旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

拉孟、騰越の戦い

2016年07月22日 18時27分10秒 | エッセイ
拉孟、騰越の戦い

 民の琴線に触れる戦いがある。特に10倍を超す敵に囲まれ最後の一兵まで戦った場合には、その記憶は千年の時を超す。ユダヤ人は2千年前(紀元70~73年)のマサダの戦いを、団結の象徴として昨年のことのように話す。
 紀元66年のユダヤ戦争。ローマ帝国からの独立を目指して立ち上がったユダヤ人は、エルサレムで敗れ追い詰められて967人の女子供を含む集団が、急峻なマサダの砦に立て籠もった。1万5千人のローマ軍兵士が砦のある丘を包囲したが、周囲は断崖絶壁で唯一の登攀路を塞がれて手が出せない。そこでローマ軍は2年の歳月をかけて大規模な土木工事を行い、角となる木材と大量の土砂を運んで絶壁の一方向を埋め立てた。古代の土木技術は侮りがたい。ついに絶壁にゆるやかなスロープを作り出した。満を持したローマ軍が砦に突入するが、予想された抵抗はなかった。中にいたユダヤ人は集団自殺を遂げていたのだ。生き残ったのは、穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけだった。
 アメリカ人にとって心を熱くする戦いはアラモ砦の防衛戦だろう。こちらは1836年2/23~3/6の13日間包囲されたが、総攻撃により一日で砦は陥落し、守備隊は全滅した。砦に籠ったのはテキサス分離独立派、当時のテキサスはメキシコ領だった。トラヴィス隊長のもと、西部で名高いジム・ボウイとデイヴィー・クロケットが参戦し183~250人の男達が戦った。
 攻めるのはサンタ・アナ率いるメキシコ共和国軍4,5千人だが、総攻撃の時には1,600人で攻め3~400人のメキシコ兵が戦死した。アラモ砦の犠牲により貴重な時を稼ぎ結束したテキサス独立軍は、「リメンバー・アラモ」を合言葉にメキシコ軍を打ち破りサンタ・アナを捕虜にする。

