夏の陣
・道明寺の戦い(5月6日)
北上する浅野長晟との対戦、紀州攻めで夏の陣は始まる。この戦さで塙団右衛門が一番槍の功名を狙って突出し、孤立して戦死する。牢人の淡輪重政もここで死んだが浅野勢はこの一戦で兵を引いた。
さて本戦、徳川軍は16万5千。家康は三日分の兵糧で良いと自信をのぞかせる。ここいらが野戦慣れしたカンの良さだ。だがこのことが陣後の掠奪に結びつく一因かもしれない。思えばこの男にとっても生涯最後の一戦だ。日本に於いては武士対武士の最後の戦い。槍合わせ、なんて言葉はここで終わる。豊臣軍は人数が減っていた。堀が埋められ裸城になった以上、今回は野戦になる。豊臣方が勝つ見込みはまず無い。手柄をあげても将来はない。去って行った牢人は多く総勢7万8千人(一説では5万人、正確な数は誰にも分からない。)敵の半分かそれ以下の兵力だ。
初日は早朝から大変な濃霧だった。思えば関ヶ原の朝もそうだった。霧は視界を遮り人馬を濡らす。前を行く兵の背中も消えて行く程の濃い霧、突然敵に遭遇するかもしれず行軍は留まりがちだ。この日豊臣軍は致命的なミスを犯した。徳川軍に先を越され、迎撃ポイントの縊路を先に突破されてしまったのだ。深夜予定通りに進出したのは後藤又兵衛の率いる先発隊2,800のみだった。又兵衛は毛利隊、真田隊の到着を待ったがいつまでたっても現れない。
待ちくたびれた又兵衛は、このままでは徳川に要所を取られると、単独で攻撃をかける。慶長20年(1615年)5月6日午前4時、道明寺の戦いが始まった。後藤隊の相手は松平忠輝、伊達正宗等34,300の大軍だ。又兵衛は果敢に攻撃して、徳川の先鋒奥田をたちまち討ち取る。次の松倉勢を崩しにかかるが、水野・堀が来援してこれを支える。小松山に布陣した又兵衛に伊達・松平隊が激しい銃撃を加える。又兵衛は数度に渡って攻め上がる徳川軍を撃退する。元々数の少ない後藤軍は大軍を一手に引き受け苦戦。又兵衛は負傷者を後方に下げ、小松山を駆け下って徳川軍に逆落としの突撃を敢行、敵数隊を撃退するが丹羽隊に側面を突かれ立ち往生し、伊達隊の銃撃により又兵衛が負傷する。正午頃又兵衛は8時間に渡る激闘の末戦死。後藤隊は壊滅した。
一説では又兵衛は本隊が到着するまで、先鋒として敵を引きつけておく役だったという。濃霧で本隊の到着が遅れに遅れ、又兵衛は戦死するが8時間も大軍を翻弄し疲れさせたため、徳川軍はこの日の夕刻、引き揚げて行く豊臣軍を追撃する余力が残っていなかった。
このころになって豊臣方の部隊がやっと到着しだした。明石隊、山川隊などが徳川軍とぶつかる。武芸者で剣術・柔術に長けた薄田隼人(兼相)は、槍で奮戦し次々と敵兵を突き伏せる。槍を捨てると刀を抜いて斬りかかり、又槍を手にして戦う活躍を見せるが、徳川兵は増えるばかりだ。多勢に無勢、敵将に馬乗りになったところで足首を切り落とされ、数本の槍に貫かれて討死した。好漢倒る。享年23歳。冬の陣で女郎買いに出かけた隙に、持ち場の砦を取られた薄田は『橙武者』と揶揄された。正月のお飾りにしか使えない見掛け倒しということだ。俺は橙(だいだい)武者じゃあない。そのことを証明する意地の死だったのか。
後続隊の毛利が到着、真田隊もやっと着陣した。後藤隊を壊滅させた伊達隊の片倉重長(小十郎)は、到着したばかりの真田隊を見るとこれに攻めよせた。片倉小十郎は伊達政宗の懐刀、長身の美男子だが優男ではない。この戦いで片倉自身が馬上四騎を斬り伏せている。片倉は伊達軍得意の騎馬鉄砲隊で真田を襲撃する。騎乗のまま鉄砲を放つこの攻撃は、雑賀孫一が政宗に教えたともいう。
幸村は片倉小十郎の騎馬突撃に対し、部下に兜を脱いで槍を寝かせ地面に深くひれ伏すことを命じる。鉄砲を放ちながら騎馬隊はみるみる近づく。赤備えの兵は格好の標的だ。弾丸は一つも外れることなく、真田兵は撃ち抜かれ無言でバタバタと倒れる。兵は幸村をチラチラ見るが「まだまだ。」幸村は動かない。先頭の騎馬兵の姿が大きくなる。真田兵は緊張でこめかみの血管が膨れあがり、目を見開く。「兜をかぶれ。」一呼吸置き、幸村が采を返した。「今ぞ、かかれー。」溜めに溜めた真田兵は瞬時に立ちあがり槍を繰り出す。いきなり出現した赤い壁が絶叫を上げて差し出す槍ぶすまに、人馬を貫かれ伊達隊は崩れ退却した。この時戦場で一瞬相まみえた両雄だが、後に幸村は小十郎の義父となる。その話しは後日。
この日は幸村が殿となり、追撃を仕掛ける伊達隊を撃破しつつ全軍の撤収を成功させた。幸村は言う。「関東勢百万と候え、男は一人もなく候。」なにを、と追撃しかかる伊達隊は命令により止められた。
