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元祖・東京きっぷる堂 (gooブログ版)

あっしは、kippleってぇケチな野郎っす! 基本、自作小説と、Twitterまとめ投稿っす!

アンケート調査員出血ブルース 1

2021-05-25 08:03:11 | 夢洪水(散文・詩・等)

アンケート調査員出血ブルース
1

 どす黒い雲が覆う黄昏の片隅で「あなた」は空気の淀んだ駅ビルの雑踏を彷徨う。獲物をさがして。唇をキツとむすんで。遠くで微かな雷鳴が響く。今日は、今日こそは、上玉の獲物にぶちあたる、と微かな望みを託して。

 ここのところ2週間ばかし、これといった誘いを受けていない。「あなた」は自ら誘いをかけることができない。ひたすら、誰かの誘いを待ち続けるのだ。いかにおいしそうな人間がいてもジッと誘いを待ち続けるしかないのだ。

 「あなた」は待ち続ける。ただ偶然の悪戯が気紛れに導いてくれるのを。

 遠雷が鳴る今夕、「あなた」はやっと男に声をかけられる。「あなた」はそれでも自分から進んで返事を返す事はできない。相手がある程度踏み込んでくるのを待つ。

「すみません。あのー、私はアンケート調査をしている者ですが。ちょっとの時間をいただけませんか。ちょっとでいいんです。20代の独身男性の意識調査をしています。お手間はとらせません。あなたが現代の情勢に対して何を思っているか、それを教えていただきたいのです」

 「あなた」は、その男と逆行して歩きながら、少し希望を持たせる様な顔つきをする。しかし、「あなた」は一言もしゃべらない。「あなた」は仄かな笑みを浮かべて男のおしゃべりに耳を傾ける。足は機械的に調子を崩さずに進み続ける。

「5分でいいんです。是非とも協力をお願いします。私たちは貴方の率直な意見を知りたいのです。・・・お願いします」

 男はいじらしいほど低身に訴えてくる。-知りたい、知りたい-と。そして遠雷が静かに響く。大気は鉛色にそまり、すえた臭気を漂わせている。

 「あなた」は、そこで初めて口を開く。

「どういうアンケートですか?」

 男の顔に春の花々のような初々しい喜びの表情がひろがる。しめしめ、といった目つきが処女の血がシーツに拡散するように辺り-夕闇の印象画パレットの一面-に広がる。

 「あなた」は舌なめずりをする。久しぶりに、おいしそうな獲物だ。若くて健康で人生の本当の恐怖には浸食されていない。うまく、やらなくちゃ。うまく。いつものように。

「私たちは20代の若者が現代社会において、宗教、政治、経済、文化に対して自分というものを、いかなる位置づけで見ているか、という事に関心を抱いているのです。ですから、アンケートというのは「あなた」自身の現代社会における位置づけというものを、どういう風にとらえているかというものなんです」

 「あなた」は微かに薄ら笑いを浮かべる。ゲンダイシャカイに対する位置付け?どうせ新興宗教の勧誘かキャッチセールスだ。

「ふーん」

 と「あなた」は答え、その獲物を誘い込む言葉を初めて口にする。

「僕は道端で話すのが好きじゃないんだ。君の言ってる問題には少し興味がありますよ。できたら、ちょっと別の場所でアンケートに答えたいんだけど」

 思った通り、この変態の跳梁跋扈している世の中に漠然と不安を覚えたのか、そのアンケート調査員は少し引き腰になる。向こうの方が、どこかに引き込みたいんだからな。

 そこで「あなた」は狩り人の面目躍如。こうなったら、相手に有無を言わせない。

「すぐそこに、僕の行きつけの喫茶店があるんだ。少し変わった店でね。僕はオーナーと知り合いだから金はいらないよ。もちろん、僕の連れもだ」

 相手の男は一瞬、その妙な理屈に首を捻る。目に微かな警戒の色が浮かぶ。

 「あなた」は間をおかず、強烈な呪縛力のある眼光でアンケート調査員を捕らえる。「あなた」の目は相手の視界に巨大な灰色の網となって君臨し始める。アンケート調査員は、膝頭をガタガタ震わせ、まるでスッポリと骨だけを抜き出されたように身体の支柱を失い義務(またはマインド・コントロールによる指令とケチな利欲)だけを果たそうと弱々しくつぶやくのだ。

「ほんの少しの時間でいいんです。「あなた」の社会意識を参考にさせて下さい」

「あなた」と調査員は家路につく人々の雑然とした流れの中でお互いの目をじっと見つめ合っている。いまにも舌をからめあわせそうに。いまにもお互いをまさぐり始めそうに。 背後では灰色の雲が舐めるように全天をおおい、死んだ牛の腐った内臓から洩れるガスのように生暖かい風がビルの間を吹き渡り、首を切り取られた幼児の血飛沫のような色が、この郊外の小都市にたちこめている。

 「あなた」は、おもむろにアンケート調査員の二の腕をグッとつかみ、人波から抜ける。男は呆然と「あなた」を見つめたまま何もあらがわずに、そのビル群裏の細い道に導かれてゆく。彼の目の前には依然として「あなた」の灰色の巨大な瞳が貪欲な、しかし魅力的な底無しの蟻地獄のようにグルグルと渦巻いている。

 アンケート調査員の意識は、すでに、ひとつの思考の環の中に釘付けにされている。

・・・この人には是非、入会して貰おう、そしてぜひともビデオ講座に参加してもらおう・・・

 彼は、自分がむしのいい金儲けに血眼になっていることを忘れている。美しいうたい文句だけが彼の心に響いている。

・・・このビデオ講座は「あなた」の人生を塗り替えます。生きる価値を、生きる本当の目的を聖書や偉人の教えの中から見つけだせるのです。お布施を、お布施を・・・

 「あなた」は男が呆気にとられる程、すぐに立ち止まる。そして、その細い道に入ってから10歩程度の距離が実は今さっきいた虚ろな雑踏の世界から、恐ろしいほど隔絶されてしまった母胎世界をつなぐ分娩道なのだ。アンケート調査員はすぐ近くに無表情な馴染み深い雑踏世界があるのを横目で見て漠然とした自信が湧いてくるのを感じていた。「あなた」の目の呪縛の隅で餌を見付けた狐のように微かにニヤリとする。

 思考に余裕ができ、「あなた」の弱みをジワジワと突いてゆきなんとか・・・アンケートとは隠れ蓑の・・ビデオモニター会員の取得・・宗教ビジネス・・を成功させようと様々な攻撃方法を考え始めている。

 「あなた」は、右腕で大きく弧を描きながら目前の随所に抉られたような裂け目のある黒ずんだ4階立ての墓石みたいな、そのビルを人差し指でなぞるように上から下までたどり、最後に自分の真下を指し示して言う。

「ここだ」

 男は「あなた」の指の動きにつられて顔の向きを180度、上から下へと変え、自分の肛門を覗き込む様な体勢になってしまう。

「地下だよ」

 と「あなた」は言い、男の腕を離し、スタスタと墓石ビルの地下へと続く、髑髏の口のように開いた地下の闇に向かって、先の見えない階段を降りていく。男がついてくるのを微かな不安と供に確信して。

 男は、あまりにもすんなりとついてくる。「あなた」は、ひょっとしたら、このアンケート調査員は何か別のことを期待しているのではないかと思う。自分の若くて健康で桜色のつやつやした肉体を「あなた」の抱擁の中に呈示したいと。動機はどうであれ「あなた」は、すでに男を手中におさめている。

 アンケート調査員は、その地下の店が階段を降りるにつれ闇の中からにじむように浮き上がってくるのを見て、何となく逃げ出したくなってくる。その時、彼はやっと自分の奇妙な失態に気付く。・・・何故、俺はいつものように、この男が行きつけの店で話を聞くと言った時にビデオセンターの歓談ホールに誘わなかったのだろう。そこなら仲間がいて心強いし、この男の勧誘ももっとスムースにゆくだろうに。しかし、ここまできたら、もう遅い。俺は、ここで何とかしなければならない。・・・ 彼は得体の知れない吸引力に引きづられながら、この次からは気をつけようと思っている。この次からは・・・

 階段を降りきって、その店の前に立ってみると、アンケート調査員はそのシンプルで無駄のない入り口のデザインに感心し安堵感さえ覚えている自分に気付く。赤と黒。他の色はいっさい使われていない。壁全体がビロードのようになめらかな黒光りをしていて、その中心に真っ赤なシャッターを半分引き下げたままの断頭機のような入り口がポッカリと開いている。奥は薄暗いが、レジ台やテーブル群がぼうっと霞むように見える。真っ赤なシャッターには店の名前が黒いネオン管で”SHOP OF THE DARKNESS”と綴られている。

 「あなた」は店を背後に、ゆっくりと口を耳元まで広げて何やら腹ぺこの餓鬼が肉片を前にしたように笑う。アンケート調査員の目には、その姿は、翼を広げたプテラノドンのように映っている。・・・こいつは俺を喰おうとしている・・・と、彼は思ったが、次の瞬間には「あなた」に再び二の腕を捕まれ、否応なしに店の中に引きずり込まれていた。

 レジの前を抜け、(レジの女は赤い陶器のような仮面を付けていて分厚いパックをしているように見えた)巨大な熊手のような仕切りをぬけて奥のテーブル席のひとつに向かって一直線にたどりつく。まわりの席の客の姿がちらりと見える。やはり、誰もが赤い陶器のような仮面を付けている。

 「あなた」はアンケート調査員の若い男を自分の前に座らせ、こみ上げてくる勝利の快感に恍惚となっている。例の耳まで裂けた笑みはますます凄みを帯びてくる。まるで竜のようだ。「あなた」は肩を落とし目玉ばかりをしきりにギョロギョロさせている若い男を隅から隅まで凝視し落ち着いたトーンで話し掛ける。

「まあ、落ち着いて。なにも君のカマを掘ろうってわけじゃないんだ。ちょっと変わった店でしょう。でも、どこの町にもなくてはならぬ店なんですよ。いわば人の居住の基盤となり、そして秩序と退落の均衡を保っている。さあ、それはさておき、君のアンケートに答えさせて貰いましょう」

 アンケート調査員はビクッと肩をひきつらせる。視界の隅で店の暗がりの奥に何か得体の知れない、おぞましい蠢きを感じている。

 しかし目の焦点は「あなた」に釘付けだ。いくら離そうと思っても眼球は言うことを聞かない。「あなた」は薄笑いを浮かべたまま彼が、その職業の勧誘プロローグとして右手に大事に抱えている薄緑色のアンケート用紙に記入するための陳腐な質問を繰り出すのを待っている。

 アンケート調査員は夕暮れの虫を振り払うように頭をゆすると「あなた」の視線の呪縛から意識を左手に集中させ、勇気を振り起こす。彼は左手を机の下で密やかに動かし、ポケットのマイクロ送信機のスイッチを入れる。

 「あなた」はアンケート調査員の様子に微妙な変化を感じる。彼の目は「あなた」に釘付けになっているが、どうもその裏に怪しい動きが見える。「あなた」は男が汗ばんだ右手に握ったままのアンケート用紙の束を、おもむろに掴み奪い取る。男は驚いて、目を見開く。「あなた」は奪い取ったアンケート用紙を調査員の顔の真ん前にかざして設問を読み上げながら黒テーブルに置いてある、赤い薄型のランプを近づける。

「あなたが、現在、最も関心があるのはなんでしょう。政治・経済・文化・人生・宗教・レジャー・結婚・スポーツ・仕事・恋愛・哲学・・・・・その他。あなたの今後の人生目標とは何ですか。あなたは現在の生活に満足していますか?」

 赤い磨りガラスのなかから立ち上る蛇の舌のような微かな炎はアンケート用紙に着火し、メラメラと海藻のように燃え立つ。「あなた」は調査員をじっと見つめながら言葉を続けた。調査員は浮き腰になっている。

「あなたが尊敬する人物はいますか。・・とね、・・・くだらん。お前のやってることはキャチセールスだろ。お前を、今の俺みたいにたらしこんで成功した奴がお前の上前の何パーセントかをはねて、そのまた上の奴が何パーセントかをはねるって具合だろ。お前はツリー状のネズミ算システムの最下端なんだ。お前は、今、その下を作ろうと躍起になってるんだ。この糞袋野郎!」