 日本軍は太平洋の島々や沖縄で米軍と死闘を繰り広げるが、自分の琴線に触れる戦いはビルマと中国雲南省の国境付近で行われた。拉孟(ラモー)・騰越(トウエツ)の戦いには心を揺さぶられる。平静ではいられず、心が高ぶるのだ。拉孟は怒川の西岸、恵通橋を見下ろす海抜2,000mの山上にある廃村を基にした陣地で、周囲を山と渓谷に囲まれ西方のみが龍陵に通じている。四季の変化に富み特に秋は美しい所だそうだ。一方騰越は、最前線の拉孟から北東に60km、平野の中央にある人口4万の城郭都市で、東は山脈を縦走して保山、昆明へと続く。
 日本軍は何故このような山奥に攻め入り、陣地を築いたのか。それは連合軍の援蒋ルートを断つのが目的である。太平洋戦争が始まる前の5年間、日本と中国は激しく戦っていた。個々の会戦では常に日本軍が勝利を収めていたが、倒しても倒しても新手の中国軍が現れる。前線が進むにつれ、占領地である後方の物資集積所、小規模駐屯地、鉄道や輸送隊等が襲撃される。後方の防衛を固めようとすると、守備に限りなく人員が必要になる。前線は先に進み占領地は増え、守備部隊を増やしてもその中で手薄な所や輸送隊が襲われる。日本は徴兵を進めついに100万の兵力を中国に送り込んだ。
 南方へ行き、太平洋戦争で米英蘭軍と戦った日本軍は、中国に張り付いた兵力の1/4~1/5に過ぎない。日本陸軍は8年間、もしくはそれ以上の期間中国に居続けた。その日本軍と対峙していたのが200万を超す中国軍である。蒋介石を負かせてはならない。100万の戦慣れした日本兵を他の戦場へ向かわせたら恐ろしいことになる。連合軍、特に米国は太平洋戦争以前、ビルマのラングーンに大量の軍需物資を陸揚げしてビルマから中国、雲南省を経由して重慶にいる蒋介石のもとに送った。この援蒋ルートを断ち切るのが日本軍の狙いだった。アメリカは陸路が封鎖された後は、ヒマラヤ超えの危険な空輸で蒋を支えた。今でもヒマラヤ山脈から中国の奥地には、大戦中の大型輸送機の残骸が散らばっているはずだ。
 蒋介石の元にはアメリカから派遣されたジョセフ・スティルウェル大将がいて、米軍の援助物資を装備した中国軍を訓練していた。近代装備を持ち訓練された新編師団(雲南遠征軍)が満を持してビルマに進入してきた。中国人指揮官、衛立煌の率いる20万人で、装備は日本軍よりも遥かに近代的だ。英印軍だけでも手一杯の所に新規の20万とは。最前線基地の拉孟はたちまち包囲された。
 拉孟守備隊は当初2,800名の兵力だったが、指揮官の松山大佐は命を受け、兵を割いて出撃し侵入してきた雲南軍の一部を撃退した。その後松山隊はミイトキーナ南方に降下した英軍空挺部隊の掃討等に転戦し、6月5日騰越に入った。拉孟に残された守備隊は1,280名で、その内300名は負傷兵であった。拉孟を包囲した中国軍は4万8千名で、残りの雲南軍は騰越、龍陵、平戛に向かった。
 1944年6月2日午後、雲南遠征軍の砲撃が始まった。この日から9月7日に陣地が陥落するまでの66日間、拉孟守備隊は攻撃を再三防ぎ、敵二個師団を壊滅させ戦死4千、負傷3,774人の損害を与えた。雲南軍司令官衛立煌大将は、日本軍の強さに舌を巻きこう語った。『火砲の力を入れると、こちらは日本軍の十倍以上の戦力である。それが千五百そこそこの日本軍に軽くあしらわれてしまったのである。何という強い日本兵なのだ。』
 敵将があきれるほどの勇戦を指揮した金光少佐(死後大佐)は小学校しか出ていない。貧農の子で村では神童と言われていたが、一兵卒からたたき上げ伍長、軍曹を経て幹部候補となり将校にまでなった。元が貴族社会の英国ではほぼあり得ない昇進だ。さんざん悪く言われる帝国陸軍だが、このような将校を生みだすところは素敵だ。金光少佐は常に温厚で部下思い、自ら率先して事を成すタイプで、部下からはこの人の下でなら死ねる、と慕われていた。拉孟守備隊は、限られた資材を使って陣地を複合的に設営し、死角を無くしてどこからでも十字砲火を浴びせて敵に出血を強いる構造を効果的に作り上げた。度重なる砲撃による破損は、夜間に不断に補修を行った。
 6/7、雲南軍の攻撃を迎撃し、敵の将軍を戦死させた。6/14、別師団による北方からの攻撃。6/20、敵主力2個連隊が再攻撃、これを粉砕するも砲撃戦で守備隊の弾薬庫が被弾破裂した。これは大きな痛手となった。砲弾が残っていたら、雲南軍の犠牲はもっと大きかったに違いない。6月末、2年前に日本軍の急追を逃れるために自ら爆破した恵通橋を復旧。これにより雲南軍の補給物資がトラック輸送により、陸続と戦場に運び込まれた。
 6/28、日本陸軍機10機飛来、上空より空中補給。その後も度々飛来。7/4~15、雲南遠征軍第2次総攻撃。ロケット砲と火炎放射器が加わり、守備隊は大きく兵を失った。残存兵力は500を切り、生き残った兵も多くは傷ついていた。守備隊の砲弾は欠乏して撃ち返すことが出来なくなった。天候は雨季に入って壕内は膝までぬかるみと化し、守備兵は脚気とマラリアに苦しめられた。
 守備隊は夜になると数名づつ陣地の前面に出て、雲南軍の死体の山から武器・弾薬・食糧を拾い集めた。ビルマ方面軍は、連合軍によって新たに築かれつつある補給ルートを遮断し、同時に拉孟・騰越守備隊を救援するという「断作戦」を発令した。救援部隊を9月上旬に拉孟に送ると約束し、拉孟守備隊は希望を持ったが、実は最前線の拉孟は最初から見捨てられていた。戦略的にも無意味なインパール作戦によって、虎の子の精強な3個師団と1旅団を失い、日本軍と英印軍の戦力対比が最大1:10となり、制空権も失っていた。本土から派遣されてきた京都の師団は弱兵で役にたたない。かろうじてミートキーナ(現ミッチーナ)から一部の部隊が撤退出来たのが精一杯であった。ミートキーナから退却出来たのは10人に1人に過ぎないが、拉孟と騰越で敵を引きつけて時を稼いでくれたから全滅せずにすんだ。当初ミートキーナにも死守命令が出ていたが、わずかな兵を率いて救援に赴いた水上少将が自決をして名目的に死守命令を守り、部下を撤退させた。