・八尾・若江の戦い(5月6日)
木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が、河内路から大坂城に向かう徳川本隊12万を迎撃した。八尾・若江の戦いである。
八尾方面で長宗我部先鋒の吉田重親が、藤堂高虎隊の攻撃を受けた。退却をしても間に合わないと見た吉田は果敢に迎撃し、戦死した。吉田の報を受けた盛親は、長瀬川の堤防の上に陣取り、騎馬武者は下馬させ槍を伏せて藤堂勢を待ち伏せた。充分に引き寄せて一斉に逆落としの攻撃をかける。この攻撃は見事に当たり藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑と桑名吉成が戦死、藤堂氏勝負傷のち死亡。「見たか!これが長宗我部の戦さじゃ。」関ヶ原のうっ憤を晴らす痛快な勝利だ。
一方午前6時頃、木村勢は若江に着陣、兵を三手に分け敵に備えた。そこへ別働隊の藤堂勢が押し寄せたが重成はよく戦い、藤堂良勝、良重を討ち取った。激戦の末、兵の半数を失った藤堂勢は敗走した。藤堂高虎隊は明日も散々な目に遭う。この日八尾と若江で大打撃を受けた藤堂隊は井伊隊と共に翌日の天王寺・岡山の戦いで二番手に廻らざるを得なくなった。
戦い続ける木村勢を目にした井伊直孝は、犠牲を顧みず堤上を強引に突入し、木村勢と激戦になった。木村重成は槍を取って勇戦したが、ここで討ち死にし木村勢はついに壊滅した。重成は同僚の武将や部下からの再三に渡る一時撤退の進言を聞き入れず、「私は未だ、家康と秀忠の首を取ってはおらぬ。」と元祖赤備えの井伊勢に真一文字に突入していった。
木村重成の敗報を聞いた長宗我部盛親は、敵中での孤立を避けて大坂城に撤退するが、徳川軍の追撃を受け退却戦で実質壊滅した。そのため翌日の天王寺・岡山の戦いには参加していない。なお徳川忠直率いる越前勢1万5千は、藤堂・井伊の大苦戦を横目に参戦していない。大将の忠直が酒を飲んで寝ていたのだ。忠直が追撃戦に参加していたら、大坂の陣の様相が変わっていただろう。
Episode 土佐、長宗我部家の結束は強い。盛親は夏の陣で藤堂高虎隊とがっぷり組んで、正面から激突する。藤堂隊の先鋒に桑名弥次兵衛がいた。桑名は元長宗我部の家老だった人物で、藤堂家に再就職して二千石の禄を得ていた。桑名は牢人となった旧主盛親を14年に渡って、自身の俸禄を割いて援助してきた。何たること。盛親と戦場でまみえるとは。桑名は瞬時に覚悟した。討ち死にしかあるまい。藤堂家には大変世話になっているのだから。
長宗我部旧臣の大かたの者は、事情を知らないから旧主に刃向かう恩知らずめ、と憎悪にかられて攻撃した。桑名弥次兵衛と息子の又右衛門は、顔なじみの長宗我部勢に包囲されて討死した。その報告を受けた盛親は、「あの弥次兵衛父子が死んだのか----」絶句し、双の眼に泪を溢れさせた。
3.岡山の戦い(5月7日)
この日をもって戦国時代は終わりを告げる。豊臣方の闘志は凄まじく、戦場では意外な展開が繰り広げられる。
岡山方面は大野三兄弟の真ん中、主馬治房が5万の兵で秀忠勢15万を迎え撃った。将軍秀忠の陣にいた立花宗重は、大野治房の奮戦を見て言う。「勢いがありますな、危のうござる。これは本陣を下げた方がよろしい。」秀忠はしぶったが、西国無双、戦上手の立花の言うことなので陣を後退させた。それでも大野隊の前進は止まない。周りの旗本が騒ぎ出し、もう一度後退する事を勧めた。すると立花は言う。「いや、もうよろしいでしょう。敵の勢いは弱まってきました。」
大野治房は大健闘だ。この先は後詰の連中の責任である。徳川が新手新手と投入するのに対し、豊臣は秀頼の出馬にこだわり好機を潰している。淀の説得に手間取り、秀頼がやっと出馬した時には家康・秀忠両本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。合戦は12時に始まり15時には岡山・天王寺共に崩れ、毛利勝永の指揮のもとに城内に総退却を始めていた。
出馬した秀頼は大手門で引き返した。大野治長と秀頼側近七手組の後詰大軍は、さして戦闘に参加することなく敗走する。小人数の側が全力を出さないでどうする。
4.天王寺の戦い(5月7日)
大御所家康のいる天王寺方面ではとんでもない事が起きる。慶長20年5月7日(1615年6月3日)未明、最後の決戦のため豊臣軍は大坂城を出発した。徳川軍は夜明け頃、秀忠が岡山方面、家康が天王寺方面から大坂城を目指して進軍を始めた。