 図星だ。アンケート調査員は目を大きく見開き震え出す。立ち上がって逃げ出そうと思ったが膝がガタガタ鳴って力が入らない。ただ、ひたすら左手で送信機の出力レベルを上げながら思う・・・こいつだ、間違えない。康夫も公太もこいつに連れ込まれたんだ。間違いない。ど・どうする?俺は逃げなくちゃいけない。二の舞はごめんだ。


 アンケート調査員の外海旭は全身に力を入れ「あなた」の眼力を断ち切って何とか逃げの体勢に移ろうとする。外海は送信機をポケットから取り出し両面テープの外側を剥がすとテーブルの下に貼り付ける。そして全身に思いきり力を入れて、例の断頭機のようなシャッター目指してダッシュする。少なくともダッシュしたつもりだ。

 「あなた」は静かに、気持ち良く、くつろいで、彼が背後にいつのまにか忍び寄っていた二人の赤い仮面のウエイトレスにおえられるのを見ている。彼女たちはまず、彼の両腕を万力のような握力でテーブルの上に固定し、椅子を蹴り倒し、浮いた彼の身体をコンプレッサーで鉄屑を押しつぶすようにぐしゃりと床に押し付ける。外海旭はガス漏れのような微かな悲鳴を上げる。そして、すぐにその悲鳴は絶叫に変わる。二人のウエイトレスが外海の両手に二またに分かれたネジ状のアイスピックを振り下ろし、テーブルに固定したのだ。さらにウエイトレスたちはテーブルの下に突き出たアイスピックの先端をナットで止める。外海はイスラム教徒がアラーの神に祈る途中で両腕を水平に突き出したまま中断したような姿勢になっている。彼はウエイトレスたちに身体を固定されたまま両腕を引いた。しかし、その途端に激痛が両手から波紋のように襲ってくる。血がジワジワとピックに突き刺された両手の甲から滲み出してくるのがわかる。苦痛が彼の頭を鮮明にし、降るように恐怖がやってくる。そこいらじゅうの物体が超立体化して意識のひだの中に侵入してくるのを感じる。頭の中に椅子やテーブルや壁や人々があふれてゆく。外海は、うつろに自分の固定された両手を見る。彼は雪の降った日に白い地表から突き出した電信柱を思い浮かべている。

 その時、ガラガラと鎖をひきづる様な音が背後から聞こえてくる。閉じたのだ。あのギロチン・シャッターが今、出口を完全に閉ざしたのだ。外海は暗い穴に落ちてゆく自分を感じる。呆然として、真っ赤な血に染まっていく両手を見つめ、ウエイトレス二人が、アイスピックと手の接合点に血止めをしているのがわかってくる。これから何が始まるのか考える気力もなくなっていく。絶望。絶望という奔流が彼の意識下からドッドッと音をたてて押し寄せてくる。

 「あなた」は満足している。しかし今回の狩猟の中の、どこか心の隅の方で気になる事があったようだ。しかし、今は、唯、微笑みを浮かべて、アンケート調査員の最後を観賞していたい。


2へ続く・・・


kipple

赤い煙草と押入女

2021-05-24 07:38:54 | 夢洪水(散文・詩・等)
赤い煙草と押入女
(遙か彼方のラブピース/S.いずみ 外伝)


 寝転がっていた。汗が体中くまなく湧き出していた。真夏の太陽が大きな窓からにじんで見えた。

 日光は、全身をなめていた。外のブロック塀に黒猫が、汚物みたいにへばりついて鳴いていた。

 上半身を起こした。きみどりのTシャツがベットリと肌にくっついていた。近くの工場のサイレンが正午を告げた。

 畳に散らばったガラクタをかきわけ、タバコを探した。昨夜、女が血で赤く塗ったタバコをガラクタの山から取りだして、しばらく指でもてあそんだ。

 女は、冷蔵庫の扉にもたれて氷をかんでいた。唇が、きれいに光っていた。

「ボリ・ボリ」「グヂュ」「ガヂュ」

 指で、いじくり、しわしわになった赤いタバコを、一息に呑み込んだ。喉が固くなった。肺が何やら濁ってゆくようだった。

 ジェット機の音が聞こえたと思ったら、右耳からだけなので、“あっ又、耳鳴りか”と思った。

 再び、左手で上体を支えながら湿った畳に横たわった。窓から又、真上でにじむ太陽が見えた。

「背徳って、おいしい?」

 女は、蝉のように声を出した。切れ長で瞳が灰色がかった目が、白黒のTV画面みたいだった。

「あたしが、たらした血に染まりチェリーは、いまや内蔵へ。愛するあなたの内蔵へ。これで純粋にあなたは自殺する。動機があって?」

 耳を強く畳に押しつけ、自分の鼓動を感じたかった。

「分からん。僕はリビドーが赤に固着しているのを知っている。小学生の時、朝礼で前に立ってた女の股間からケチャップのような血がしたたるのを見た。あれ以来どうしようもない。赤は僕を欲情させる。抑圧しようとすると赤いものをやたらに破壊したり喰いたくなった。昨夜、性交中に君の耳を喰いちぎったのも、赤い血を見てより強い快感を得たかったからだ。ぐふっ。ぐふっ。」

 肺臓が、飛び出しそうな咳をした。息苦しく背筋の真ん中を中心に全身にふるえが走った。

「だから、赤いタバコを食べたのね。満足?」

 この女は精神異常だ。自分の言葉なんて、雑誌からの無関連なコラージュなんだ。

 僕?僕も狂ってるさ。確かにね。これで女が言い当てた通り純粋な自殺とは、いかなくなった。他殺だ。

 赤に対する執着が、僕の中に静かな異常を作り出した。犯人は例の初潮だ。

「ねぇ満足?」「ねぇ、あなたぁ。君ぃ。僕ぅ。」

 女は僕に、ずりよってきて、おぞましくも汗だくの下半身をへその上に乗せた。女は僕に顔を近づけて、キスして、呼吸があるのを確かめた。

 女は軽薄で、冷酷で、損得でしか、ものを考えない。最後に僕の思考中枢を、この想念が走り抜けた。

 僕は大きく女を乗せたまま、跳ね上がった。

 そして体を反転させ、灰皿とコーヒーカップとサインペンの上に落ち、プロペラの回転の如く、手足を振り回し、全てを散らけた。肌は、露出面、全てがまんべんなく血まみれのように感じた。

 女は冷蔵庫の後ろの小さな台所に退散し、上目遣づかいで、おびえていた。女は小さく、両足を、ぴったりとかかえこんでムンクの絵みたいに隅っこに座っていた。

 6畳の狭い空気の中、様々な品物が、ほこりと供に踊った。

 黒い帽子。ジョン・レノンにチャールズ・マンソンを張り付けたイマジンのジャケット。仏のおきもの。グラスの破片。灰。女が16の時書いた、いい(僕はとっても気に入ってた)詩集。サリンジャーの本。とても新鮮な光景だった。

 引き裂かれ焼かれ、爆発しそうだった。僕の顔なんて想像するの・・イヤです。

 苦しみが遠のくと、あたりは暗くなり、何の物音もしなくなった。

 遠くに美しい光が見えるので、僕は生まれてはじめて素直に歩き始めた。何という感激だろう。

 感激の涙は、胸から腹へ、ついにつま先へも達し、強烈な光は僕の中へ、僕は光の中へ入った。僕は死んだ。


 ほこりは、なかなか消えなかった。女は静かになって血を吐き続けている男の方へ、おそるおそる近づいた。

 女の通ったあと、ほこりに女型の穴があいたので、窓から他のほこりも、いっせいに逃げ出した。

 女は、空き缶を男の睾丸に叩きつけてみた。女は、男が動かないままなのを見て、

“よくなった、少しは”

 と、小さく言って、男をまたぎ越し、窓わくに頬杖をつき、直射日光を浴びた。

 ふと町を見下ろすと(ここは3階のお部屋です)やけに黒いシャツを着た人が多かった。

 すぐ下で、熱気があった。見るとアパートの入り口から扇形に、数百人の群衆が、つめより合い、口々に何かを叫んでいた。

 女の数は全体の1/3程で、最前部(つまりアパートの入り口)で口を固く結んでいるのは男で、リーダーらしいナルシスムを発散させていた。

 入り口周辺の群衆は、ほとんどが黒シャツを着ていた。太陽が、にじんで見えたのは彼らの体の放つ蒸気(炭酸ガス?)のせいらしい。

 彼らの叫んでいる言葉は、交錯し合って、よく聞き取れなかったが、意味はつかめた。

 簡略化すると、こういうことだった。

-彼らは、この立可町の造船、出版、文化事業、貿易、を営み時には独立国家樹立のQ革命を趣味的理想としてかかげる、営利団体「立可命林会隊」の隊員たちで、又彼らは「理性と欲動の不平等視」に反旗を掲げ、唯一神であるQの超自然力によるメタモルフォセスを信じて疑わない、いわゆる「黒シャツ教」という団体でもあり、死んでしまったナオト(すなわち僕)の最も嫌悪する黒を、そのシンボルとして着用している。

-彼らは、この立可町のヘゲモニーを握っており、いわゆる「赤シャツ派」(この土地の立可山の中腹の細長い広場に古くから背徳神をまつる真っ赤な鳥居をかまえた流れ造りの破空神社を「理性と欲動の平等」に対する拒絶のシンボルとして、ナオトや他の志士たちにより結成された反「黒シャツ」の地下組織と言っていい)は、いまや黒シャツの懐柔作戦によって、ちりじりばらばら、壊滅状態にある。

 ナオトの黒シャツへの異常なる激しい敵意は、おそらく、例の赤の固着から、やってきたのだろう。

 でも、ナオトは死んだ。


 女の年は18だった。女は、この町で育ったわけではない。女は都市で育った。

 女は、7才の誕生日から11才の誕生日まで、家の押し入れで大部分の時間を過ごした。

 教師や医者やらは「自閉症」と断定し、なんとかカウンセリングや治療を行おうとした。

 彼らは女を、押し入れから必死に外へ引き出そうとした。そのため女は、35回自殺未遂をやらかし、彼らの一般社会の倫理・常識の意志の力を、次第に弱めた。

 女は彼らに干渉を受けるたび、「争いは嫌いだ」と言って自分の肉体をカッターナイフっで切りつけた。

 女の母親は、女を産むと、すぐに事故死し、女は6才まで父親による特別な教育を受けた。(その教育の事は本編を参照)