 7/20、第3次総攻撃。この攻撃は昆明から呼び寄せた新しい部隊によって行われ、拉孟陣地には一日当り7~8,000発の砲爆撃がなされた。攻撃部隊が陣前に肉薄して投げ込む手榴弾を、守兵が拾って投げ返す。陣内に突入してきた敵兵は、得意の白兵戦で刺し殺し殴り殺す。7/25頃には兵力は300名に減少した。砲弾は最後の一発を残して既に無く、歩兵弾薬は欠乏し食糧庫を焼かれ、8月以降は乾パン一袋を2日に食い延ばすようになった。
 7/27、ビルマ方面軍司令官より、拉孟守備隊の勇戦に対し感状が届く。翌日第33軍司令官からも感状。8/2、複数ある陣地のうち、本部陣地が陥落。8/12、挺身破壊班を編成、4名1組の破壊班を7組送り出して雲南軍を奇襲。破壊班は民間人に変装して遠征軍の包囲をすり抜け、火砲5門その他を破壊し、戦利品を持って帰還。損害は戦死2名であった。この攻撃で守備隊の士気はあがった。
 さて拉孟陣地に空輸に来た陸軍機だが、速力の早い一式戦・隼なので狭い陣地にピンポイントで投下するのは困難で、半分は敵の手に渡ってしまった。また地上からの砲火に加え、敵戦闘機が待ち伏せるようになって撃墜される機が出始めた。しかしちぎれんばかりに手を振る守備兵を見たパイロットは、再出撃、再々出撃を進言した。これに対し金光少佐が無線で司令部に告げた。『今日も空投を感謝す。手榴弾100発、小銃弾2,000発受領。将兵は1発1発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり。』『我が飛行隊が勇敢なる低空飛行を実施し、これが為敵火を被るは、守備将兵の真に心痛に堪えざるところなり。余り無理なきようお願いす。』それを聞いた隼隊は出撃を志願したが、7月中旬になると陣地はさらに小さくなり、手を振る守備兵は負傷して包帯を巻いた負傷兵ばかりで、投下しても陣地内の日本兵にはほとんど渡らなかった。実際最後の数百名は、片手片足、失明した兵が幽鬼のように敵に立ち向かっていた。
 雲南軍は、これまでの中国戦線の中国軍とは思えないほど勇敢に戦った。殺すのを一瞬ためらう程の少年兵が多かったという。しかし初陣の彼らは真っ正直に正面から戦い過ぎた。老練な日本軍の仕掛けたトラップに嵌り、犠牲を重ねた。日本軍にとっては、効果的に限られた武器で最大の効果をあげたと言える。中国軍は何度か降伏勧告を行ったが、鼻で笑われてしまった。
 8月中下旬の雲南軍の攻撃は中央付近の関山陣地に集中し、地上攻撃と併せて陣地直下まで掘り進んだ坑道による地中3ヶ所からの爆破により、8/19ついに陣地を奪われた。しかし8/20夜間、なけなしの兵を集めて夜襲を敢行して奪還。翌日再び奪取されるも8/22未明、逆襲して再奪取。しかし兵力が尽き、確保を続けることは出来なかった。
 9/5、決別電報を打ち、無線機を破壊し重要書類を焼却。9/6、金光少佐戦死。迫撃砲弾により腹部と大腿部を粉砕されていた。金光隊長は真鍋副官に後事を託しつぶやいた。『皆、よくやってくれた---』享年48歳。翌9/7未明、真鍋大尉、砲兵掩蓋内にて軍旗奉焼。早朝より激しい集中砲火を受け松山陣地陥落。午後真鍋大尉敵中に切り込み戦死(死後、少佐に進級)。18時全ての陣地が陥落し戦闘終結。突然戦場に静寂が広がった。
 真鍋大尉の命を受け、中尉ら数名が脱出し地元民に変装して戦線を突破し、日本軍の司令部に辿りついた。将校の生還者がいたことで、拉孟守備隊の最期の様子は比較的よく分かっている。騰越では一人の生存者もいない為、戦闘の詳細が今一つ不明である。
 拉孟守備隊の陥落した陣地跡に自決した15名の日本人慰安婦が横たわっていた。5名の朝鮮人慰安婦は雲南軍に投降した。降り注ぐ砲弾の雨の中で、守備隊が一番安全な場所に女達を匿っていたことが伺える。また最期の時に日本人慰安婦のお姉さんが、朝鮮人の女の子に降伏を勧めたのだろう。雲南軍は女がこの激戦の戦場にいたことに驚き、従軍看護婦として丁重に埋葬した。
 拉孟には軍属によって酒保(売店)と慰安所が出来ていた。女達は攻撃が近づいた時に引き上げることも出来たのだが、何故か残留を望んだ。長い間暮らしを共にした兵隊と女達の間には、家族愛のような絆が生まれていた。戦闘の最中に、一人の兵隊がなじみの女との結婚を申し出て許可された、という話しがある。しかし勇者として名誉の戦死を遂げた兵士に較べ、名もなく闇に葬られた死を遂げた女達があわれだ。彼女達も共に戦い、弾丸を運び炊事に従事し傷ついた兵を手当てし看護し、勇敢に死を選んだのに。
 金光隊長が9/5、師団司令部に送った決別電文は以下の通り。
『通信の途絶を顧慮して、予め状況を申し上げたし。---周囲の状況急迫し此までの戦況報告の如く全員弾薬食糧欠乏し。如何とも致し難く最後の時迫る。将兵一同死生を超越し命令を厳守確行、全力を揮ってよく勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力の為御期待に沿うまで死守し得ず。まことに申し訳なし。謹みて聖寿の無窮、皇運の隆昌と兵団長閣下はじめ御一同の御武運長久を祈る。』

