嗚呼、紫電改
第二次世界大戦中のレシプロ戦闘機が好きだ。バトル・オブ・ブリテン、英仏海峡を挟んでイギリスのスピットファイアー、ハリケーン対ドイツのメッサーシュミット、フォッケウルフの制空権をかけた戦い。英国はここで負ければ後が無い、瀬戸際での際どい勝利だった。大戦の少し前の芬ソ戦争に於ける弱小フィンランド空軍の10対1をものともしない、粘り強い戦い。しかも他の戦場では二線級だった戦闘機を用いて祖国の空を守り抜いた。
そして日中戦争から、太平洋戦争初期に於けるゼロ戦の活躍。日本が当時の世界の水準に抜きん出た兵器は、零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦。速力・航続力・炸薬力が大きく、ほとんど雷跡の出ない酸素魚雷。そして実戦ではあまり活躍の場が無かったが、爆撃機、晴嵐を積んだ海底空母イ400シリーズ。といったところか。戦艦大和・武蔵は無駄花だった。ドイツの大陸間弾道ミサイル、列車砲、ロケット/ジェット戦闘機、無敵のタイガー戦車等に比べると見劣りはするものの、開戦半年、一年の間に於けるゼロ戦の無敵振りは圧倒的なものだった。
ゼロ戦の優れた点は三つ。小回りの利く格闘能力、驚異的な航続力、強力な武装だ。しかしゼロ戦のエンジンは1,000ccにすぎない。車で言えば日産マーチだ。軽量化を極限にまで追及したため、翼も燃料タンクにされ、操縦者への防弾装置は全く無い。一弾当たれば火がついてしまう。米軍はゼロ戦を研究しその優秀な格闘能力(いわゆる巴戦に強い。)を避け、編隊による上空からの一撃離脱の戦法を取るようになった。ゼロ戦は軽いので急降下の速力で負け、アメリカの鈍重で頑丈な戦闘機に追いつけない。アリューシャンの戦闘で、島の湿地帯に不時着したぼとんど無傷のゼロ戦が、米軍の手に入った不運があった。不時着したゼロ戦のパイロットは戦死していた。
ゼロ戦は最高時速が585km/hで、その後に出てきた米軍の戦闘機に比べると、どうしても見劣りする。ゼロ戦は三菱製だが、三菱はその後、迎撃用局地戦闘地〝雷電〟を送り出すものの、ゼロ戦の後継機となる次期艦上戦闘機、〝烈風〟は終戦に間に合わなかった。インターセプター、雷電も一部の部隊での活躍はあったが、そのくまん蜂のような外見、操縦席からの視界の悪さ、着陸時の高速(殺人機とまで言われた。)からベストの戦闘機とはとても言えなかった。自分の父親は高専を出て、戦争中名古屋の三菱で働いていて雷電の設計に加わっている。なのであまりこの戦闘機の悪口は言いたくないな。父は戦争の話はあまりしなかったが、戦時中空襲以上に名古屋の大地震で工場が被害を受け、工員が大勢圧死したこと。乗用車にターボエンジンが採用されるようになった時、詳しい仕様を書いた記事を見て、頭では分かった積りでいたけれどこういう構造なのか、とうなずいていた。日本は戦時中航空機のターボエンジンの開発が間に合わなかったからね。
陸軍の戦闘機は優秀だ。戦後解体された中島飛行機がメインで、一式戦、隼。二式双戦、屠龍。二式戦、鐘馗。三式戦、飛燕。四式戦、疾風(ハヤテ)。五式戦と次々に新鋭機を戦場に送り出し、ニューギニア、フィリピン、ビルマ、本土等の戦場でグラマンと互角に戦っている。ちなみに零式(レイシキ)とは、戦前に使っていた皇国史観に基づく暦で、皇紀2,600年(西暦1940年、昭和15年)に制式採用されたので零式という。2,601年採用なら一式、逆に2,597年採用なら97式。例えば97艦攻とは97式艦上攻撃機のこと。2,602年には巨大で優秀な川西製作所製の二式大艇が就航している。一度お台場の船の科学館で見たことがある。(今は置いていない。)想像を超える巨大さだ。これに乗ってアメリアのカタリナ飛行艇と一騎打ちで撃ち合ったらと思うとワクワクする。