 父親は、女が小学校に入るとすぐに押し入れに入った事を大変喜んだ。父親は死ぬまで徹底して女の行為を応援した。

 当然、世間の非難は父親に集中し、そのために父親は失語症になった。父親は民生委員たちなんかがやって来ると、常に無言で押し入れの前で、両手をひろげて立ちふさがった。

 女の11才の誕生日、押し入れの外で大勢の人間の歩き回る音がした。父親が押し入れの戸にへばりついて守ってくれているのが分かった。

 父親を罵倒する声が、いっぱい、いっぱい、飛び回っていた。中には校長先生や民政委員会の人や何とか保護協会、何とか調査団の人達もいるみたいだった。

 その日は彼ら、強硬手段に出たらしい。父親が、大きくうめく声がして、部屋中で様々な音が聞こえた。

 ひときわ騒ぎが大きくなった時、小さな爆発音が起こった。あたりが、奇妙に静まり返った。

 女は空気に事故のただよいを、押し入れの中から察知し、そっと戸を開け、外をうかがった。人々が林のようにTVの回りを取り囲んでいた。

 父親はブラウン管に首から上をすっぽりと埋め、ひくひく震えていた。

 女は、騒ぎの中、そっと猫のように人垣をくぐり抜け、明るい陽光の下に出た。誰も女に気づかなかった。やわらかい初夏の風が町じゅうを走り抜けていた。

 女は機械のような顔をして、仮面のような顔をした大勢の人の群れの中を駅に向かって歩いた。

 父親が血の沼の中で息絶えて、最後のケイレンをした頃、民生委員のおばさんが、女が押し入れにいない事に気づいた。

 彼らは、動転していたが、女のクラスの委員長である良治君は冷静だった。彼は、唯一人、女を探しに町に飛び出して行った。

 女は駅前の古本屋で日本道路地図を見つけた時、良治君に発見されてしまった。

「どうして、こんなもの見てるんだ?」

 良治君はきいた。

「もう終わったの。終わりは、しばらく続くの。でも次の時の用意をするのよ。」

 良治君は意味がわからないので無視して、後からやってきた先生や委員会の人の手に女を預けた。

 女の4年間住んだ押し入れの中には、宗教書と哲学書と文学小説と歴史書やらが、ぎっしりと積まれていて、壁には、みっちりと鳥の絵が描かれていた。

 大人たちは女に何してたの?と聞いた。

「祈ってたのよ。」

 女は答えた。



 女がまだ「黒シャツ隊」の大きな蠢きを見つめていると、背後のドアを、ゆっくり開けて、リーダーらしい口を固くむすんだ男が入ってきた。

 女は振り向き、彼に向けて笑った。リーダーは、目を大きくしてナオトの死体と、度を越して汚らしい部屋の様子と女を、ニワトリみたいな動作で見まわした。

「その耳は、どうしたんだ?血まみれだ。」

 答えを待たず、リーダーはナオトの体にかぶさるようにして彼の生死を調べた。そして、ますます口を固く結んで彼は女を睨んだ。

 開いたドアには黒シャツの男たちが規則正しく並んで、こちらの様子を見ていた。光線のせいか、彼らの目は、いちように金色に光っていた。

「自殺か?そうだな?タバコを喰って窒息死したんだ。コミュニティーで最初の自殺だ。死ぬくらいなら、この土地を出ていけばいいのに。せっかく我々も、譲歩に来たのに。」


「ナオトの死は神経症のせいよ。町の主権争いのせいじゃないよ。彼が赤シャツなのも神経症のためよ。神社の保存のためなんかじゃないわ。」

 リーダーの眉が、ねじれた。安心の表示のようだった。

「他の赤シャツの奴らも、殆ど承諾した。もしくは出ていった。この町も正常な人間だけになる。理性と欲動が均衡である我々だけが残るからだ。君も入信すれば、鍛錬によって我々の仲間になることもできる。君は、どうするんだ。」

 女はジーパンを脱ぎ、自慰をはじめた。顔を愉悦に歪めて、切ない声を発した。欲動の優位をボディーランゲージで示したのだ。

「わかった。」

 リーダーは一言、言うと隊員たちと供に、きっちりと足並みをそろえて去って行った。


 自慰行為を終えた女が窓から見渡すと、人々がアパートの前で整列し、女が出てゆくのを待っていた。脅迫的だった。

 女はナオトのキャッシュカードと現金を、小さなリュックに入れて、優雅な動作でアパートを、黒シャツ隊の連中の見送る中を出て行った。

 その後で、黒シャツたちは、再びゾロゾロと、ナオトの死体の後始末にアパート内へ入っていった。彼らは、彼女や、赤シャツの思想に、最後の最大の敬意を示したようだった。


 女は薬屋で、耳の治療をして、4時05分の電車で、3ヶ月間滞在したこの町を離れた。

 電車はガラガラで、ゴミひとつ落ちていず、窓から涼しい風が吹き込んできた。そして、よく揺れた。


「私は次の終わりを未然に防がなければならない。本当の救済はこんな奴らじゃないわ。どこ?どこなの、そこは?どんな人?どんな人たちなの?」

 遠くに帆船をずらりと並べて海が眩しく光った。

 

 197X年:夏:女=S.いずみは探し、祈り続けていた。




kipple

音が来る ③④⑤

2021-05-23 06:56:30 | 夢洪水(散文・詩・等)

音が来る
③④⑤
 




♪♪♪

 その夜も帰宅してから3回「音」とSEXをした。

 毎日が過ぎてゆく。「音」と供に仕事をし、帰宅してSEXする。休みの日はものも喰わずに一日中SEXをした。次第に僕は「音」と二人だけでいてSEXする、このうえない快感が、たまらなくなり殆ど会社に行かなくなってしまった。

 毎日、僕の内部、特にペニスと睾丸、と外部で鳴り響く「音」と戯れた。

 あの上司の呼び出しを喰らってから一ヶ月後、僕は会社にまったく行かなくなった。毎日「音」とSEXをし会話をし戯れ続けた。「音」は相変わらず僕の良い友人であり恋人でもあった。そのうち会社から通告がきた。僕が電話に出ないからだ。「音」は電話の音を何故だか嫌うからだ。通告の内容は
「君は会社の業務において多大な損害を与えたため解雇せざるを得ない。しかし、もしまだ巻き返しをはかりたい気持ちがあれば必ず連絡して欲しい。当方にも考慮する気持ちがある。伝々・・・」

 という事だった。僕は迷わずに破り捨てた。

 しばらくして、また会社から郵便がきた。

「やむを得ず君を解雇する事になったので保険証を送ってほしい。必要ならば離職票を返送する」
 という事だ。僕は保険証を送り、しばらくして離職票が会社から郵送されてきた。ついに僕は会社を辞めてしまったのだ。12年間勤めてきた会社を。それでも良かった。僕は「音」と一緒にいる事が現在、一番幸福だったのだ。


 日々は流れてゆく。何ヶ月たっただろうか?僕は殆ど家にこもりっきりになり「音」と二人きりの生活を続けている。僕は幸福だった。本当に幸福だった。退職金も失業保険もまだまだある。ずっと、このままでいたいと思った。

 しかし、何がきっかけになったんだろう。僕は、何だか「音」がやけにいらだたしくなってきた。たぶん「音」が僕に退屈してきたんだと思う。

 日々が流れてゆくにつれて僕の「音」に対するいらだたしさは、つのっていった。

 「音」の方もそれを察知したのだろう。前のように僕の言うことを従順にきいてくれなくなった。次第に反抗的になっていった。僕は「音」を無視しがちになっていった。いかに「音」が「シュキィィンシュキィィィィィン」と僕を誘っても何だかとてもイラだたしくなり、それを黙殺して読書したりTVを見続けたりした。

 時が過ぎ去るにつれて僕と「音」は敵対意識を持つようになった。金も無くなってきて僕は、それを「音」のせいにして、ますますイライラした。しかし僕と「音」はずっと家に閉じこもり一週間に一度くらいしか外出しなくなっていた。

 半年くらいたって「音」は僕の身体の中に完全に閉じこもり、けっして外部には出ようとしなくなった。僕の不快感はつのるばかりだった。一日中イライラして「音」を相手にせずウイスキーを飲み続けた。

 「音」の方は僕の身体の中から、けっして離れようとはせず「ガシャガシャ、グチャグチャ」と僕の神経を逆立てるような不快な音を発した。僕は全く眠れなくなり、睡眠薬をうんざりするほど飲まねばならなくなった。

 僕は薬と「音」のせいで無気力になり毎日を薄ボンヤリと死人のように過ごすようになっていった。「音」は、決して僕から、僕の体内から離れようとはせず、何だか命令調の音を発するようになった。

 僕は、ある日ジッと鏡で自分の顔を見た。ゾッとした。ばさばさと髪が伸び、髭が斑に顔を覆っていた。そして別人のように痩せこけて、まるで悪鬼にとりつかれた癌患者のようだった。僕は茫然自失状態が続き、もう「音」に逆らう気力も殆ど失せていた。

 「音」は、そんな状態の僕を自分のしたい放題に扱った。一日中SEXしたり(もうこれは強姦だった)、一週間ぶっ続けでTVを見させたり。

 僕は次第に「音」にばれないように死ねる方法を考えるようになっていった。冬の真っ只中だった。

 「音」は自分以外のものが出す音が嫌いらしく、僕が必死の気力を振り絞って外出しようとすると、僕の頭の中で黒板を爪先でひっかきまわす音をたてて暴れまくり、そのうちTVも見させてくれなくなり、音楽も絶対聞かせてくれなくなった。

 「音」は僕に、そうっと歩いて動く事を強要するようになった。僕が音をたてる事さえ嫌がるのだ。僕の精力は「音」に、ほぼ完全にむさぼり尽くされた。僕は万に一つぐらいしか自分の意志を通す事が出来なくなった。

 今は、すでに例の恍惚たる「音」とのSEXでさえ苦痛でしかなかった。

 「音」は僕に必要最低限の生活のための外出しか許してくれない。電話やベルには、いっさい出させてくれない。光熱費や電話料はすべて銀行の口座振替になっているので昼間は月に一度くらいコンビニエンス・ストアに僕の食料調達に、こそこそと這うように買い物に行く。

 僕は植物人間のように毎日を「音」の命じるまま、意志を奪われ、薬づけで過ごしていった。

 そのうち春がきたと思う。暖かさを微妙に感じるのだ。金もほとんど無くなってきてしまった。

 僕はこうして「音」に飼われてSEXのおもちゃにされて死んでゆくのだろうと思った。時間の観念も無くなってきた。ああ、会社を辞めてから、どの位たつのだろうか?


 その日も朝から「音」にSEXを強要されていた。いったい、その日がどの季節のどんな天気の日なのか考える気も、もう僕にはなかった。しかし、その日は思わぬ来訪者があったのだ。そして、この狂気に満ちた事態を抜け出せる一抹の光明を見いだす日となったのだ。

 曇りガラスからオレンジ色の光が射し込んでいたから、おそらく夕暮れ頃だろう。「音」は僕の身体中に染み込んで奈落の底へ落ちるような音を奏でながらペニスに音力で血液を充満させてSEXをしていた。いつもの様に。

 僕はボンヤリと曇りガラスの窓を、横たわって「音」に蹂躙されるまま見つめていた。さっと人影のようなものが横切ると同時に曇りガラスが内側にグンッと歪曲した。外から僕を呼ぶ声が聞こえる。聞いた事のある声だ。窓に、もう一撃が加えられた。メリメリと音をたててさらにガラスは内側に曲がった。また、一撃。ついに、窓ガラスは打ち破られたようだ。

 僕の部屋の内部に向けてガラスはバラの花のように裂けていた。隣家は、ひっそりとしていた。おそらく、その何者かは人気が無くなるのを待って決行に至った訳だろう。そして、ぼんやりとした人影が裂け口から、ゆっくりと僕の部屋の中に入ってきた。

 「音」は、まだ僕の性器で鳴っていた。僕は目を凝らしてその人影を見つめ、それが僕がかつて働いていた会社の唯一の友人とも言える同僚の岩倉であることがわかった。

 岩倉は僕を見付けると、すぐに僕のそばにやってきて用意してきたメモ用紙にさらさらと何やら書き始めた。無言のまま。「音」は岩倉に気が付くと僕の性器から抜け出して、するすると脳の方へ昇ってきた。「音」は僕の聴力を制御しブルブルと震えて様子をうかがっているようだった。

 まず、岩倉は次のような内容のメモを僕に渡した。

*「音」が聞くとまずいと思うので、こうしてメモで会話をする事にする。僕は会社で君と世間話をしている時に、君の回りや君の内部で妙な音が鳴り響いているのに気づいていた。それは、ごく一般的に我々が理解している音の成り立ちからはずいぶん形態を異なっているように思えた。そして、その音が君をまるで呪縛しているかのように、次第に思えてきたんだ。君が会社に来なくなりだしてからは、まるで君は、その音に隷属しているかのように思えた。君が会社に最後に姿を見せた日、あきらかに君は音に支配されていた。君の回りで「シュンシュン」と唸っている音を僕は聞いた。あれから、もう半年以上過ぎた。その間、僕は何回か君のマンションを訪れたんだぜ。いくらチャイムを押しても、いつも誰も出てこない。しかし明らかに誰かがいる気配がする。そして僕はいろいろ考えた。あの妙な音と君との関連についてね。何で僕がこんなにも誰も気にもしないような事にこだわるのか、君には分からないだろう。いいかい?コンピュータ・プログラマには変人が多いんだ。僕もそのひとりさ。僕は十代の頃から神秘学にとりつかれていて、実際コンピュータで魔法陣をプログラミングして悪魔を呼び出そうとした事もある。まあ、悪魔の代わりに不眠症がやってきたけどね。僕の神秘学の蔵書はそれは凄いんだ。君の事が気になってから音に関する事をいろいろ調べてみた。それが古代から現代に至るまで実にたくさん音に対する神秘学的礼賛があるんだよ。古代の密教・邪教・悪魔礼賛、あらゆるものに究極宇宙のナビゲーターとしての大いなる音の存在が記されているんだ。最近では、インドのマントラ以前の音に関する古文書が死海で見つかっているんだ。BC1750年位のものだ。言語学者が翻訳したところによると、それは空から落ちてきた大いなる存在=音が人間の生と死の架け橋となるというものだ。まあ、神秘学は置いておいて、君の抱えている音についてだ。僕は考え、そして言い知れぬ興味を覚えた。教えてくれ。僕の想像が当たっているか。果たして君は本当に音に支配され、現在のような状況に陥っているのか?**********