 騰越は城郭都市で、城壁は周囲4km正方形で高さ5m、幅2m、外側は石で内側は積土で固められていた。周囲の高地からは見下ろす位置にあるため、これらの高地も防衛する必要があったが、それには最低でも3個連隊、7千名の兵が必要だ。騰越守備隊長は水上少将であったが、少将はミイトキーナ救援に向かったので、蔵重大佐以下2,800名が雲南軍49,600名を迎えうった。守備隊は全滅、雲南軍は戦死9,168名、負傷10,200名の損害を出した。
 戦闘が始まる直前、師団司令部から1大隊の抽出を命ぜられた。そのため実際に騰越で戦ったのは2,800名ではなく2,025名であった。6/27、雲南遠征軍の砲撃開始。7/27、外郭陣地を放棄し城内に後退。8/13早朝、戦爆連合の24機が騰越城を空爆、その一弾が防空壕を直撃して蔵重大佐以下32名が戦死。以後太田大尉(28歳)が指揮をとった。この時点で守備兵は800名になっていた。連合軍の空爆は激しかった。
 しかし騰越守備隊の凄まじい抵抗はむしろここから始まる。組織的防戦から死に物狂いの抵抗へ。空爆で崩れた城壁からなだれ込んできた5千を超す雲南軍と壮絶な市街戦を繰り広げる。昼間奪われた地域は夜襲で奪い返す。8/21、残存640名。9/1~5、残存350以下。9/7、追い詰められた守備隊は太田大尉以下70名。9/11、守備隊の弾薬、手榴弾が尽きる。9/12、最後の無電。9/13、太田大尉の指揮下、生き残った数十名が軍刀と銃剣により敵陣地に突入して全員戦死。太田大尉の決別電は以下の通り。
 『現状ヨリスルニ、一週間以内ノ持久ハ困難ナルヲ以テ、兵団ノ状況ニ依リテハ、十三日、連隊長ノ命日ヲ期シ、最後ノ突撃ヲ敢行シ、怒江作戦以来ノ鬱憤ヲ晴ラシ、武人ノ最後ヲ飾ラントス。敵火砲ノ絶対火制下ニアリテ、敵ノ傍若無人ヲ甘受スルニ忍ビズ、将兵ノ心情ヲ諒トセラレタシ。』

 9月9日、敵将蒋介石は、雲南軍司令部に与えた訓示の中で次のように述べた。

 『戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。我が将校以下は、日本軍の拉孟守備隊、騰越守備隊あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命令を全うしある現状を範とすべし。日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し。』

 これが有名な蒋介石の逆感状である。日本軍の出す美辞麗句を並べた陳腐な感状に較べ、敵から範とすべしと言わしめたのだ。これ程価値のある(逆)感状はない。蒋介石は毀誉褒貶の多い人物だが、敵の勇気に感動する度量のある人だった。このことだけでも結構好きだな。拉孟・騰越の勇者がもし生きていてこのことを聞いたなら、一番うれしい一言だったに違いない。



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