四式戦、疾風は優秀機でゼロ戦の撃墜王、板井三郎はテストパイロットとして乗り比べ,紫電改よりも疾風を海軍で採用するように具申している。五式戦には名称はない。言うなれば〝飛燕改〟である。日本では珍しい液冷エンジンを搭載した飛燕はエンジントラブルに悩まされ、またダイムラーベンツのライセンス契約で製造した液冷エンジンの製造も滞り、フィリピン等一部の戦場では活躍を見せたものの、整備士泣かせの機体であった。川崎航空機の工場にはエンジン待ちの首無し飛燕が並んでいた。これに空冷エンジンを取り付けたところ、意外なほどの高性能を発揮した。五式戦(キ100)の登場は敗戦の1945年の2月からで、遅すぎた。もっと早く登場していてもおかしくはなかっただけに悔やまれる。実戦でB29、P51を撃墜している。日本軍最後の制式採用機である。
さて帝国海軍は、ゼロ戦を継ぐ優秀な戦闘機が欲しい。切実に欲しい。ドイツに派遣した潜水艦がシンガポールまで図面を運んだ、ロケット戦闘機、ME163のコピーを作りサイパン、テニアンから飛来するB29用のインターセプターとする計画も、終戦には間に合わなかった。邦名は〝秋水〟である。飛行機を1から設計したらどうしたって3~4年はかかる。そこで海軍が目をつけたのが、川西製作所製の水上戦闘機、強風である。水上戦闘機とはフロートをつけて水の上で離着陸する飛行機である。飛行場が無くても運用出来るが、ゲタばき(フロート付き)なので速力、運動性はどうしても落ちる。
開戦当初、連合軍の島を占領していち早く進出する目的で作られたが、強風は十数機製造されただけだった。三菱のゼロ戦を基本としてフロートをつけた零式水上戦闘機の性能が良かったのと、負け戦でそんな景気のよい戦場が無くなったためである。しかし強風は良い飛行機だ。フロートを外して車輪をつけたらどうだろう。海軍は川西に開発させ、強風を基に陸上戦闘機、紫電を作らせた。改造だけだから開発は早い。川西も初めての戦闘機に張り切った。
紫電/紫電改 : 出力 1,990CC 最高時速 644km/時 武装は20mm x 2, 13.7mm x 2、これは20mm x 2, 7.7mm X 2のゼロ戦よりも強力で、携行する弾丸数もずっと多い。燃料タンクと操縦席の防弾対応も成されている。
しかし紫電には問題が多かった。エンジンの不良が多い。車輪が長すぎるため、着陸時に折れる事故が続いた。視界が悪く着陸が困難。そこで紫電を改良し、中翼(胴体の真ん中から翼が出ている。)から低翼(胴体の下部から翼が出ている。ゼロ戦他日本軍機はこれが多い。)へ変更した。そのため車輪が短くなり着陸の難易度も軽減された。紫電を改造したので紫電改、これであのスマートな機影が完成した。
紫電/紫電改の優れた点は、自動空戦フラップによる運動性、格闘能力の高さである。自動的に翼のフラップが働き、空中でブレーキが一時的にかかった状態になるので小回りが利く。これは当時日本だけが採用していた優れた装置だ。より小さな半径で回転出来れば、同時に回っても敵機の背後につける。戦闘機は後ろに回られたら、逃げるしかない。高速なのに運動性がよい。
真珠湾攻撃に参加、指揮をとった源田実大佐が敗色濃厚な昭和19年、南方で生き残ったベテランパイロットを集め、343飛行隊を結成した。出来上がったばかりの紫電/紫電改を使って猛特訓を始めた。度重なる出撃要請を退け、満を持して昭和20年3月19日、四国松山上空でアメリカ軍の空母艦載機延べ160機に、紫電/紫電改54機が上空より編隊で襲い掛かった。数では勝っていたが、米軍パイロットは突如現れたエキスパートパイロットの乗る新鋭機に次々に打ち落とされ、悲鳴をあげて逃げ回った。帝国海軍快心の迎撃戦であった。と言いたいところだが、事実はそうではなかったようだ。