 僕は岩倉のメモを何度も読んだ。「音」は僕の聴覚を押さえながら、あちこちに触手をのばして小さく鳴っていた。気づいていないようだ。僕は次第に必死になってきた。チャンスなんだ。僕が「音」から何とか逃げだせるかもしれない唯一のチャンスなんだ。僕は「音」が僕の視力や思考中枢に侵入して来ないうちにすばやく岩倉のメモ用紙に今の状況を書きなぐった。

*君の言うとおりだ。音は意識を持っている。僕の身体中で蠢いているんだ。僕は完全に「音」に支配されている。このままでは精気をすべて抜かれて死んでゆくだろう。救けてくれ!救けてくれ!***************

 岩倉は、それを読んで「ふーむ」と唸った。そして再びメモを書いて僕に渡した。

*その音は生物だな。やはり存在したんだ。神秘学の伝承は間違っていない。これは言わば、きつねつきみたいなもんだ。君の身体から音を追い出すしかない。さて、その追い出し方だが。生物には必ず弱点がある**************

 そこまで書いて岩倉はしばらく腕組みをして考え込んだ。そして、また書いてメモを僕に手渡した。「音」も、そろそろ僕の思考中枢に侵入してくる気配を見せていた。しかしまだ僕の聴覚にとりつき、身体のあちこちで「カラコロ」鳴って遊んでいるようだった。

*音という物は、まあ可聴周波数における音というものは、たとえば空気なんかの媒質が無ければ弾性波動としては生じないんだ。だから、その君の抱え込んだ音が君の外部に出た時に何らかの遮蔽物でおおって閉じ込めてしまえばいいんだよ。まあ、その音、君の音そのものが発音体だけどね。生物だからね。閉じ込めるんだ************

 僕はメモを食い入るように読み、そして書いた。

*何らかって?一体、何で閉じ込めれば良い?****************

 岩倉は少しの間、頭を捻った。そして、再びメモを僕に渡した。そろそろ「音」も、このやりとりに関心を抱いてきたようだった。僕はイライラして回答を待った。そして岩倉は、こう書いた。

*録音しちまうのさ。もし生きている音ならば、もし音そのものが発音体ならば磁気テープに貼り付いて出れなくなっちまうはずだろ。****************

 





♪♪♪

 「うーん」と僕は考えた。なんて単純な発想だろう。「音」の奴は次第に僕の思考中枢に触手をのばして、岩倉と僕の間で、どんなコミュニケーションが行われているのかを探りにかかっている。僕は思わず口に出して

「早くしろ!「音」が感ずく!」
 と言った。

 岩倉は少し真剣な顔になり、急いでメモを書き上げて僕に手渡した。

*やってみろ!とりあえず、やってみろ!おそらく奴は生きたままはりつけにされた音になるさ。録音した際には、ぜひ俺に、その音を聞かせてくれよ!********

 岩倉は僕が頷くと、唇を直線的に伸ばして笑うと、ゆっくり静かに僕の部屋から、あのぶち壊したガラス窓を抜けて去って行った。おそらく身の危険を感じたのだろう。「音」がもう、察知したんじゃないかと思ったんだろう。

 ところが「音」は、気づいていなかった。「音」が僕の思考中枢にやってきて僕を通して岩倉のメモ書きを読みとる前に、僕は内容を記憶し岩倉は出ていってしまった。

 岩倉が去ると「音」は僕の思考中枢に到達する前に方向転換し下に降りてゆき、身体のあちこちでペニスを中心として鳴り響いた。

 僕は立ち上がり、「音」の作り出す性的快感を出来るだけ無視して、ごく淡々と動いた。僕はカセット・デッキのスゥイッチをONにしテープをセットし、録音レベルを最大限に上げオートリバースにして、マイクをスタンドに設置して、その前でじっと待ち続けた。「音」が外部に出て磁気テープの中に吸い込まれるのを待ち続けた。

 その後、数時間、「音」は再びペニスと睾丸で鳴り響き僕を蹂躙し続けた。

 次の日の夜に「音」は、やっと僕の身体の内部で快楽をむさぼるのに飽きてきたようだった。そして「音」は僕のペニスのさきから「チリチリチリ」と毛が焼け焦げるような音を出しながら外部に出た。

 「チリチリチリ」が外部に出た瞬間に「プシューッ」と言う音に変わった。そして、「プシューッ」はテープに録音された。

 そして岩倉の立てた計画は成功したようだった。「音」はマクセルのハイポジの磁気テープの中に閉じ込められた。僕の内部も外部もシーンとなった。聞こえるのは夜の音だけだった。

 風、車の走行音、虫の音。僕は身体がぐんぐん上昇してゆきキラキラ輝く青空の中に、全ての細胞が気体と化し染み込んでゆくような開放感に充たされた。そして睡眠薬1キログラム(ファルシオン)分位の睡魔がやってきた。

 僕は、デッキのスイッチを切ると、そのまま、まるまる二日間眠り込んだ。

 分厚い暗闇だ。何層も何層も無限に積み重なった無音の暗闇。その暗闇が無数の小さな球状の塊となって広がり始める。最初はゆるやかだが次第にスピードを増してきて、僕に向かっていっせいに迫ってくる。

 そして僕は目を醒ました。眠り込んだ時のままだ。窓の外は暗く、そして静かに夜の音が流れていた。

 「音」は、もういないのだ。「音」は、このテープの中に閉じ込められて、おとなしく不完全に死んでいる。

 僕は「音」を完全に死なせようと思う。どうしたら良いのか。消去。簡単だ。テープを焼いてしまえば良い。そう思って、ゆっくりと身体を起こした時、電話が鳴った。直感で分かった。岩倉だろう。

「何度も電話したんだぜ。受話器をとったって事は、つまり成功したって事だな」
 と岩倉は言った。

「「音」は消えたよ。ありがとう」
 と僕は言った。そして何となく最初の岩倉の口調から嫌な気分がしたんだが、案の定、神秘主義のコレクターである彼は、こうきりだした。

「車で、これから僕はそっちに行く。いいかい、その音のテープを大事にとっておけよ。絶対に焼いたり水につけたりなんかするんじゃないぞ。これは神秘学史上、実に貴重な獲物なんだぜ。これを証拠に様々な神秘学、又は宗教学的な謎が科学的に解明されるかもしれないんだぜ。お前を助けてやったのは俺だって事を忘れるなよ。待っていろ。すぐに行くからな」

 僕は考えた。焼き捨てるべきか、岩倉に彼の言う神秘学的研究材料として手渡すべきか。僕は思った。おそらく岩倉は、そんな学術的大儀のために、「音」を公開することなどせずに、自分一人だけのためのコレクションにするのではないかと。それなら彼の神秘学的コレクションが、ひとつ増えるだけの事だ。また公開したところで、それがどうなるってんだ?僕に危害がくわわらなきゃ、それは関係の無い事じゃないか?

 僕は、それ以上考えようとしたが長期間の心身疲労のためか、再びうつらうつらと眠りかけてしまった。

 はっと気づくとチャイムが鳴っていた。岩倉がやってきたのだ。僕は、よろよろと立ち上がり、ドアを開けてやった。

 もう空が青白くなっていた。時計を見ると午前5時だった。僕は、ふと思った。何かで読んだことがあるが、午前5時というのは人の精神が一番不安定になる時間帯だという。

 そう思ったのはドアからぬっと入ってきた岩倉の顔が、どうにも正常とは言い難い表情に見えたからだ。唇をグッと突き出し、鼻孔を脹らませ目玉をクリクリと視点の定まらぬふうに動かしている。

「顔色が良くなったな。良かった。テープは、どこだ?まだデッキの中か?」
 と言うや否や岩倉はテープ・デッキに向かって、さっさと歩いて行った。岩倉はテープを取り出し、ガチャガチャいじり回してから、呆然と立っている僕に言った。

「オートリバースで録音したんだよな。まさか、回し続けて、そのまま消去してしまったなんて事は無いだろうな」

「僕は「音」が身体から出て録音されると、すぐにテープの走行を停止させたよ。だから「音」はちゃんとテープの中に残っているはずだよ」
 と僕は答えた。そして、実に嫌な予感を覚えた。僕が話している間に、岩倉はカセットを再びセットして巻き戻したのだ。そして、

「確認する」
 と言った。

 僕が驚いて止めようとする間もなく、岩倉はデッキの再生スイッチを押した。

 ホワイト・ノイズがして、すぐに「プシューッ」と「音」がし、「音」は磁気テープの中から飛び出し、岩倉に襲いかかった。

 「音」は凄まじい金属音を出して岩倉の頭を直撃した。耳から口から鼻から目から毛穴から「音」は岩倉の頭の内部に潜り込み、地鳴りのような音を、どんどん大きくしていった。

 岩倉は悲鳴を上げた。しかし、その悲鳴さえも「音」の発する轟音に打ち消されてしぼんでいった。岩倉は口と目を大きく開き、両手で頭を鷲掴みにしたままドアに突進し、マンションの外へ転がり出ていった。僕には岩倉の頭の中で鳴り響く「音」の音しか聞こえなかったが、岩倉はあきらかに絶叫していた。

グギャァァァァァアアアアアアア~!

 僕は岩倉と「音」の後を追って、ふらふらと外に出ていった。朝日が、とても眩しかった。岩倉はマンションの階段を走り抜け、下の車道で絶叫しながら頭を抱え込んで震えているようだった。

 「音」は、ますます、その音量を上げていった。鼓膜が破れそうだった。回りの住宅や店舗の窓ガラスがぶるぶると震えていた。

 僕が耳を押さえながら階段を降り立つと、岩倉は歯を剥き出して耳と鼻から血を流し、両膝をついて車道の真ん中に崩れた。

 そして次の瞬間、僕は見て、聞いた。岩倉の頭が爆発したのだ。凄まじい轟音とともに。

グシュゥゥワァァン!