幸村は前日濃霧の為に前線への到着が遅れ、あたら後藤又兵衛を戦死させてしまったことを深く後悔していた。毛利勝永は、「本日は最後の決戦となる。右府(秀頼)様の馬前で華々しく死のう。」と幸村を慰める。これではどっちが年上か分からない。狙うは家康の首。秀頼の出馬を機に攻撃を仕掛け、ひたすら家康の本陣を目指す。迂回した明石全登のキリシタン軽騎兵300が機を見て家康本陣に切り込み、首級を挙げるという作戦だ。ところが秀頼がいつになっても出馬しない。
天王寺口は茶臼山に真田隊3,500、前方に渡辺糺・大谷吉治ら兵2,000、西に諸隊2,500、東に諸隊兵力不明。四天王寺南門前に毛利勝永勢と、木村重成と後藤又兵衛の残兵6,500が布陣した。別働隊として明石全登の軽騎兵300、全軍の後詰は大野治長、七手組約15,000が布陣した。
徳川軍は茶臼山方面に前日の戦闘で損害を負った大和路勢35,000と浅野長晟勢5,000を配したが、松平忠直勢15,000が抜け駆けて展開し真田勢と対峙した。天王寺口先鋒は本多忠明を大将とした諸隊計5,500、二番手に榊原康勝を大将として諸隊計5,400、三番手に酒井家次を大将とし、徳川譜代衆を中心とした計5,300、その後方に家康の本陣15,000、さらに徳川義直15,000。
正午頃、毛利勝永の寄騎が先走って本多忠朝勢を銃撃して合戦は始まった。豊臣勢は秀頼の前線への出馬を合図とする予定だったが、当てにならん。天王寺の戦場は、かつてないほどの大軍と火力がぶつかり合う殺戮の場と化した。毛利隊は乱軍の中で徳川先鋒の大将、本多忠朝を討ち取り秋田・浅野・松下・真田・六郷・植村隊を蹴散らす。
本多隊の救援に来た小笠原秀政、忠脩は木村宗明(重政の叔父)による側面攻撃を受け、忠脩は戦死、秀政は重傷を負い後死亡した。毛利勝永の闘志は凄まじく二陣の榊原、仙石、諏訪等の部隊も暫く持ち堪えるのがやっとで壊乱し、第三陣に雪崩れ込んだ。戦う前から気力で押されていた徳川軍第三陣は、同等の兵力を持ちながら大将酒井以下、松平姓を持つ四人の将、内藤、牧野、水谷、稲垣たちまち毛利隊に蹂躙され蹴散らかされた。ここまでで自身の三倍の敵を打ち負かした毛利は、目もくれずにさらに三倍の兵力を持つ家康の本陣に突入する。
一方、真田幸村は兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け松平忠直勢と交戦していた。忠直も必死だった。前日の不手際を家康から激しく叱責され、今日は配置すら与えられていたかったのだ。兵数も幸村の倍はいたが、忠直隊はよく戦った。真田隊の一画を崩し背後に進出、そのまま大坂城を目指す。幸村はそれを横目で睨み兵を返さなかった。大坂城の馬鹿殿を守るのは後方隊があたれば良い。目指すは家康の狸首。幸い毛利隊が敵の大軍を一手に引き受け、三陣まで破り本陣に取りついた。時は今!
浅野長晟が寝返ったと虚報を流し、毛利隊の猛攻にタジタジとなっている家康本陣に突撃を始めた。浅野は豊臣の遠戚だから信ぴょう性がある。普段なら誰も信じないだろうが、この浮足立った状況下で徳川軍は激しく動揺した。毛利隊に攻め込まれている本陣への新たな突撃は堪らない。本陣は崩れ馬印が倒れ、旗奉行は戦死した。三里、12kmも逃げた旗本がいた。家康は慌てて騎馬で逃げるが、赤備えの真田隊は二度、三度と突撃し家康に迫る。家康は切腹すると口走った。ここまでの敗戦は三方が原で武田信玄に追われて以来だ。それでも徳川軍は大軍なので周りは徳川兵で溢れている。混乱状態が次第に回復すると態勢を立て直し、突出した真田隊はみるみる数を減じ、後一歩のところで消滅した。赤い兵は目立つので卑怯な振る舞いは出来ない。幸村は銃創槍傷あちこち負傷し、くたくたになり安居天神で座ったところを討ち取られた。大谷吉治も戦死した。
豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利隊も、真田隊が壊滅すると四方から集中攻撃を受け、数を減じていった。退却戦でも毛利勝永の指揮は冴え、攻撃してきた藤堂高虎を打ち破り井伊直孝や細川忠興らの猛攻を凌いで、見事大坂城に撤退した。黒田長政が加藤嘉明に尋ねる。「あの際立った采配は誰だろう。」「貴殿はご存知なかったのか。毛利壱岐守が一子、豊前守勝永でござるよ。」長政は、「この前まで子供のように思っていたのに---さても歴戦の武将のようだ。」長政が朝鮮で出会った勝永はまだ若武者だったんだろう。朝鮮の役で勝永は、加藤清正救援の際長政と共に活躍した。