日本側の戦果は撃墜59機(対空砲火による撃墜を含む。)、米側は撃墜50機と報告している。しかし実際の戦果は、日本側の損失が15機(敵機に体当たりした偵察機、彩雲を含む。)、米側の損失は14機(対空砲火によるもの、母艦まで帰還したが損害がひどいため海洋投棄した機を含む。)であった。また343空のベテランパイロットの割合は意外と低くて、大半は実戦を未経験な訓練兵だったようだ。ともあれ米側が警戒を強めたのは事実である。343空はその後も終戦まで迎撃を続け、また沖縄戦では特攻機の露払い、制空に努めた。瀬戸内海に沈んだ紫電改が1978年に引き上げられている。終戦となり、接収するために武装を外した紫電改にハイオクのガソリンを積んで、松山から調布へ飛ばしたところ、エスコートするグラマンF6Fをぶっちぎったと言う。
まともな燃料が十分にあれば、もっと性能を出せたに違いない。
他に九州飛行機で開発したB29迎撃用の戦闘機〝震電〟は、プロペラが操縦席の後ろにある実にユニークな形状であった。最高速:740km/時(カタログ値) 上昇限度:高度12,000m 武装:30mm 機関砲 x 4門。 終戦時、試運転まで終わっていて実戦投入まで後一歩のところであった。これは素晴らしい高性能機だ。この震電は運動性など全く無視している。高空まで駆け上がり、空の要塞B29を撃ち落すことだけを目的として作られた。この速度では敵戦闘機はついて来られない。こんな独創的な飛行機が、超ローカルな九州飛行機で短期間に作られたのはすごい。震電の機種に据えられた30mm機関砲4門が、実戦で火を吹いていたら米軍は一時的にパニックに陥ったことだろう。不謹慎だが一度飛ばせてみたかった。
さて現代、自衛隊の次期戦闘機が国産されると言う。名前は〝心神〟。ゼロ戦、紫電改以来の国産戦闘機だが、名前はどうかな。改造したら心神改になるんか
第二次世界大戦中のレシプロ戦闘機が好きだ。バトル・オブ・ブリテン、英仏海峡を挟んでイギリスのスピットファイアー、ハリケーン対ドイツのメッサーシュミット、フォッケウルフの制空権をかけた戦い。英国はここで負ければ後が無い、瀬戸際での際どい勝利だった。大戦の少し前の芬ソ戦争に於ける弱小フィンランド空軍の10対1をものともしない、粘り強い戦い。しかも他の戦場では二線級だった戦闘機を用いて祖国の空を守り抜いた。
そして日中戦争から、太平洋戦争初期に於けるゼロ戦の活躍。日本が当時の世界の水準に抜きん出た兵器は、零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦。速力・航続力・炸薬力が大きく、ほとんど雷跡の出ない酸素魚雷。そして実戦ではあまり活躍の場が無かったが、爆撃機、晴嵐を積んだ海底空母イ400シリーズ。といったところか。戦艦大和・武蔵は無駄花だった。ドイツの大陸間弾道ミサイル、列車砲、ロケット/ジェット戦闘機、無敵のタイガー戦車等に比べると見劣りはするものの、開戦半年、一年の間に於けるゼロ戦の無敵振りは圧倒的なものだった。
ゼロ戦の優れた点は三つ。小回りの利く格闘能力、驚異的な航続力、強力な武装だ。しかしゼロ戦のエンジンは1,000ccにすぎない。車で言えば日産マーチだ。軽量化を極限にまで追及したため、翼も燃料タンクにされ、操縦者への防弾装置は全く無い。一弾当たれば火がついてしまう。米軍はゼロ戦を研究しその優秀な格闘能力(いわゆる巴戦に強い。)を避け、編隊による上空からの一撃離脱の戦法を取るようになった。ゼロ戦は軽いので急降下の速力で負け、アメリカの鈍重で頑丈な戦闘機に追いつけない。アリューシャンの戦闘で、島の湿地帯に不時着したぼとんど無傷のゼロ戦が、米軍の手に入った不運があった。不時着したゼロ戦のパイロットは戦死していた。