 血飛沫が辺り一面に飛び散り、「音」の波動で砕け散ったガラスの破片が降り注ぐ中で首から上の無い岩倉は、くねくねと自分の飛び散った頭を、かき集めようとするように蠢いていた。

 僕は何だか導かれるように、まだ動いている岩倉に近付いていった。すると、「音」が、もう無くなってしまった岩倉の頭のあたりで、まだ「ゴウゴウ」と小さく鳴り続けているのに気づいた。

 僕は、はっとした。逃げなければ。と思って後ずさりし、振り向きざまダッシュをしかけたと同時に、曲がってきた軽トラックに跳ね飛ばされた。僕の身体は高く放り出され、頭から岩倉の痙攣している胴体に落下していった。そして、意識が薄れていった。




♪♪♪

また暗闇だった。

あの幾層にも無限に続く、分厚く重い暗黒の中にいた。

次第に、また暗闇が無数の球状の塊となって僕に向かってきた。

意識が戻ってくるのが分かった。時間がたつに連れて、僕の意識は鮮明になっていった。

「音」だ。

「シュルシュルシュルシュル」と、あの「音」の奴が僕の頭の中で、また鳴っている。

僕は目を開けようとした。めいっぱいに見開いた。しかし何も見えない。

そして「音」の他には、いくら耳を澄ませても何も聞こえてこない。

僕は寝ている。ベッドの感触だ。クレゾールの匂いがする。

僕は病院にいて治療を受けているんだ。

手足が痺れている。かすかにだが動かす事ができる。

おそらく石膏で固められているのだろう。

「キュンキュングルッルルルゥゥゥ」と「音」が鳴っている。

せせら笑っていやがるな。

僕は聴力と視力を失い、全身を骨折した訳だ。

暗闇、暗闇。時間が過ぎていく。

「音」が僕をからかうように意識の中で鳴り続ける。

時折、誰かが僕に食事を与えてくれる。

口にチューブを突っ込まれ、よだれ受けを顎の下に置かれて僕は放置されている。

暗闇の中で「音」と僕だけの時間が過ぎてゆく。

「音」が鳴る。僕の意識の中で、あの「音」だけが笑うように鳴り続ける。

どの位の時間が過ぎたのだろう。

「音」は、別に岩倉のように僕を破壊しようともせずに静かに侮辱的に鳴り続けている。

次第に暗闇の中に小さな光が見えてきた。

ヨガで瞑想状態の初期段階に見えるビンドゥってやつに似ているみたいだ。

光は時間をかけてゆっくりと幾何学的な模様を描きながら僕の暗闇に広がってゆく。

「音」も、それに合わせるように光の模様に沿って「シャリシャリ」と鳴り続ける。

かなりの月日が過ぎ去ったように思える。

ついに光は僕の暗闇をほとんど、その幾何学的な模様で埋め尽くしていった。

実に気味が悪い模様だ。幾何学的な光が洪水のように僕に向かって大量に押し寄せてくる。

次第に全てが押し寄せる膨大な光に包まれ、暗闇は姿を消してしまうほどになった。

僕は、まるで浮遊しているような気分になっていった。

光は、ますます圧倒的なほどに凄みを帯びてきた。

「シュゥゥゥッキイイイイイィィィイイイン」

と「音」がした。

僕は思い出した。

これは僕のところへ「音」がやってきた時に見た夢だ。

この夢が始まりだったんだ。

穴が見えてきた。

膨大な光の中にポッカリと古い井戸のような穴が口を開けた。

そして僕は穴を覗き込んだ。

海。海だ。

僕は穴にどんどん近付いていった。

穴の中の海が白く光るさざ波をたてている。

さて、僕のする事といえば、もうひとつしか無かった。

その穴に身を投じるのだ。

僕は、ゆっくりと穴の中に入っていった。ゆっくりと。

また、「音」がした。

「シャッキイイイイイイイイイィィンン」

そこで僕は終わった。



 

kipple

音が来る ①②

2021-05-22 07:04:40 | 夢洪水(散文・詩・等)

音が来る
①②
 

シュキィィィィーン

 その音がやってきたのは僕が永年飼っていた猫がいなくなった細かい雨の降る静かな夜だった。

 僕は青白い月灯りの下でビニールの傘をさして長い間、猫を探した。路地から路地へと、他人の庭を、マンション中の階段を。

 猫は消えた。僕にはわかった。猫は二度と僕のもとへは帰ってこない。猫は時のひだの中へ、僕の記憶の奥底へ消えたのだ。

 午前二時まで僕は猫を探した。そして、あきらめた。僕の生活のパートナーは、もういなくなってしまったのだ。しかし僕は何となく次のパートナーの出現を予感していた。

 まさか、それが「音」だとは思いもしなかったが。まず、その「音」は僕の夢の中に侵入してきた。猫探しに疲れた僕は、その夜、薬も無しでグッスリ眠った。そして夢を見た。

 

***夢***

「シャキーィィィィンンンンンン」

 洪水のように押し寄せてくる光の向こうのどこかから、はっきりと音が聞こえた。あまりにも膨大な光量のために僕は自分が立っている場所を正確に見定める事ができなかった。それよりも、いったい僕は立っているのか、それとも寝そべっているのか、それさえも正確に捕らえる事ができなかった。

「シュゥゥゥッキイイイイイィィイイイイイイイン」

 再びパッサリとキャベツをまっぷたつにするような切れ味の良い音がした。僕は素直に音に向かって尋ねてみた。

「質問に答えてくれるかい?」

 この質問は相手にある種の動揺を与えたようだった。

 それが、どんな種類のどんな形の動揺だったかは、まったくわからない。
 とにかく相手は何かの狙いを外されてとまどいを見せた。それというのも圧倒的な光の中にポッカリと古い井戸のような穴が口を開けたのだ。穴は斜め右前に突如として姿をあらわした。

 それと同時に大量の光はドクンドクンと脈打った。僕は何となく自分の姿勢が分かってきた。僕はうつぶせになって光の床に寝そべった形で光に包まれていたのだ。たぶん。

 僕は穴をよく観察した。穴は、ちょうど僕が通り抜けるのに必要なだけの広さをもっていた。そして、よくわからないが、どうやら穴の向こうは海のようだった。穴いっぱいにさざ波をたてている海面の様な風景が見えるのだ。

 しかし、いったい海面は、その穴から、どの位の距離をもって隔てられているのか、僕にはまるきり分からなかった。穴に密着しているようにも見えるし、何百メートルも離れているような気もするのだ。

 そこで僕は時折、白く光るさざ波の大きさに注目してみる事にした。しかし、それも、あまり僕の観察に役立たなかった。穴いっぱいに現れるさざ波もあれば、目に見えぬ程小さなものもあるのだ。

 僕は幼い頃見たランプの灯りを思い出した。夕暮れから薄闇をへて夜に至るまで祖父の家の軒先に吊されたランプの灯りは小さくなったり大きくなったりした。子供の頃の僕には時の変遷と人間によって灯された「作られた光」に対する不定型な錯覚に異様な程の幻想性を感じさせられたのだ。

 さて、僕のする事といえば、もうひとつしか無かった。その穴に身を投じるのだ。

「シャッキイイイイイイイイイィィィンンンンンン」

 また、あの音がした。僕は、こう言ってオルフェが鏡に飛び込むように穴に入った。

「プラーグの大学生という映画を観た事があるか?」

 そこで夢は終わった。

 

***夢から抜ける***

 

 短い眠りだったと思う。寝たのが2時半頃で今5時半だから3時間程だ。今は初夏なので外はもう明るい。

 これから6時半までに食事と身支度をして2時間かけて僕は職場に通うのだ。僕は奇妙な夢から目覚めると、とにかく立ち上がりVTRデッキのスウィッチを入れてテープを再生し夢を思い出そうとした。テープはエリック・ロメールの「緑の光線」だ。

 僕はカーテンを開け、スエット・スーツのままインスタント・コーヒーにミルクをたっぷり入れてカフェオレを作り白い丸テーブルに座り、ぼんやりとキャメル・マイルドをくゆらせて夢のことを考えた。

 細部は思い出せないが確か光と変な音だけが印象に残っている。音によって光の中に導かれていくような夢だった。僕は6時半までにハムサンドとサラダを作って食べ、ぼんやりとした気分を引きずったまま出勤した。

 ドアーを閉めるときに何だか変な音がリビングの隅の方で鳴ったような気がしたが、僕の頭は今日の仕事に対する無気力さでいっぱいになっていて、そのままマンションを出た。

 通勤のラッシュで僕はゲロを吐きそうになり真っ青な顔をして会社についた。会社は何事も無く、いつもどおり機能していた。でも何かが違うような気がした。会社の方が違うんじゃなくて僕の方がだ。その違和感の原因は僕の方にあるのだ。僕は、まだ夢から完全に解き放たれていないんだ。残夢感が気になるんだ。


 思った通り仕事を始めても、いっこうに調子が出てこない。それどころか、どんどん、やる気が失せてゆく。昼過ぎには、なんだか疲れ果ててげっそりとしてしまった。それだからといって仕事が手加減してくれるわけじゃない。無情にも次から次へと仕様書が僕の机に積まれてゆく。朝から端末に向かっているわりには、まだ数ステップしか入力していない。細かいプログラムは山ほどあるのだ。コンパイルするまでにも至らない。たかが300ステップ程のプログラムがだ。

 午後の3時から今のプロジェクトの進行状況を報告するための会議があった。ガラスの衝立で仕切った狭苦しい密室に6人で詰め込まれ、延々と現時点での3日程の遅れに対する作業分担を話し合った。僕が一番遅れているので3人の余裕のある者が手伝ってくれる事になった。

 僕は何だか呆然と聞いていた。猫の事を考えていた。昨夜、消えてしまった猫だ。僕は彼女と5年間一緒だった。いったい、どこへ行ってしまったんだろう?おそらく、もう戻っては来るまい。そんな気がした。猫の前は犬だった。あの時も犬は、ある夜、突然消えてしまった。そして、すぐ、猫が僕のマンションのベランダにやってきたんだ。今夜あたり、また猫か犬がやってくるかもしれない。きっと、やってくる。もしやってこなかったら、子犬を飼おう。白くて小さいのがいいな。

「白木!どうしたんだ?今抱えているプログラムは半分、この御三方がやってくれるんだそうだぞ。残りの半分は、いったい、いつまでに出来るんだ?聞いているのか?」

 SEに、そう怒鳴られても、僕には、僕の能力というものがある。そして、やる気もあまり無い。僕は薄ぼんやりと目を開けて曖昧な返答をした。無能力者扱いには慣れているが他人に半分手伝ってもらう自分が情けない。それに半分手伝って貰っても残りだっていつになるやら見当もつかない。

 僕は暗い気分に落ち込んで、何気なく、同僚たちの後ろのガラスの仕切りを見回した。視線が一周した時、頭上から包丁で包丁を叩くような音が聞こえた。いや、聞こえたような気がしたのかもしれない。僕はハッと上を見上げたが他の連中は全く気づいていないようだったからだ。

 そして会議が終わり、皆が出ていった後、僕は一人で残って吸い殻を片付けながら部屋をまんべんなく見回し、耳を澄ませた。聞こえない。しかし、さっき鳴ったのは確かに、あの音だ。夢で聞いた、あの音だったような気がする。

 それから僕は、ずっと耳を澄ませ続けた。マンションに帰り着くまでに僕は少なくとも2度、あの音を聞いたような気がした。終業間際に同僚の岩倉と世間話をしている時に。それと帰りのラッシュで錐揉み状態になりながら吊り広告を眺めている時に。しかし、それは、はっきり、あの音だとは確信できなかった。そんな気がするだけだった。まさか、夢から音が僕を追ってくるなんて事があるだろうか。

 僕はプレッシャーにとても弱い。すぐに会社を辞めてしまいたくなる。今日の会議を思い起こすと、もう、たまらなく嫌になってくる。僕は会社から2時間かけて帰る。その間に何百回も会社を辞めようと考える。しかし、辞めたとしても行き場が無い。しかし辞めたい。何千回でも考える。辞めよう、辞めよう、と。

 猫は、やはり帰っていなかった。生きるものが僕だけしかいない、この空間に帰る。僕は背広を脱ぎ、ジャージに着替えて、スパゲッティを作って食べ、後片付けをして風呂に入った。そして、リビングのテーブルに座り、煙草を吸って虚空を虚ろな目で眺めた。

 ため息を3回ついてウイスキーをチビチビとやり始めた。両親が死んで、このマンションを相続し、一人きりで(いや今までは犬か猫がいたが)住み始めてからもう12年になった。僕ももう、34才になってしまった。これからだって、これまでの12年間のように大した事は起こらないだろう。

「シュゥゥゥゥキキイイイイイン」

 あそこだ。スピーカーの裏側だ。今度は、はっきりと聞こえたぞ。僕はウイスキーグラスを持ったままでリビングの角に置いてあるスピーカーに向かってダッシュした。スピーカーの裏側を覗いて見て何も無いのを確認した瞬間に、再び

「シャリュゥゥゥゥゥンンング」

 という音が風呂の方から聞こえてきた。僕はスピーカーの位置にウイスキーを持ったまま体を上半分風呂側の向きに捻ったまま立ちすくんでいた。すると次に、

「シャッキ、シャッキ、シュン、シュン」

 とリズムを刻みながら音は風呂の方から、再びリビングにやってきて

「ヒューゥゥルルルrゥゥゥゥゥゥン、ヒュールンルン」

 と天井を旋回し始めた。僕は思わず音を目で追ってしまうんだが、音に形があるわけがない。音は音だ。空気を振動させて伝わってくるものだ。それでも、天井を旋回し続ける音を、僕は目で追い続けた。