そして明くる5月8日、炎上する大坂城で自害する豊臣秀頼の介錯を毛利勝永が行い、勝永は息子勝家16歳、弟・山内勘解由吉近と共に藤田矢倉で静かに腹を切って果てた。後の人がいう。「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず。」大坂の陣を見聞した宣教師は以下のように本国に報告している。「豊臣軍には真田信繁(幸村)と毛利勝永という指揮官があり、凄まじい気迫と勇気を揮い、数度に渡って猛攻を加えたので、敵軍の大将・徳川家康は色を失い、日本の風習に従って切腹をしようとした。」
さて別働隊の明石全登のキリシタン軽騎兵300は、天王寺口の友軍が敗れたことを知ると松平忠直勢に突撃し、前衛を蹴散らした後姿を消した。やはりどう考えても300騎は少なすぎる。馬が不足していたのか。一撃に賭けざるをえない明石はチャンスを得ることが出来なかった。家康本陣がもろくもどんどん退却していった事も、戦場では把握出来なかったのだろう。しかしながら明石率いるキリシタン兵数千人はどうしたのか。薄田が戦死した道明寺の戦いでの損害が大きかったのか。一説では明石隊が大坂西で7日、迫りくる徳川軍と激戦を交えたとも言うが、明石全登の事になると何故か全ての事に霞みがかかる。関ヶ原で消え大坂でも消えた。家康もよほど無気味に思ったか陣後苛烈な「明石狩り」を行い、少しでも縁のある者を捕えて拷問にかけ行方を追った。
1637年に島原・天草の乱が発生した。これは単なる農民反乱ではない。指導者の一群には、帰農した小西行長の旧臣がいた。もし関ヶ原に18歳で小西軍に参戦していたら、32歳で明石軍に入って大坂の陣で戦い、55歳で島原・天草と三度徳川と戦うことも不可能ではない。
秀頼の息子、国松8歳(秀頼13歳ほどで子を仕込むとは早熟な)は、潜伏している所を捕えられ処刑、娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。江戸初期の浄土宗の僧、求厭は80歳で死ぬ際に自分は秀頼の次男だと告白した。豊臣の血が密かに受け継がれた可能性はある。徳川の天下をゆるがす由井正雪の乱(1651年)。正雪の右腕、丸山忠弥は長宗我部盛親(陣後捕えられ斬首)の側室の子だという。
さて真田幸村の娘、三女阿梅(正妻ではなく側室の子)は、父の言い付け通り陣後、伊達隊の片倉小十郎の陣屋に駆け込んだ。この辺り、冬の陣後の停戦中に話しを通してあったのだと思う。幸村が男と見込んだ小十郎、命懸けで阿梅を守り仙台に連れて帰った。後に阿梅は小十郎の妻になり、真田の血は続いた。伊達正宗/片倉小十郎は大胆にも幸村の他の子、次男の大八(真田守信)も保護し片倉姓を与えた。守信の子の代に真田姓に復し仙台真田家として現在も続く。さらには幸村の妻も引き取ったらしい。幕府の圧力を撥ね退ける気力のある大名は、伊達と島津くらいしかいない。
幕府も太平の世に移り代わり、もう真田でもあるまいと思ったか。それなら毛利勝永の子も、とも思うが。あと明石一族はキリシタンがらみで見逃せないんだろうな。
大坂落城の際、燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤に染まる大坂の空が見えたという。勝ち誇った徳川の雑兵共が大坂城下の民衆に襲いかかり、偽首取り、掠奪、暴行数千人が殺されたという。
最後に明石全登の娘のことを記す。一人はカトリーナ、もう一人はレジーナ(亜矢)。大坂落城の時に、雑兵に捕まり乱暴されそうになったレジーナは、明石の娘であることを明かし家康のもとに連れて行かれた。家康はレジーナを尋問して大変気に入り、側室に預ける。しかしレジーナは家康の世話を断り、しばらくして三好直政の妻になった。三好直政は大坂城に立て籠もり、父は戦死している。家康の孫娘で秀頼の妻、千姫のおつきだったので命は救われた。三好の旧姓は浅井になっているから、淀殿の遠戚ではあるまいか。レジーナは淀に気に入られとても可愛がられたと言うから、この結婚は落城前に淀が仕組んだのかもしれない。或いは籠城中に見染め合ったのかな。
その史実とは別の話しもある。レジーナは長崎で医術を学び、大坂の陣で看護婦として活躍したという。陣後キリシタン弾圧を受け長崎からマニラに渡る。マニラでオランダ軍の捕虜になるが、捕虜仲間の治療をしてその医療技術を買われた。やがてオランダ軍医の信頼を得、ジャカルタに連れて行かれ東インド会社経営の医師養成所に入り、外科医となる。その後、東インド会社の医師として台湾に渡る。「南蛮キリシタン女医 明石レジーナ」(森本繁著)まあ小説ではあるが素敵な設定だ。
・道明寺の戦い(5月6日)
