した。キリシタン大名は9人いる。

○大友義鎮(1530-1587)--- 宗鱗といった方が名が通っているね。彼のキリスト教との出会いは、フランシスコ・ザビエルとの引見で始まった。宗鱗は極めて多才な人物で、書画・茶道・能・蹴鞠などの諸芸に通じ中央から文化人を招いた。彼のキリスト教への関心は、博多商人を通して南蛮貿易により良質な硝石や大砲・国崩し(フランキ砲)を入手すること。のみならず西欧の知識の習得に努め、西欧医術の診療所も建てている。
   しかしキリスト教のために徹底した神社仏閣の破壊解体を行ったことはいただけない。この為多くの家臣団の離反を招き、大友氏没落の一困となった。大友宗麟は一時、九州大半を手中にして毛利氏と対峙する。そのまま行けば九州は一大キリスト王国となっただろう。しかし今山の戦いで龍造寺
  に敗れて弟を失い、耳川の戦いで島津に大敗して多くの家臣を失った。その後は豊臣秀吉に臣従して何とか滅亡を免れた。信仰は最後まで貫き、キリスト教式で埋葬された。

○黒田孝高(1546-1604)--- ご存知、黒田官兵衛のちの如水のこと。秀吉の軍師。この人の生涯は余りに有名だから省く。黒田官兵衛を書き始めたら小説になってしまう。官兵衛がキリシタンになるきっかけは、高山右近の勧めだ。これほどニヒルで複雑で頭の良い男を説得したのだから、右近も大したものだ。官兵衛は領内でキリシタンの被護に努め、葬儀はキリスト教式で行われた。

○有馬晴信(1567-1612)--- 九州肥前の大名。当初はキリシタンを嫌悪していたが、洗礼を受けてからは熱心なキリシタンとなった。大友宗麟や叔父    の大村純忠と共に、天正遣欧少年使節をローマに派遣した。文禄の役では2千人の兵を率いて出陣し、6年間朝鮮で戦った。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、加藤清正と共に小西行長の宇土城を攻撃した。
   南蛮貿易に熱心で慶長14年(1609年)、幕府の命を受けて高山国(台湾)に部下を派遣し、貿易の可能性を探っている。マカオで晴信の朱印船が市民と争い、乗組員が多数殺される事件があり、その敵討ちのために長崎に入港したポルトガル船を襲撃した(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)。晴信は領土を巡る諍いの中で、長崎奉行を殺害する計画をたてたとして、甲斐国に流され自害させられた。日本側の記録では切腹となっているが、家臣に首を切り落とさせたらしい。キリスト教では自殺は禁じられている。晴信存命中は領内に多数のキリシタンが難を逃れ、晴信は彼らを積極的に匿った。有馬領内ではあまり監視されなかったのだ。嫡男が家康の養女を妻としていたのと、南蛮貿易で幕府に貢献していたためである。
   しかし晴信刑死後、有馬氏は所領代えとなり旧有馬領内でキリシタンへの弾圧が始まった。これが島原の乱の遠因となって行く。

○ 筒井定次(1562-1615)--- 伊賀上野藩主。筒井順慶の養嗣子となり、織田信長の息女を娶った。信長の死後は秀吉の家臣となり、小牧長久手の戦いに参戦、その後紀州征伐、四国攻めと秀吉に使われている。定次は天正13年(1585年)の大規模な国替えで、大和国から伊賀国上野に移封された。
  京大坂に近い大和から伊賀では、いささか都落ちの感が否めない。
   定次は軍学に明るく、茶道を嗜み古田織部とも交流があった。筆も画も能楽の技巧も本職に引けを取らなかった。伊賀の侘しい寒村であった上野は、定次の整備によって大いに発展し、今でも地元では定次は慕われているそうだ。ここまでは中々の才人、好男子。信長が娘婿に見込んだだけのことはある。ところが伊賀の豪族を強硬に取り潰したり、島左近を始めとする有力な家臣の多くに離反され家勢は衰退し始めた。島左近は、その後石田三成の元で男を挙げる。三成に過ぎたるものが二つある。島の左近と佐和山の城。左近は家康の暗殺を2度に三成に進言するが、潔癖な正義感の三成は卑怯だとして採用しない。それでも左近は腐ることなく三成に仕え、関ヶ原で獅子奮迅の働きをし姿を消した。
   話が逸れちゃった。定次は、文禄・慶長の役では3千の兵を率いて参陣したが渡海はしていない。肥前名護屋で帯陣する内に酒色に耽るようになった。関ヶ原では東軍に与して活躍したが、慶長13年(1608年)幕命により突如として改易され、大名としての筒井氏は滅んだ。その理由が明確でない。一つには大坂方との内通が疑われている。
   改易後定次は鳥居忠政のもとに預けられ、やがて嫡男と共に自害が命ぜられた。何か異様に重い処罰だが、キリシタンであったことと関連があるのだろうか。定次の生涯を見ると、今一つの達成感がない。やりとげなさが目につく。歴史に名を残すほどではない大多数の大名・武将の人生などこんなものなのか。まあ定次に言わせれば、「歴史の断片をかき集めて、俺の何が解る」だろう。