 僕のウイスキーを持った手は震えていた。僕は狂ったのだろう。孤独と何もない人生と意味の無い仕事のプレッシャーから、ついに幻聴が僕を襲い始めたという事だ。僕は、それはそれで仕方がない、と思い、再びテーブルについてウイスキーを飲み始めた。

 それから、しばらく天井を旋回したり僕の目の前にやってきたり足元をうろついてヒュンと窓の方に飛んでいったりする音を聞いて、音の後を追っていた。ジョニー・ウォーカーをロックで3杯飲み干した。しかし、これはいい酒のつまみだなんて思っているうちに、その音は何だか意志を有しているのではないかと思えてきた。

 音はリビングせましとばかり、ビュンビュン飛び回っている。僕は耳をふさぐ。音は聞こえない。耳を解放する。また音はビュンビュン飛び回っている。僕は狂ったわけじゃない。これは幻聴ではない。本当に鳴っているんだ。おまけに、この音の奴は意志を持っているみたいじゃないか。

 僕は試しに音にコンタクトをとってみる事にした。まず声をかけてみた。頃合いを見計らって。音が僕の顔の前にやってきた時。

「こんにちわ、いや、今晩わ」

 音は反応した。ヒュンヒュン鳴っていたのが、クシュンと紙を握り潰したような音をたてた。やはり、この音は意識を持っている。思わず僕は笑った。僕が笑うとやはり音も笑ったような鳴り方をした。

「グワッシュシュ、グワッシュシュ」

 僕は笑い続け、音も笑い続けた。失った猫の代わりに淋しい僕の元へ今度は「音」がやってきてくれたんだ。僕と音は仲良く一緒に笑い続けた。

 僕は34才で未だに独身だ。今までの僕の友人といえば犬と猫しかいなかった。そして今度は「音」がやってきた。今までとは違う。触ることも食事を与えることも出来ない。

 新しい僕の友人。「音」

 何かが僕の人生の何かが変わり始めるような気がする。

 





♪♪♪

 僕が拍手すると「音」も拍手の音を返す。僕が唇を「ブルルルルルー」と鳴らすと「音」も同じような音を出す。「音」が指をパチンと鳴らした音を出す。僕も指をパチンと鳴らしてそれに応える。そのようにして「音」と意志を通じ合えた最初の夜、僕は嬉々として「音」と戯れながら気持ちよく眠った。薬も飲まなかった。眠りに落ちる寸前に僕は「音」にこう質問した。

「いったい君は、どこからやってきたんだい?」

 「音」は、
「バビッシュ、ブルルルルゥゥゥゥ」

 と鳴って天井を突き抜けていった。天から、空の彼方からやってきた。「音」は地球的概念を超越した地球外の生命体なのだろうか。


 次の朝、目覚めると「音」は、すぐに僕の枕元にやってきた。

「グルルルゥゥゥ、グルルルゥゥゥ」

 と甘えるように鳴っている。

「おはよう」

 と僕が言うと「音」はそれに応えて「カンカンカンカン」鳴りながらベッドの周りを回った。僕は言葉、「音」は音で会話しながら、僕は朝食を済ませ身支度をして、ウキウキと満員電車に揺られながら会社に出掛けた。

 今日の僕は昨日とうって変わって明るい気持ちに充たされ、楽しく順調に仕事ができた。「音」と一緒にいるのは実に楽しかった。早く「音」の待っているマンションに帰りたかった。予定通りに仕事を終えて定時になると僕はすぐに帰った。2時間の満員電車の通勤も「音」の事を考えているとすぐに過ぎた。明日は休みだ。一日中、「音」と一緒に過ごせる。

 マンションに帰って玄関のドアーを開けると、すぐに「ギュゥゥゥゥゥン」と「音」が出迎えに来てくれた。

「ただいま」

「グルルン、ルン」と、「音」は鳴った。

 僕が廊下を通ってリビングに入り背広を脱ぐ間、「音」は僕の頭のまわりを旋回しながら「キュン、ポコ、キュンポコ」鳴っていた。

 僕はとても変わった友人を持っている。世界中で、おそらく僕だけが「音」という友人を持っているんだ。それは、とても楽しく優しい友人だ。

 僕は「音」との風変わりな会話を楽しみながら食事をし、風呂に入り、ウイスキーをチビチビやり、いろんな事を話し合い(何となく「音」の鳴り方で、その言わんとしている意味が僕には分かった)、一緒に寝た。「音」は僕のベッドの横で心地よい心臓の鼓動音のようなリズムを鳴らしてくれた。

 「音」は僕が家の中にいると、どこにでも楽しそうに、ついてきてくれた。そして僕の相手をしてくれる。僕は、かつて味わった事のなかった幸福感に満たされた。何だか未来が明るく開けて来たような気がした。

 しかし眠りに入る瞬間に奇妙な不安を感じた。だって、これは、どう考えたって尋常じゃない。生きている「音」なんて本当に存在するのだろうか。果たして、この「音」は他人には聞こえるのだろうか?「音」は眠るんだろうか?


 休日がやってきた。土曜日。完全週休二日制。

 「音」は僕が起きるのを待ちかねていたように、うれしそうに「カンカンカンカン」鳴りながら、僕の頭のまわりを旋回した。顔を洗い、食事をし、「音」と一緒にTVを見た。だんだん僕には「音」が僕に何を伝えようとしているのかが分かってきたようだ。

 「TV」を見ている僕をせかすように、あちこちを「キューゥゥゥゥゥン、キューウゥゥゥゥ」と鳴って飛び回っている。「音」は僕と一緒に外出したいのだ。僕と一緒に外の世界を味わいたいのだ。僕が「それじゃ、こいよ」と言って立ち上がると、うれしそうに「シュンシュン」と僕の頬にへばりついた。そしてジーンズとTシャツに着替えた僕と「音」は一緒に外に出た。

 晴天だ。「音」と供に歩く僕。僕と供に買い物をする「音」。「音」は興味津々といった感じで、車に飛び付いていったり自転車の車輪の中で一緒になって「シャキシャキ」と音をたてたり、飛行機に向かって「グルーン」と舞い上がっていったりした。そしてすぐに、また僕の横に舞い戻ってきて「グウグウウウン」となついてくるのだ。

 一日中、そうして僕と「音」は街をほっつき歩いた。帰りに食料の買い物をするためにスーパーマーケットに入った時が傑作だった。「音」は店内に整然と並べられたパッケージ化された魚や肉に興味を示し、無言で黙々と買い物に精を出す、おばさんたちにまとわりつき、陳列棚から目を白黒させているおばさんたちの間を飛び跳ねて遊び回った。レジの行列に割り込んで入ろうとする、おばさんに向かって「ピーーーーーイイイ!」っとホイッスルのような音を発して邪魔をするとこなんか最高に傑作だった。心臓に毛の生えたおばさんも仁王立ちになって辺りをギョロギョロ睨み付けるだけだ。

 やはり安心すべき事に「音」は他人にもちゃんと聞こえたのだ。スーパーマーケット内を縦横無尽に飛び回って人々をあたふたさせる様は、僕の心をとてもウキウキさせた。

 誰もいったい何が起こっているのか分からない。いたずらなガキか空調設備の故障かと思う程度だ。

 とんでもない。「音」という生物の仕業なのだ。それは僕の親友だ。夕暮れの道を食料品のたくさん詰まったビニール袋を下げて歩く僕の肩に乗って、「音」は「カラコロカラコロ」と鳴り続けていた。

 マンションに帰り、「音」と一緒に今日一日の面白おかしい出来事を話しながら夕食を作って食べる。そしてウイスキーを飲みながら僕の歩んできた人生や、今の無意味で神経を鷲掴みにするような仕事の事を話す。そして、一緒に寝る。「音」は睡眠に心地よい音楽を奏でてくれた。

 次の日も休み。日曜だ。僕は心地よく目覚め「音」は僕の胴の回りをくるくる旋回している。顔を洗い、食事をする。向かい側の席で「音」はシュンと縮こまったり、ブワーッとテーブル全体を包むように広がったりした。気持ちの良い音のシャワーだ。

 「音」は僕の生活と気分に合わせて音量や音色を考えてくれているようだった。午後になって僕はある事を思いついた。そして、試みた。「音」に僕の体内に入ってくれと、頼んでみたのだ。「音」は少し後退して「ギュルギュル」と鳴ってためらっていたようだったが、すぐに「シュルシュル」と僕の耳から体内に突入してきた。

 耳から僕の脳に入った。脳の中で「音」は「チリンチリン」と夏のガラスの風鈴のように涼しげな音をたてた。僕の頭は異様な程、すっきりとし冴え渡った。脳の全細胞が、まるで二十歳の頃のように活性化し、世界がとてもクリアになった。感受性が氷の針みたいに鋭く光った。

 それから「音」は僕の目玉や口内や脊髄を回って喉を通って肺や胃や胆嚢や心臓や小腸、大腸、肝臓、腎臓を彷徨い最後に生殖器に下降してきた。「音」は僕のペニスと睾丸の内部でグルグル回った。「シューゥゥウウン、グリリリリ」。僕のペニスは、まるで高校生の時のようにはち切れんばかりに勃起した。

 内部で精子がどんどんたまってゆくのが分かった。僕は脊髄の真まで爆発せんばかりに性的高揚に満たされ、「ウギャー」と声を立てて、思うに500ml位の精子を発射した。終わってからも「音」はペニスの内部で「ブンブン」唸り続け、僕は全身をブルブルワナワナと痙攣し続けていた。こんな快感は初めてだった。「音」とのSEX。

 僕は、その日、それから5回、要求し、本当に死ぬような快楽に浸った。精子は次々に再生され続けた。信じられない幸福だった。もう、世界が崩れ人類なんか滅亡してしまえと思った。僕と「音」だけを残してね。

 夕暮れから、もう僕はぐったりとしてしまい、「音」は、それを思いはからうように優しく、僕の身体をベルベットのような音色で包み込んでくれた。

 僕の内臓で鳴る「音」。僕のペニスと睾丸で鳴る「音」。可愛い「音」。

 できたら僕は「音」を思いっきり抱き締めてやりたかった。寝る前に僕は、もう一度「音」にペニスを刺激してもらい、性的恍惚に浸って、その夜は泥のように眠り込んだ。

 次の日から僕は「音」を身体の中に入れたまま会社に行くことにした。一瞬とも「音」と離れていたくないのだ。業務中はなるべく身体の外にでないように僕は「音」に言い聞かせた。会社にいる間中、僕は「音」と事あるたびに会話しながら、せっせとプログラム作りに励んだ。

 「音」は僕の言い付けを守って、僕の身体の中で僕の頭脳の働きを助けてくれた。休み時間にトイレで「音」にペニスに入ってもらって射精した。そして、すっきりと僕は仕事に全力を傾けることができた。

 夜は帰ってから再び「音」とSEXをした。僕はコンドームを装着して満員電車の中でも性的快楽に耽り、射精した。そのようにして僕の刺激的で精力的で溌剌とした毎日が過ぎていった。

 ある日、僕はSEの直属上司に呼び出された。僕は、その上司を嫌っている。僕の事をとことん馬鹿にしていると思っている。事ある度に「ふん、この無能力者め」といった感じで僕の事を無視するのだ。ところが、お笑い草にも、その上司が僕を呼び出した用件と言うのが、僕の悩み事相談なんだ。僕は「音」と一緒に内心大笑いしていた。「音」は僕の胃で「ヒュルヒュル」鳴っていた。

 自己啓発室とやらに入ると眉をへの字に曲げた上司がインテリジェント・システム・デスクの向こう側で僕を呼び寄せた。僕は彼の向かいに座り、用意されていたコーヒーを何も言わずに飲み始めた。上司は開口一番こう言った。