北上する浅野長晟との対戦、紀州攻めで夏の陣は始まる。この戦さで塙団右衛門が一番槍の功名を狙って突出し、孤立して戦死する。牢人の淡輪重政もここで死んだが浅野勢はこの一戦で兵を引いた。
さて本戦、徳川軍は16万5千。家康は三日分の兵糧で良いと自信をのぞかせる。ここいらが野戦慣れしたカンの良さだ。だがこのことが陣後の掠奪に結びつく一因かもしれない。思えばこの男にとっても生涯最後の一戦だ。日本に於いては武士対武士の最後の戦い。槍合わせ、なんて言葉はここで終わる。豊臣軍は人数が減っていた。堀が埋められ裸城になった以上、今回は野戦になる。豊臣方が勝つ見込みはまず無い。手柄をあげても将来はない。去って行った牢人は多く総勢7万8千人(一説では5万人、正確な数は誰にも分からない。)敵の半分かそれ以下の兵力だ。
初日は早朝から大変な濃霧だった。思えば関ヶ原の朝もそうだった。霧は視界を遮り人馬を濡らす。前を行く兵の背中も消えて行く程の濃い霧、突然敵に遭遇するかもしれず行軍は留まりがちだ。この日豊臣軍は致命的なミスを犯した。徳川軍に先を越され、迎撃ポイントの縊路を先に突破されてしまったのだ。深夜予定通りに進出したのは後藤又兵衛の率いる先発隊2,800のみだった。又兵衛は毛利隊、真田隊の到着を待ったがいつまでたっても現れない。
待ちくたびれた又兵衛は、このままでは徳川に要所を取られると、単独で攻撃をかける。慶長20年(1615年)5月6日午前4時、道明寺の戦いが始まった。後藤隊の相手は松平忠輝、伊達正宗等34,300の大軍だ。又兵衛は果敢に攻撃して、徳川の先鋒奥田をたちまち討ち取る。次の松倉勢を崩しにかかるが、水野・堀が来援してこれを支える。小松山に布陣した又兵衛に伊達・松平隊が激しい銃撃を加える。又兵衛は数度に渡って攻め上がる徳川軍を撃退する。元々数の少ない後藤軍は大軍を一手に引き受け苦戦。又兵衛は負傷者を後方に下げ、小松山を駆け下って徳川軍に逆落としの突撃を敢行、敵数隊を撃退するが丹羽隊に側面を突かれ立ち往生し、伊達隊の銃撃により又兵衛が負傷する。正午頃又兵衛は8時間に渡る激闘の末戦死。後藤隊は壊滅した。
一説では又兵衛は本隊が到着するまで、先鋒として敵を引きつけておく役だったという。濃霧で本隊の到着が遅れに遅れ、又兵衛は戦死するが8時間も大軍を翻弄し疲れさせたため、徳川軍はこの日の夕刻、引き揚げて行く豊臣軍を追撃する余力が残っていなかった。
このころになって豊臣方の部隊がやっと到着しだした。明石隊、山川隊などが徳川軍とぶつかる。武芸者で剣術・柔術に長けた薄田隼人(兼相)は、槍で奮戦し次々と敵兵を突き伏せる。槍を捨てると刀を抜いて斬りかかり、又槍を手にして戦う活躍を見せるが、徳川兵は増えるばかりだ。多勢に無勢、敵将に馬乗りになったところで足首を切り落とされ、数本の槍に貫かれて討死した。好漢倒る。享年23歳。冬の陣で女郎買いに出かけた隙に、持ち場の砦を取られた薄田は『橙武者』と揶揄された。正月のお飾りにしか使えない見掛け倒しということだ。俺は橙(だいだい)武者じゃあない。そのことを証明する意地の死だったのか。
後続隊の毛利が到着、真田隊もやっと着陣した。後藤隊を壊滅させた伊達隊の片倉重長(小十郎)は、到着したばかりの真田隊を見るとこれに攻めよせた。片倉小十郎は伊達政宗の懐刀、長身の美男子だが優男ではない。この戦いで片倉自身が馬上四騎を斬り伏せている。片倉は伊達軍得意の騎馬鉄砲隊で真田を襲撃する。騎乗のまま鉄砲を放つこの攻撃は、雑賀孫一が政宗に教えたともいう。
幸村は片倉小十郎の騎馬突撃に対し、部下に兜を脱いで槍を寝かせ地面に深くひれ伏すことを命じる。鉄砲を放ちながら騎馬隊はみるみる近づく。赤備えの兵は格好の標的だ。弾丸は一つも外れることなく、真田兵は撃ち抜かれ無言でバタバタと倒れる。兵は幸村をチラチラ見るが「まだまだ。」幸村は動かない。先頭の騎馬兵の姿が大きくなる。真田兵は緊張でこめかみの血管が膨れあがり、目を見開く。「兜をかぶれ。」一呼吸置き、幸村が采を返した。「今ぞ、かかれー。」溜めに溜めた真田兵は瞬時に立ちあがり槍を繰り出す。いきなり出現した赤い壁が絶叫を上げて差し出す槍ぶすまに、人馬を貫かれ伊達隊は崩れ退却した。この時戦場で一瞬相まみえた両雄だが、後に幸村は小十郎の義父となる。その話しは後日。
この日は幸村が殿となり、追撃を仕掛ける伊達隊を撃破しつつ全軍の撤収を成功させた。幸村は言う。「関東勢百万と候え、男は一人もなく候。」なにを、と追撃しかかる伊達隊は命令により止められた。
・八尾・若江の戦い(5月6日)