○小西行長(1558-1600)--- この人は元々商人である。商家の次男坊として生まれ、商売で出入りする内に宇喜多家、次いで秀吉の目に留まり武士として家臣となった。キリシタンになったのは、高山右近の勧めだ。26歳の時だった。それにしても右近は実に巧みな勧誘者だ。正規の記録には無いが、前田利家も右近の勧めでキリシタンになったとか。少なくともシンパにはなっている。後にバテレン追放令が出た際に、改易となった右近を行長は匿っている。
   豊臣政権下では舟奉行として国内の戦さを采配し、秀吉による九州平定の後、行長は肥後半国20万石を与えられ天草1万石も所領とした。このころ天草は人口の2/3にあたる2万3千人がキリシタンで、神父60人、教会30が存在した。カトリックの学校もあり、行長はイエズス会の活動に援助を与え保護した。文禄・慶長の役では女婿・宗義智(対馬藩主)と共に交渉・戦闘で重要な役割を果たした。というか、二人で国書の偽造までして惚けた秀吉を丸めこんで戦争を止めようとしたが、失敗した。対馬藩にとって日朝貿易が途絶えるのは、死活問題だったのだ。
   文禄の役の行長は強かった。加藤清正を2番手に従えて次々に朝鮮軍を破り、漢城(ソウル)を占領して平壌を攻略、奪還しに来た明軍を撃退した。次に朝鮮軍が奪還に押し寄せたが、それも退けた。しかも何度も交渉による解決を呼びかけたのだが、朝鮮側も明もこれに応じなかった。
明との講和の話が出ると、秀吉には明が降伏する、明には秀吉が降伏すると二枚舌を使い丸めこもうとしたが、これが発覚して秀吉は激怒した。行長は死を命じられるが、前田利家や淀殿のとりなしによって一命を救われた。慶長の役では厳しい立場ながら、海戦で朝鮮水軍を殲滅する等、またもや奮戦した。武断派の職業軍人のような武将達から、「薬屋の子倅」と侮られたが行長は強かった。
しかし秀吉が死去し、朝鮮から帰国後の行長は生彩を欠く。行長には先を見越す戦略眼があったようで、積極的に家康との距離を縮めるよう努めた。それでも家康の会津征伐に際しては、上方への残留を命じられた。武断派の武将と仲が悪かったのが仇となった。関ヶ原では西軍として戦うが、大谷・宇喜多・石田隊が奮戦したのに対し、行長の戦振りは鈍い。一進一退に終始している。当日は東軍の田中吉政、そしてキリシタン大名の筒井定次らの部隊と交戦した。
敗戦の混乱の中、行長は伊吹山中に逃れたが後に捕えられ、六条河原において石田三成・安国寺恵瓊と共に斬首された。行長は浄土宗の僧侶を退け、ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げ、首を打たれた。時の教皇クレメンス8世は行長の死を惜しみ、7年後の1607年、イタリアのジェノバで行長を主人公とするオペラが上演された。今でもこのオペラが残っていればね。
行長の子孫は案外残っている。家康は行長に悪感情は持っていなかったろう。関東で漢方薬局を営んでいる一家があるという。先祖の職業をやっているとは面白い。行長は領地が隣接することもあり、熱心な日蓮宗信者の加藤清正と特に仲が悪かった。朝鮮軍の李舜臣に、清正軍の上陸時期を密告し清正を討ち取るように働きかけた。李は罠ではないかと疑い、攻撃を躊躇った。こんな事をしたら、恨まれても仕方がない。
島原の乱の天草四郎は小西行長の家臣の子とされているが、一説では行長自身の次男の息子だともいう。小西一族は大半がキリシタンで、行長が朝鮮で拾い、娘として連れて帰った“ジュリアおたあ”の物語は悲しくも美しい・