「お前の仕事に関して言えば、最近どんどん効率アップしている。見上げたものだ。しかしだ。俺は、どうも良くない噂を聞く。はっきり言おう。皆が言っている。お前はノイローゼじゃないかと」

 そこで上司はもったいつけて煙草に火を付けた。そして続けた。

「独り言ばかり言っているそうだな。それも絶え間なく。それにつけてだ、ちょっと言いにくい事だが、お前はトイレでしょちゅうオナニーしているそうじゃないか。女子社員の間でも評判だぞ。言ってみろ。何があったんだ?いいか、会社というものは共同作業なんだ。自分の仕事だけきちんとこなせていれば良いというわけじゃないんだ。他の社員に与える影響を考えてみろ。お前が次に何をやるか、そればかり気にしている奴もいる。はっきり言って統制が乱れている。心配事があるなら言ってみろ」

 「音」は僕の腹の中で「ギュウフフフ」とせせら笑っていた。僕もくすくす笑った。これが僕の上司だ。体裁ばかりを気にして。仕事が出来なきゃできないで馬鹿扱いして。糞でも食らえ!と思った。そして、しばらく沈黙が続いた。僕は耐えられなくなった。

「心配事?そんなもの、ありゃしないよ。毎日、すごく順調だよ。神経過敏になっているのはそっちの方なんじゃないんですか?皆、僕の事なんか気にもしちゃいませんよ」

 上司は絶句した。僕がこんな態度をとれるとは考えてもいなかったのだ。

「君、やはり、君はどうかしているぞ」

 そして、たまらなくなって僕は「音」と一緒に大声で笑った。

「ぎゃははははははひゃ、へっへっへっへ、うひひひひひひひ!」

 上司の絶句は続き、彼の目は次第に気違いを見る目に変わっていった。

「もう、いい。お前は、やはりどこかおかしい。噂どおりだ。早く俺の前から姿を消せ、処置は後で考える」

 その時は僕と「音」は身体をくの字に曲げて笑っていた。そうして笑い続けたまま僕は自己啓発室をゆっくりと出ていった。

 その日はニコニコ笑いながらプログラムを一本仕上げて退社した。帰りがけに同僚の岩倉に声をかけられた。

「変だよなあ。変だ。何か精神的な重みを抱えてるんじゃないか?女じゃないか?それとも異星人とでも友人になったか?」

 岩倉は会社の中でも一番仲の良い友人だ。彼は冗談めかして僕にそう言っているが、結構本当に心配しているのがわかる。でも本当のことなんて言えやしない。僕は、

「何でもないさ。ちょっと女性関係でハッピーな事があってね」

 と適当にごまかした。

 


kipple

日常のざわめき

2021-05-21 07:09:12 | 夢洪水(散文・詩・等)
日常のざわめき

 3月初めだった。真っ青な空で、その大画面の真ん中にはジェット機の残した一本の境界線が引かれていた。

 2日前に凄い、本当に物凄い季節はずれの暴雨風雨が、この東京を通過した。

 僕はその時、傘と学生服のつやを失ったが、そのかわりに今日の青空を得た。

 本当、空は底なしに透みきっていた。

 昨日は都市をすっぽりと包んだこのグチョグチョ空気まで素晴らしかった。

 でも、一日経つと、すぐこれだ。灰色の粒子が僕の頭と胸の中にズンズン入り込んでくる。

 オキシダント濃度0.02PPM、ダイオキシンいっぱい、だそうだ。ああ、いまいましい。

 と言っても僕には何も出来やしないし、する気もないがね。

 そこいらの車を全部ふっとばしてやりたいよ。

 八百屋の店先にペヨーテやダツーラやジムソン・ウィードやロコソフを混ぜてやりてぇや。

 僕は、今、いや、僕らは、卒業式を終えて中学校前の銀杏並木を抜けて陰々揚々鬱々躁々とサンモール街の横道の商店街に飛び込んだ。

 買い物に精を出しているババアどもの、その過剰とも思えるたくましさに「ぞっ」としながら口笛吹き吹き、今いるこの駅前の何とかスクウェアのアスファルトの上に、少しの息切れとともに、たどり着いたわけだ。

 今日でとうとう鬱陶しい中学生活も終わりを遂げたわけで、僕は開放感からくる歓喜で殺人でもやりかねない程、幸福だった。


 僕ら3人は、すでに重傷だった。もうかなりの群衆からの無言の排斥攻撃にさらされていたのだ。

 背広やらセーターやらワイシャツやらダウンジャケットやら糞趣味の悪いトレーナーやらの服装の上に、ちょこんと乗っかった幾つもの薄汚れた丸くて黄色い点が、駅から延々と、途切れることなく吐き出されて来る。

 その黄色い点人間は、僕と1回、坂と3回、角と2回、ぶつかって、ぶつかるたんびに彼らは「へのへのもへじ」を作った。

 坂と角というのは僕の友人の名で、僕は私茂(シモ)と言うんだ。

 僕らは、そのアスファルトの上で、かなり長い間話し込んだ。

 30分も話した頃、ついに立ち続けていたため、足がガタガタいいだしたので、僕は話にケリをつけるために、少し焦らねばならなくなった。

 それに「へのへのもへじ」の多さに圧倒されて、気が遠くなりそうだったのだ。

 そして太陽の光もかなりの攻撃力だった。じりじり汗をべとつかせやがる。

 話がまとまらないのは、殆ど角のせいだった。

 僕らは「これから、どうするか?」を話し合っていたのだ。


角「俺は絶対にいやだ。それだったら、まだゲーセンで金使った方がいい。もっとも、それも気が進まないが。」

僕「あれは凄い映画なんだぜ。そこいらの、オシアワセな映画なんか、あれの前じゃすっ飛んじゃうぜ。」

角「俺はイヤなんだよ。2時間も暗闇の中でじっとして目を疲れさせるなんてのは。映画ってのは、だいたい長すぎるんだよ。かったるい」

僕「じゃあ、何がしたいんだ?」

角「何か汗をかきたいんだよ。なぁ、坂。」

坂「俺は、どっちでもいいんだよ。そうだな、どうしようか。そうだな俺も映画はイヤだな。」

角「そうだ!ボーリングがいい。ありゃ、すっきりするぜ。」

坂「俺も、その方がいいと思う。」


 僕は全く呆れ返って涙が出そうだった。

 映画とボーリングを比べて、どうして坂の野郎に、どっちがいいなんて結論を下せるんだい?それ程奴は自分のはっきりした意見なんてものは何も持ってないんじゃないか。

 角の野郎の方が俺よりも強引で、論争した時には俺よりも強いだろうという低脳な考えから坂の奴は、角の意見に味方したにすぎないんだ。

 自分で何が正しいかなんて見極めるなんて、その糞の詰まった頭骸骨じゃ、できやしねぇんだ。

 いつも、どっちか強そうな方へひょこひょこ阿呆みたいに、くっついていきやがって。安全だよなぁ。いつもお前は。

 それでも僕は(たぶん今日の天気のせいだろう)いつもの様に不愉快な気分でパンパンに膨れ上がり爆発しそうには、なれなかった。

 僕は、

「それじゃ2人が言うなら、そうしよう。それで、いいや。」

 と、微笑みを作って元気よく同意した。

 『パ-ン』と突然、何かの破裂する音が聞こえ、僕と角が、まっさきに振り向き、坂は僕らの様子を見て

 【彼らが振り向いたんなら、俺も別に振り向いてもかまわないだろう】

 なんて思ったんだろう。ちょっと遅れて奴も振り返って首をのばした。

 スクランブル交差点の真ん中あたりで、青い野球帽を目ぶかにかむった6才くらいの少年が、3つ持っている風船のうちの赤いやつを、踏んづけていた。

 近くで耳を塞いで、怖がっている仲間の少女を誇らしげに、サディスティックに、ねめつけて、彼は「ゲラゲラ」と青空に向かって笑い転げた。実に楽しそうだ。


 群衆は、すぐに無関心に戻った。しばらくして再び、同じ破裂音と下品な笑い声が起こったが、群衆のほとんどは再び振り向く事をしなかった。

 僕と角も無視したので、坂も2人の顔色を見て無視する事にした様だった。坂にとって何より重大なのは僕らから外れない事なのだ。

 おそらく今度の破裂音が拳銃で、少女が射殺されていたとしても坂は僕らから外れない方を行動選択しただろう。僕らが無視すればそれに従うだろう、ま、射殺されようと干渉する気は、どんなバカにもありゃしないだろうが。


 僕は、ふいに今日の見事な青空を思い出して、映画もボーリングも、やはり今日にはふさわしくないと思った。

 僕はオキシダントを吸い込み、薄くかすんだ太陽に向かって吹きつけた。

 何故かと言えば、その時僕には太陽が大空にぽっかりと、あいた穴に取り付けられた通気口の様な気がして、それを信じたからなんだ。


 それから僕らは死んだ様に人ごみにもまれて歩いた。

 僕には回りの風景が黄色く、たそがれ時の砂漠の様に目に映った。

 実際、頭に力を入れて注意力を高めて見れば、それは青空の下でちゃんと息づいていたのだが、力を抜くとすぐに黄色く染まり始め、廃墟の様に僕の目に映じた。

 僕は、もういいかげん、疲れてきた様だった。実際この時僕は、こう思った。

「この雑踏には存在だけで人間を自殺か殺人行為にしむける能力がある」
 とね。

 この雑踏は、せっかくの素晴らしい明るく透き通った世界を、薄汚れた、まっ黄色の墓地世界に変えてしまえるんだからね。まったく。

 歩いているうちに、とうとう僕は不愉快になり、頭がバンバン膨らみ始めたみたいだった。

 それでも卒業して、やっと地獄の様な中学校の束縛から開放された事を思い出すと、いくらか気持ちもやわらぐってなもんだった。


 ボーリング場に着くと、絶望的な数字が僕らの視界に飛び込んできた。

『只今の待ち時間:2時間です』

 2時間!

 僕らは場内のロビーにたたずみ、再び話し合いを始めた。ピンの倒れる音が結構、快く僕の耳に響いていた。倒れる音って何て気持ちいいんだろう。

 僕は破壊的な音や映像や話が、大好きなんだ。凄く気持ちがいいんだ。みんな壊れてしまえばいい。出来るだけ派手にね。いや、じっくり地味にでもいいや。

 考えてみれば僕に限らず人間は皆、破壊が大好きなんだぜ。

 スポーツなんてのも相手を破壊する為の楽しみなんだし、僕の知ってる奴らは皆、映画のどこに興味を惹かれるかって言ったら、すぐに生命の破壊だって答えるよ。

 決まってら、当たり前すぎる。どれだけ派手に残酷に肉体を損壊させるかって事以外に興味ある?実際。

 皆、主人公なりなんなりが巨大な銃で、(いや武器は電動ノコだろうがハンマーだろうが何だっていいけど)ぶっぱなしてあらゆる物をぶっ壊したり、善人だろうが悪人だろうが無垢なる市民だろうが、その肉体生命をバラバラにちょんぎったりドカンと破壊したりするところになると、うれしそうに目を輝かすんだから。

 角が話しかけてきた。

角「おい、2時間も待つんだってよ。」

僕「ちぇっ。今日は土曜日だったんだなぁ。どうする?」

坂「さあ、どうしようか。」

角「今、3時か。始めるのが5時とすると、30分くらいしかできねぇな。たった30分のために阿呆みたいに2時間も待ちたいかい?」

僕「ボーリングがいいって言ったのは、お前たちだぜ。そっちが決めろよ。」

角「おい、坂、どうするか?」

坂「俺は、どっちでも良いよ。角にまかせるよ。」

角「やめよう、やめよう。2時間も待つなんて、俺たちに何をやってろって言うんだ?」

僕「それじゃ、どうする?」

角「今から帰るってのもバカらしいしな。せっかく今日はめでたい日なんだしな。学ラン着たままじゃ酒も飲めないし。」

僕「今からなら、ちょうど例の凄い映画に間に合うぜ。」

角「いったい何でそんなにその映画が見たいんだ?どこが凄いんだ?その映画は。」

坂「凄い、凄いってシモはもう見たんか?見てないんだったら君は何故凄いなんて評価できるんだ?」

僕「えっ。イヤ、僕は見てやしないよ。でも宣伝でね。幾つかのシーンをちょっと見たんだよ。先を詰めたこんなでっけぇショットガンを主人公が相手の顔に1cm位の近距離からぶっぱなすんだよ!それに何せ10万人以上人が死ぬらしいぜ!強制集団自殺なんてのもあるってよ!凄いぜ!」