木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が、河内路から大坂城に向かう徳川本隊12万を迎撃した。八尾・若江の戦いである。
八尾方面で長宗我部先鋒の吉田重親が、藤堂高虎隊の攻撃を受けた。退却をしても間に合わないと見た吉田は果敢に迎撃し、戦死した。吉田の報を受けた盛親は、長瀬川の堤防の上に陣取り、騎馬武者は下馬させ槍を伏せて藤堂勢を待ち伏せた。充分に引き寄せて一斉に逆落としの攻撃をかける。この攻撃は見事に当たり藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑と桑名吉成が戦死、藤堂氏勝負傷のち死亡。「見たか!これが長宗我部の戦さじゃ。」関ヶ原のうっ憤を晴らす痛快な勝利だ。
一方午前6時頃、木村勢は若江に着陣、兵を三手に分け敵に備えた。そこへ別働隊の藤堂勢が押し寄せたが重成はよく戦い、藤堂良勝、良重を討ち取った。激戦の末、兵の半数を失った藤堂勢は敗走した。藤堂高虎隊は明日も散々な目に遭う。この日八尾と若江で大打撃を受けた藤堂隊は井伊隊と共に翌日の天王寺・岡山の戦いで二番手に廻らざるを得なくなった。
戦い続ける木村勢を目にした井伊直孝は、犠牲を顧みず堤上を強引に突入し、木村勢と激戦になった。木村重成は槍を取って勇戦したが、ここで討ち死にし木村勢はついに壊滅した。重成は同僚の武将や部下からの再三に渡る一時撤退の進言を聞き入れず、「私は未だ、家康と秀忠の首を取ってはおらぬ。」と元祖赤備えの井伊勢に真一文字に突入していった。
木村重成の敗報を聞いた長宗我部盛親は、敵中での孤立を避けて大坂城に撤退するが、徳川軍の追撃を受け退却戦で実質壊滅した。そのため翌日の天王寺・岡山の戦いには参加していない。なお徳川忠直率いる越前勢1万5千は、藤堂・井伊の大苦戦を横目に参戦していない。大将の忠直が酒を飲んで寝ていたのだ。忠直が追撃戦に参加していたら、大坂の陣の様相が変わっていただろう。
Episode 土佐、長宗我部家の結束は強い。盛親は夏の陣で藤堂高虎隊とがっぷり組んで、正面から激突する。藤堂隊の先鋒に桑名弥次兵衛がいた。桑名は元長宗我部の家老だった人物で、藤堂家に再就職して二千石の禄を得ていた。桑名は牢人となった旧主盛親を14年に渡って、自身の俸禄を割いて援助してきた。何たること。盛親と戦場でまみえるとは。桑名は瞬時に覚悟した。討ち死にしかあるまい。藤堂家には大変世話になっているのだから。
長宗我部旧臣の大かたの者は、事情を知らないから旧主に刃向かう恩知らずめ、と憎悪にかられて攻撃した。桑名弥次兵衛と息子の又右衛門は、顔なじみの長宗我部勢に包囲されて討死した。その報告を受けた盛親は、「あの弥次兵衛父子が死んだのか----」絶句し、双の眼に泪を溢れさせた。
3.岡山の戦い(5月7日)
この日をもって戦国時代は終わりを告げる。豊臣方の闘志は凄まじく、戦場では意外な展開が繰り広げられる。
岡山方面は大野三兄弟の真ん中、主馬治房が5万の兵で秀忠勢15万を迎え撃った。将軍秀忠の陣にいた立花宗重は、大野治房の奮戦を見て言う。「勢いがありますな、危のうござる。これは本陣を下げた方がよろしい。」秀忠はしぶったが、西国無双、戦上手の立花の言うことなので陣を後退させた。それでも大野隊の前進は止まない。周りの旗本が騒ぎ出し、もう一度後退する事を勧めた。すると立花は言う。「いや、もうよろしいでしょう。敵の勢いは弱まってきました。」
大野治房は大健闘だ。この先は後詰の連中の責任である。徳川が新手新手と投入するのに対し、豊臣は秀頼の出馬にこだわり好機を潰している。淀の説得に手間取り、秀頼がやっと出馬した時には家康・秀忠両本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。合戦は12時に始まり15時には岡山・天王寺共に崩れ、毛利勝永の指揮のもとに城内に総退却を始めていた。
出馬した秀頼は大手門で引き返した。大野治長と秀頼側近七手組の後詰大軍は、さして戦闘に参加することなく敗走する。小人数の側が全力を出さないでどうする。
4.天王寺の戦い(5月7日)
大御所家康のいる天王寺方面ではとんでもない事が起きる。慶長20年5月7日(1615年6月3日)未明、最後の決戦のため豊臣軍は大坂城を出発した。徳川軍は夜明け頃、秀忠が岡山方面、家康が天王寺方面から大坂城を目指して進軍を始めた。