ゼロ戦は最高時速が585km/hで、その後に出てきた米軍の戦闘機に比べると、どうしても見劣りする。ゼロ戦は三菱製だが、三菱はその後、迎撃用局地戦闘地〝雷電〟を送り出すものの、ゼロ戦の後継機となる次期艦上戦闘機、〝烈風〟は終戦に間に合わなかった。インターセプター、雷電も一部の部隊での活躍はあったが、そのくまん蜂のような外見、操縦席からの視界の悪さ、着陸時の高速(殺人機とまで言われた。)からベストの戦闘機とはとても言えなかった。自分の父親は高専を出て、戦争中名古屋の三菱で働いていて雷電の設計に加わっている。なのであまりこの戦闘機の悪口は言いたくないな。父は戦争の話はあまりしなかったが、戦時中空襲以上に名古屋の大地震で工場が被害を受け、工員が大勢圧死したこと。乗用車にターボエンジンが採用されるようになった時、詳しい仕様を書いた記事を見て、頭では分かった積りでいたけれどこういう構造なのか、とうなずいていた。日本は戦時中航空機のターボエンジンの開発が間に合わなかったからね。
陸軍の戦闘機は優秀だ。戦後解体された中島飛行機がメインで、一式戦、隼。二式双戦、屠龍。二式戦、鐘馗。三式戦、飛燕。四式戦、疾風(ハヤテ)。五式戦と次々に新鋭機を戦場に送り出し、ニューギニア、フィリピン、ビルマ、本土等の戦場でグラマンと互角に戦っている。ちなみに零式(レイシキ)とは、戦前に使っていた皇国史観に基づく暦で、皇紀2,600年(西暦1940年、昭和15年)に制式採用されたので零式という。2,601年採用なら一式、逆に2,597年採用なら97式。例えば97艦攻とは97式艦上攻撃機のこと。2,602年には巨大で優秀な川西製作所製の二式大艇が就航している。一度お台場の船の科学館で見たことがある。(今は置いていない。)想像を超える巨大さだ。これに乗ってアメリアのカタリナ飛行艇と一騎打ちで撃ち合ったらと思うとワクワクする。
四式戦、疾風は優秀機でゼロ戦の撃墜王、板井三郎はテストパイロットとして乗り比べ,紫電改よりも疾風を海軍で採用するように具申している。五式戦には名称はない。言うなれば〝飛燕改〟である。日本では珍しい液冷エンジンを搭載した飛燕はエンジントラブルに悩まされ、またダイムラーベンツのライセンス契約で製造した液冷エンジンの製造も滞り、フィリピン等一部の戦場では活躍を見せたものの、整備士泣かせの機体であった。川崎航空機の工場にはエンジン待ちの首無し飛燕が並んでいた。これに空冷エンジンを取り付けたところ、意外なほどの高性能を発揮した。五式戦(キ100)の登場は敗戦の1945年の2月からで、遅すぎた。もっと早く登場していてもおかしくはなかっただけに悔やまれる。実戦でB29、P51を撃墜している。日本軍最後の制式採用機である。
さて帝国海軍は、ゼロ戦を継ぐ優秀な戦闘機が欲しい。切実に欲しい。ドイツに派遣した潜水艦がシンガポールまで図面を運んだ、ロケット戦闘機、ME163のコピーを作りサイパン、テニアンから飛来するB29用のインターセプターとする計画も、終戦には間に合わなかった。邦名は〝秋水〟である。飛行機を1から設計したらどうしたって3~4年はかかる。そこで海軍が目をつけたのが、川西製作所製の水上戦闘機、強風である。水上戦闘機とはフロートをつけて水の上で離着陸する飛行機である。飛行場が無くても運用出来るが、ゲタばき(フロート付き)なので速力、運動性はどうしても落ちる。
開戦当初、連合軍の島を占領していち早く進出する目的で作られたが、強風は十数機製造されただけだった。三菱のゼロ戦を基本としてフロートをつけた零式水上戦闘機の性能が良かったのと、負け戦でそんな景気のよい戦場が無くなったためである。しかし強風は良い飛行機だ。フロートを外して車輪をつけたらどうだろう。海軍は川西に開発させ、強風を基に陸上戦闘機、紫電を作らせた。改造だけだから開発は早い。川西も初めての戦闘機に張り切った。