 ○内藤如安(1550?-1626)--- 三好氏の重臣、松永久秀(弾正)の弟・松永長頼の子。如安(じょあん)はキリスト教への受洗名の音訳。忠俊、小西飛騨守とも称す。熱心なキリシタンで、また茶人として名高い。
   父・長頼が人心掌握のために丹波守護代・内藤国貞の娘を正室に迎え内藤家の後見となった。畿内で血みどろな戦いを繰り広げる中、長頼は討死し内藤家は織田軍によって取り潰された。如安は牢人となり小西行長に仕えるようになった。行長は如安を重臣とし、小西姓を名乗ることを許した。元々小西家は内藤家の家系に連なり、如安とは同族一門であったようだ。
   文禄・慶長の役の際、明との和議交渉では使者となって北京に赴いた。明の記録にその名を留める。関ヶ原で行長が刑死した後、有馬晴信の手引きで平戸に逃れ、その後加藤清正や前田利長の客将となった。前田家滞在中は、同じく前田に匿われていた高山右近と共に、布教活動や教会の建設に熱心に取り組んだ。
   しかし慶長18年(1613年)、家康がキリシタン追放令を出し、如安は高山右近や妹のジュリアと共に呂宋のマニラへ追放された。マニラでは、総督以下住民の手厚い歓迎を受けた。右近は熱病を発してマニラ到着後直ぐに病死するが、如安はマニラで日本人キリシタン町サンミゲルを築いた。寛永3年(1626年)病死。サンミゲル近くの教会に終焉の地の記念の十字架が建っている。如安の居城・八木城があった八木町とマニラは、如安が縁となって姉妹都市になった。

○大村純忠(1533-1587)--- キリシタン大名となったのは彼が一番早い。永禄6年(1563年)だ。再三出てくる有馬晴信は大村純忠の甥にあたる。最初は、ポルトガル船のもたらす利益と西洋の武器が目当てであったのだろう。純忠は横瀬港、次いで長崎をポルトガルに提供し、長崎は良港として大いに発展して行く。最盛期には大村領内に、日本全国のキリシタン信者の半数6万人が住んだという。長崎港が龍造寺軍によって攻撃されると、ポルトガル人の支援によって撃退している。
   純忠のキリスト教信仰はしだいに過激化した。側室を廃し正妻だけとの関係を持つのは良いが、領内の寺社を破壊し先祖の墓まで打ち壊すとは。僧侶や神官を殺害、又は追放し改宗しない領民を殺したり、ポルトガルに奴隷として売ったりし始めた。そのため家臣や領民の反発を招いた。この日本人奴隷の海外輸出は、大村領に限らず史書に散見する。多くは女性でポルトガルやマカオに連れて行かれて、ポルトガル人や船員の妾や現地妻にされた。天正遣欧少年使節では、甥の千々石ミゲル(ちぢわ、有馬晴信の従兄弟)を正使としてローマに送った。しかし千々石は帰国後、4人の中で唯一棄教した。
   千々石はイエズス会から除名され、千々石清左衛門と名を改め大村藩士となる(600石)。大村純忠の息子で藩主の喜前の前で「日本におけるキリスト教布教は、異国の侵入を目的としたものである」と述べ、喜前に棄教を勧めた。千々石は欧州でキリスト教徒による奴隷制度を見て不快感を表明するなど、早くからキリスト教に疑問を感じていたようだ。頭の良い青年だったのだな。彼は畳の上で死んだことは確かなようだが、藩政からは遠ざけられて不遇の晩年を送ったようだ。理由は不明だが藩主にうとまれ、キリシタンからは命を狙われた。同僚からは裏切り者と蔑まされた。千々石は心が弱くて棄教したのではない。キリスト教に胡散臭さを感じたのだが、それを理解する者はいなかった。
   さて大村家は龍造寺に従属したが、秀吉の九州平定によって本領を安堵された。純忠は病に陥り、秀吉のバテレン追放令の出る前に病死した。

○蒲生氏郷(1556-1593)--- この男は格好良い。37歳で死んでしまうのが惜しい。もし戦国の世で、主君を選ぶとしたら貴方は誰にする?自分は断然蒲生氏郷だ。蒲生氏は、藤原秀郷の系統に連なる鎌倉時代からの名門だ。六角氏の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれた。六角氏が滅亡すると、賢秀は氏郷(幼名・鶴千代)を人質に差し出して信長に臣従した。信長は鶴千代に会って言う。「蒲生が子息目付常ならず。只者にては有るべからず。我婿にせん」
   氏郷は禅僧に師事し、儒教や仏教と学び武芸を磨いた。元服の際は、信長が烏帽子親となった。14歳で初陣を飾り、信長の次女を娶る。その後は織田軍の主要な戦いにことごとく参戦した。信長が本能寺の変で自刃すると、信長の一族を保護して明智光秀に対抗する。しかし氏郷の日野城は次の攻撃目標にされていたから、秀吉の中国大返しとそれに続く山崎の合戦が無ければ、兵力差からいって氏郷は討ち取られていただろう。

To be continued,
  

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