幸村は前日濃霧の為に前線への到着が遅れ、あたら後藤又兵衛を戦死させてしまったことを深く後悔していた。毛利勝永は、「本日は最後の決戦となる。右府(秀頼)様の馬前で華々しく死のう。」と幸村を慰める。これではどっちが年上か分からない。狙うは家康の首。秀頼の出馬を機に攻撃を仕掛け、ひたすら家康の本陣を目指す。迂回した明石全登のキリシタン軽騎兵300が機を見て家康本陣に切り込み、首級を挙げるという作戦だ。ところが秀頼がいつになっても出馬しない。
天王寺口は茶臼山に真田隊3,500、前方に渡辺糺・大谷吉治ら兵2,000、西に諸隊2,500、東に諸隊兵力不明。四天王寺南門前に毛利勝永勢と、木村重成と後藤又兵衛の残兵6,500が布陣した。別働隊として明石全登の軽騎兵300、全軍の後詰は大野治長、七手組約15,000が布陣した。
徳川軍は茶臼山方面に前日の戦闘で損害を負った大和路勢35,000と浅野長晟勢5,000を配したが、松平忠直勢15,000が抜け駆けて展開し真田勢と対峙した。天王寺口先鋒は本多忠明を大将とした諸隊計5,500、二番手に榊原康勝を大将として諸隊計5,400、三番手に酒井家次を大将とし、徳川譜代衆を中心とした計5,300、その後方に家康の本陣15,000、さらに徳川義直15,000。
正午頃、毛利勝永の寄騎が先走って本多忠朝勢を銃撃して合戦は始まった。豊臣勢は秀頼の前線への出馬を合図とする予定だったが、当てにならん。天王寺の戦場は、かつてないほどの大軍と火力がぶつかり合う殺戮の場と化した。毛利隊は乱軍の中で徳川先鋒の大将、本多忠朝を討ち取り秋田・浅野・松下・真田・六郷・植村隊を蹴散らす。
本多隊の救援に来た小笠原秀政、忠脩は木村宗明(重政の叔父)による側面攻撃を受け、忠脩は戦死、秀政は重傷を負い後死亡した。毛利勝永の闘志は凄まじく二陣の榊原、仙石、諏訪等の部隊も暫く持ち堪えるのがやっとで壊乱し、第三陣に雪崩れ込んだ。戦う前から気力で押されていた徳川軍第三陣は、同等の兵力を持ちながら大将酒井以下、松平姓を持つ四人の将、内藤、牧野、水谷、稲垣たちまち毛利隊に蹂躙され蹴散らかされた。ここまでで自身の三倍の敵を打ち負かした毛利は、目もくれずにさらに三倍の兵力を持つ家康の本陣に突入する。
一方、真田幸村は兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け松平忠直勢と交戦していた。忠直も必死だった。前日の不手際を家康から激しく叱責され、今日は配置すら与えられていたかったのだ。兵数も幸村の倍はいたが、忠直隊はよく戦った。真田隊の一画を崩し背後に進出、そのまま大坂城を目指す。幸村はそれを横目で睨み兵を返さなかった。大坂城の馬鹿殿を守るのは後方隊があたれば良い。目指すは家康の狸首。幸い毛利隊が敵の大軍を一手に引き受け、三陣まで破り本陣に取りついた。時は今!
浅野長晟が寝返ったと虚報を流し、毛利隊の猛攻にタジタジとなっている家康本陣に突撃を始めた。浅野は豊臣の遠戚だから信ぴょう性がある。普段なら誰も信じないだろうが、この浮足立った状況下で徳川軍は激しく動揺した。毛利隊に攻め込まれている本陣への新たな突撃は堪らない。本陣は崩れ馬印が倒れ、旗奉行は戦死した。三里、12kmも逃げた旗本がいた。家康は慌てて騎馬で逃げるが、赤備えの真田隊は二度、三度と突撃し家康に迫る。家康は切腹すると口走った。ここまでの敗戦は三方が原で武田信玄に追われて以来だ。それでも徳川軍は大軍なので周りは徳川兵で溢れている。混乱状態が次第に回復すると態勢を立て直し、突出した真田隊はみるみる数を減じ、後一歩のところで消滅した。赤い兵は目立つので卑怯な振る舞いは出来ない。幸村は銃創槍傷あちこち負傷し、くたくたになり安居天神で座ったところを討ち取られた。大谷吉治も戦死した。
豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利隊も、真田隊が壊滅すると四方から集中攻撃を受け、数を減じていった。退却戦でも毛利勝永の指揮は冴え、攻撃してきた藤堂高虎を打ち破り井伊直孝や細川忠興らの猛攻を凌いで、見事大坂城に撤退した。黒田長政が加藤嘉明に尋ねる。「あの際立った采配は誰だろう。」「貴殿はご存知なかったのか。毛利壱岐守が一子、豊前守勝永でござるよ。」長政は、「この前まで子供のように思っていたのに---さても歴戦の武将のようだ。」長政が朝鮮で出会った勝永はまだ若武者だったんだろう。朝鮮の役で勝永は、加藤清正救援の際長政と共に活躍した。