紫電/紫電改 : 出力 1,990CC 最高時速 644km/時 武装は20mm x 2, 13.7mm x 2、これは20mm x 2, 7.7mm X 2のゼロ戦よりも強力で、携行する弾丸数もずっと多い。燃料タンクと操縦席の防弾対応も成されている。
しかし紫電には問題が多かった。エンジンの不良が多い。車輪が長すぎるため、着陸時に折れる事故が続いた。視界が悪く着陸が困難。そこで紫電を改良し、中翼(胴体の真ん中から翼が出ている。)から低翼(胴体の下部から翼が出ている。ゼロ戦他日本軍機はこれが多い。)へ変更した。そのため車輪が短くなり着陸の難易度も軽減された。紫電を改造したので紫電改、これであのスマートな機影が完成した。
紫電/紫電改の優れた点は、自動空戦フラップによる運動性、格闘能力の高さである。自動的に翼のフラップが働き、空中でブレーキが一時的にかかった状態になるので小回りが利く。これは当時日本だけが採用していた優れた装置だ。より小さな半径で回転出来れば、同時に回っても敵機の背後につける。戦闘機は後ろに回られたら、逃げるしかない。高速なのに運動性がよい。
真珠湾攻撃に参加、指揮をとった源田実大佐が敗色濃厚な昭和19年、南方で生き残ったベテランパイロットを集め、343飛行隊を結成した。出来上がったばかりの紫電/紫電改を使って猛特訓を始めた。度重なる出撃要請を退け、満を持して昭和20年3月19日、四国松山上空でアメリカ軍の空母艦載機延べ160機に、紫電/紫電改54機が上空より編隊で襲い掛かった。数では勝っていたが、米軍パイロットは突如現れたエキスパートパイロットの乗る新鋭機に次々に打ち落とされ、悲鳴をあげて逃げ回った。帝国海軍快心の迎撃戦であった。と言いたいところだが、事実はそうではなかったようだ。
日本側の戦果は撃墜59機(対空砲火による撃墜を含む。)、米側は撃墜50機と報告している。しかし実際の戦果は、日本側の損失が15機(敵機に体当たりした偵察機、彩雲を含む。)、米側の損失は14機(対空砲火によるもの、母艦まで帰還したが損害がひどいため海洋投棄した機を含む。)であった。また343空のベテランパイロットの割合は意外と低くて、大半は実戦を未経験な訓練兵だったようだ。ともあれ米側が警戒を強めたのは事実である。343空はその後も終戦まで迎撃を続け、また沖縄戦では特攻機の露払い、制空に努めた。瀬戸内海に沈んだ紫電改が1978年に引き上げられている。終戦となり、接収するために武装を外した紫電改にハイオクのガソリンを積んで、松山から調布へ飛ばしたところ、エスコートするグラマンF6Fをぶっちぎったと言う。
まともな燃料が十分にあれば、もっと性能を出せたに違いない。
他に九州飛行機で開発したB29迎撃用の戦闘機〝震電〟は、プロペラが操縦席の後ろにある実にユニークな形状であった。最高速:740km/時(カタログ値) 上昇限度:高度12,000m 武装:30mm 機関砲 x 4門。 終戦時、試運転まで終わっていて実戦投入まで後一歩のところであった。これは素晴らしい高性能機だ。この震電は運動性など全く無視している。高空まで駆け上がり、空の要塞B29を撃ち落すことだけを目的として作られた。この速度では敵戦闘機はついて来られない。こんな独創的な飛行機が、超ローカルな九州飛行機で短期間に作られたのはすごい。震電の機種に据えられた30mm機関砲4門が、実戦で火を吹いていたら米軍は一時的にパニックに陥ったことだろう。不謹慎だが一度飛ばせてみたかった。
さて現代、自衛隊の次期戦闘機が国産されると言う。名前は〝心神〟。ゼロ戦、紫電改以来の国産戦闘機だが、名前はどうかな。改造したら心神改になるんか