そして明くる5月8日、炎上する大坂城で自害する豊臣秀頼の介錯を毛利勝永が行い、勝永は息子勝家16歳、弟・山内勘解由吉近と共に藤田矢倉で静かに腹を切って果てた。後の人がいう。「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず。」大坂の陣を見聞した宣教師は以下のように本国に報告している。「豊臣軍には真田信繁(幸村)と毛利勝永という指揮官があり、凄まじい気迫と勇気を揮い、数度に渡って猛攻を加えたので、敵軍の大将・徳川家康は色を失い、日本の風習に従って切腹をしようとした。」
さて別働隊の明石全登のキリシタン軽騎兵300は、天王寺口の友軍が敗れたことを知ると松平忠直勢に突撃し、前衛を蹴散らした後姿を消した。やはりどう考えても300騎は少なすぎる。馬が不足していたのか。一撃に賭けざるをえない明石はチャンスを得ることが出来なかった。家康本陣がもろくもどんどん退却していった事も、戦場では把握出来なかったのだろう。しかしながら明石率いるキリシタン兵数千人はどうしたのか。薄田が戦死した道明寺の戦いでの損害が大きかったのか。一説では明石隊が大坂西で7日、迫りくる徳川軍と激戦を交えたとも言うが、明石全登の事になると何故か全ての事に霞みがかかる。関ヶ原で消え大坂でも消えた。家康もよほど無気味に思ったか陣後苛烈な「明石狩り」を行い、少しでも縁のある者を捕えて拷問にかけ行方を追った。
1637年に島原・天草の乱が発生した。これは単なる農民反乱ではない。指導者の一群には、帰農した小西行長の旧臣がいた。もし関ヶ原に18歳で小西軍に参戦していたら、32歳で明石軍に入って大坂の陣で戦い、55歳で島原・天草と三度徳川と戦うことも不可能ではない。
秀頼の息子、国松8歳(秀頼13歳ほどで子を仕込むとは早熟な)は、潜伏している所を捕えられ処刑、娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。江戸初期の浄土宗の僧、求厭は80歳で死ぬ際に自分は秀頼の次男だと告白した。豊臣の血が密かに受け継がれた可能性はある。徳川の天下をゆるがす由井正雪の乱(1651年)。正雪の右腕、丸山忠弥は長宗我部盛親(陣後捕えられ斬首)の側室の子だという。
さて真田幸村の娘、三女阿梅(正妻ではなく側室の子)は、父の言い付け通り陣後、伊達隊の片倉小十郎の陣屋に駆け込んだ。この辺り、冬の陣後の停戦中に話しを通してあったのだと思う。幸村が男と見込んだ小十郎、命懸けで阿梅を守り仙台に連れて帰った。後に阿梅は小十郎の妻になり、真田の血は続いた。伊達正宗/片倉小十郎は大胆にも幸村の他の子、次男の大八(真田守信)も保護し片倉姓を与えた。守信の子の代に真田姓に復し仙台真田家として現在も続く。さらには幸村の妻も引き取ったらしい。幕府の圧力を撥ね退ける気力のある大名は、伊達と島津くらいしかいない。
幕府も太平の世に移り代わり、もう真田でもあるまいと思ったか。それなら毛利勝永の子も、とも思うが。あと明石一族はキリシタンがらみで見逃せないんだろうな。
大坂落城の際、燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤に染まる大坂の空が見えたという。勝ち誇った徳川の雑兵共が大坂城下の民衆に襲いかかり、偽首取り、掠奪、暴行数千人が殺されたという。
最後に明石全登の娘のことを記す。一人はカトリーナ、もう一人はレジーナ(亜矢)。大坂落城の時に、雑兵に捕まり乱暴されそうになったレジーナは、明石の娘であることを明かし家康のもとに連れて行かれた。家康はレジーナを尋問して大変気に入り、側室に預ける。しかしレジーナは家康の世話を断り、しばらくして三好直政の妻になった。三好直政は大坂城に立て籠もり、父は戦死している。家康の孫娘で秀頼の妻、千姫のおつきだったので命は救われた。三好の旧姓は浅井になっているから、淀殿の遠戚ではあるまいか。レジーナは淀に気に入られとても可愛がられたと言うから、この結婚は落城前に淀が仕組んだのかもしれない。或いは籠城中に見染め合ったのかな。
その史実とは別の話しもある。レジーナは長崎で医術を学び、大坂の陣で看護婦として活躍したという。陣後キリシタン弾圧を受け長崎からマニラに渡る。マニラでオランダ軍の捕虜になるが、捕虜仲間の治療をしてその医療技術を買われた。やがてオランダ軍医の信頼を得、ジャカルタに連れて行かれ東インド会社経営の医師養成所に入り、外科医となる。その後、東インド会社の医師として台湾に渡る。「南蛮キリシタン女医 明石レジーナ」(森本繁著)まあ小説ではあるが素敵な設定だ。
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