坂「それが凄いのか?血が出りゃ凄いのか?人が死ねばいいのか?残酷度が高けりゃ君は満足なのかい?とにかく俺は、どうでもいいけどね。」

僕「坂、何が言いたいんだ?驚いたな。君が、そんなこと言うなんて・・・いいかい、人間てのは流血が大好きなんだぜ。しかし僕らが皆、実生活で殺人や流血を楽しむなんて事しだしたら世の中メチャクチャだ。だから、それを法でおえて、その代わりに映画やら小説やらマンガやらゲームやらスポーツやらで、暴力や血や殺戮を見せつけてくれて僕らの精神を少しでも充たし癒してくれているんじゃないか。だから僕らは実際にこの手で他者の血を流す事なく、代わりに流してくれるそれらのものによって満足を得なければならないんだよ。それらによって破壊や殺人、または自殺の欲求を抑えなきゃならないんだよ。」

坂「まあね。そうさ、俺には何だっていいんだよ。」

角「坂?何だか無気力極まりないじゃんか、お前。ダメだぜ、そんなんじゃ。とにかくシモ、お前は変な考え方してるなぁ。とにかく、何かわかんねぇけど、お前の考え方は・・・陰険だよ。」

僕「ちぇっ。みんな真実を知るのが怖くて陰険なんて言葉で片づけちまうんだ。臆病者。だから、いつまでたっても人間は偽善のかたまりなんだって事。」

角「出ようぜ!こんな所で、ぐだぐだ話してたら頭に来ちまうぜ。その映画でもいいからとにかく何か時間を埋めようや。映画見に行こう。なぁ、坂。」

坂「うん、ああ。」


 ボーリング場を後にして僕らは映画館に向かった。

 とにかく僕は驚いた。坂の奴が僕に面と向かって反論したのは初めてだった。来い、殺してやる。

 もしかしたら坂の奴は前から僕に反感を持っていたのかもしれない。来い、殺してやる。

 僕と角の意見が衝突すると決まって坂の奴は、角の側に味方したし、もしかしなくても絶対にそうだ!

 坂は僕に反感を持っている。そしていよいよ奴は攻撃体制に出てきたって訳だ!来い!ぶっ殺してやる!


 そして、その映画館に着くと何だか物凄い無気力感が僕を襲ってきた。怠いんだ。かったるい。

 坂たちは、僕と殆ど口を聞かなくなり、ポップコーンを嫌がらせのように大きな音で喰らいながら、その映画の残酷描写を楽しんでいた。

 映画館の暗闇の中で奴らの「くっ、くっ」という笑い声が絶え間なく続き、特に大量殺戮のシーンでは膝を叩いて喜んでいた。

 僕は何だかポツンとしてたんだよ。回りが真っ暗で映写機の音がカラカラ聞こえてくるような感じなんだ。

 この歌舞伎町のど真ん中の巨大な映画館に僕ら3人だけが映画を見ていて、外の世界はとっくに滅びてしまっている・・・そんな気分なんだ。


 そして何を隠そう、この僕、この僕が、その残酷シーンの連発を見ていて、吐き気をおぼえたんだよ。

 僕は異常なのかな?

 そして、僕は、自分の事を偽悪者め!と罵った。ふふ、とんだ偽悪者さ。

 ま、だから、どうしたって事もないけどさ。じゃあ、殺されてやろうか?




(その映画館は、この世には存在しない。その映画も存在しないはずだった。その映画の名は「ヘイス・ブッシュル」という。ナチスによって制作された禁断の映画だ。見た者は当然壮絶な死を遂げる・・・)


kipple

風の映画館 後半

2021-05-20 07:19:50 | 夢洪水(散文・詩・等)


風の映画館
後半
 




 私はね、この仕事に就いてから二十年ですよ。いろんな事があったけど、こんなのは初めてですよ。

 私は、ここ半年間の間、ずっと夜間を流しているんです。最初の頃は赤坂近辺で客を拾って、送りとどけると再び赤坂に戻って、又、拾うという事を繰り返していたんですけどね。飽きてきましてね。赤坂から始めて、八時頃には新宿に出るようになったんです。

 しばらくは、ごく普通に順調にやっていました。ある夜、会社仲間の夜間ドライバーたちが妙な話をしているのを聞きました。それは八時に新宿アルタの前で客を拾うな。一度拾ってしまったら二度と新宿を八時頃に流すな、八時のアルタ拾いを続けると必ず頭がおかしくなる、と言うものでした。

 しかし誰も、どんな事が起きて運転手がおかしくなるのかは、正確には把握していないようでした。いろんな不気味なパターンがあるようでした。気づくと客が消えているとか、一人だったのがいつの間にか三人になっているとか、いくら走っても新宿を抜け出せないとか、客の指定した場所に行くと自分の家の前で、よく客の顔を見ると自分にそっくりで、おまけにその客は自分の家に入っていったとか。いろいろでした。

 でも私の場合は、そのどれとも違うんですよ。その話を聞いてね、私はちょっと冒険心を出して一週間前、八時ちょうどに新宿アルタ・ビル前で客を乗せました。本当に薄気味悪いくらい八時ちょうどでした。八時ちょうどにアルタ付近を通ることさえ難しいのです。

 その客は、一見、平凡な、あなたみたいな感じの三十代前半の会社員という風でした。グレーのスーツを皮膚みたいな感じに着ていました。私はバックミラーから、よく観察しました。やせ形で中背。細い黒フレームの丸い眼鏡。短くきって洗いざらしにした感じの髪型。神経質そうな目つき。削げた頬とプラスティック製のような鼻。極度の撫で肩。そのバックミラーの映し出す上半身を細かく調べているうちに、何だか別世界からの訪問者みたいに思えてきました。どんな声を発するのか私は停車したまま黙って待っていました。

 客は、こほんと咳払いをすると気の弱そうな声で「八王子駅まで、お願いします」といいました。私は何故この時間帯に中央線を利用しないのか少し不思議でしたが、まあ似たような事は数あるので、黙ったまま不愛想に車を走らせました。

 何も起きませんでした。そのまま、すんなりと青梅街道から八王子駅に抜けました。高速も使いません。何故か使ってはいけないような気がしたんです。客もそれについて何も言いませんしね。

 八王子駅までの約一時間半の間、私は彼と二回、会話しました。「まだまだ暑いですね」「今夜は結構車の流れが順調ですよ」です。返ってきた答えは両方とも「ええ、そうですね」でした。

 それだけです。客は黙々とシートに端座して窓外の風景を眺めていました。私は、きっとそれが趣味なんだろうと思いました。八王子駅に着くと客は料金をゆっくりと私の手に貼り付けるように支払って、するりと降りていきました。

 頭が、おかしくなるような出来事は何一つありませんでした。私は、ためいきをつきニヤニヤ笑っていました。車を発進させサイドミラーで降りた客を探すと、まだ降ろしたままの場所でボッと突っ立っていました。私は緊張が解けてハンドルから片手を離して伸びをしました。

 その途端に次の客が見つかりました。客は乗ってくると、どうやら酔っているようで、乱暴な口調で「新宿のアルタの前まで!」と言いました。何かおかしな感じがしました。でも私は忠実に「お客さんシート汚さないで下さいね」と言って同じルートを逆行して出発点のアルタ前まで送り届けました。

 うるさい客で野球やら社会情勢やらタクシーのあり方などについて一人でしゃべりまくっていました。アルタで、その客を降ろすと私は再び赤坂方面に流しに行きました。あと、その夜はいつものように終電を失った人々を寝静まった静かな住宅地に送り届けることを繰り返して終わりました。

 次の夜も最初は赤坂を流してから新宿に向かいました。今度は特に意識する事無く客をつかまえたんですが、それが八時ちょうどで、しかもアルタの前でした。少し変な気がしましたが、まあとりあえず車を走らせ、客が黙っているので行き先を聞きました。返事がこうです。

 「八王子駅まで」

 私は、背筋が凍りましたよ。わかります?気持ちが悪いでしょう。でも、まあ二回くらいは、と思ったんですがね。昨夜とぜんぜんタイプの違う客でしたし。遊び人風の若い男でした。かなり疲れているみたいで八王子駅に着くまでぐったりと寝込んでしまいました。

 問題は、それからです。八王子駅で、その客を降ろすと、すぐにまた次の客がつかまりました。今度は水商売風の女でした。その女の行き先は、また新宿アルタ前だったんです。そういう事なんです。

 次の日も次の日も再び新宿を流してちょうど八時にアルタ前で客を拾い八王子駅まで送り届け、すぐに次の客がつかまり、「新宿アルタ前まで」と行き先を告げられる。それが一週間続いてます。

 これは一体、どういう事なんでしょう。全部、違う客ですよ。こんな気味の悪いことはありません。まだ、幽霊にでも出会ったほうがましですよ。仲間の話は本当でした。忠告に従うべきでしたよ。もう止まらないんです。八時前になると車が自然に新宿に向いてしまうんです。こんなに気持ちの悪いことは初めてです。いったい、これは、どういうことなんでしょう・・・…







 運転手は延々と喋り続けていた。しかし、もう、私は彼の言葉を聞いてはいなかった。私は、真っ白な窓外をみつめ続けていた。そこには、もう苔のへばりついたようないつもの都市の風景は、いっさい無く、巨大な白色が無限に続くだけだった。

 私は、じっと目を凝らし真っ白な空間の中に黒い点を見つけた。運転手も異常に気づき、私に説明を求めているようだった。私は、すでに放心状態にあった。恐怖や不安や緊張はシンと青春時代の夜遊びの後のように靴の底のほうで静まりかえり、ただ好奇心だけが運転手に声をかけた。

「あの黒っぽいまで、お願いします。」

 運転手は青ざめながらも観念したのか何も説明を求めずに、実に職業的な口調で、

ですね。はい。」

 と答えた。

 私は、タクシーが近付くにつれ、最初は極白色のなかで黒い点にしか見えなかったものが次第にかたちを現していくのを細かな微笑みを浮かべて見つめていた。黒い点は次第に灰色の古ぼけた映画館へと変容していった。ところどころ文字のはげた看板が風にガタガタと揺れていた。私は、ふと

「ここは海の近くかな?」

と思い、その文字を見つめた。


  「名画座ユピテル」


 看板には、そう書かれてあった。タクシーは、ゆっくりと映画館の前に停車した。バックミラーに映った運転手の顔はすでに生気が無かった。口をだらんと開いてよだれを流し細かく震えている。
「ここは映画マニアにしか耐えられないところなんだよ」と私は心の中でこっそりとつぶやき、勝手にドアを開けて車外に出た。静寂に包まれた車内から一歩外に踏み出すと、私は凄まじい強風に吹き飛ばされそうになった。しかし、私は歯をくいしばり吹き荒れる風の中を映画館に向かって歩いていった。

「本日の上映作品{ヘイス・ブッシュル}…午前4時より開幕」

「よかった。ちょうどだ。あと一分、やっと見れる。フフフフフフ。」

 そして、私はガタゴトと風に揺れる油のねっとりと染みついたブリキの扉を開け館内に入っていった。

 私が館内に入ると

「ゴオォォォォォォォォォォゥゥゥゥゥゥウウウウウウウウウオオオオオオ

 と耳をつんざくような風の悲鳴が響き渡り、気のふれたタクシー・ドライバーだけが八王子駅のロータリーに突っ立ったまま、うっすらと明るくなりはじめた虚空に向かってカラカラと荒野を転がる藁くずのような笑い声を発していた。車はどこにも見あたらなかった。

 

風は呪い、風の向こうにあるのは漆黒の沈黙。沈黙は呪いを人類に吹きかけている。
 





 
幻の映画「ヘイス・ブッシュル」の記録

 多くの権力者、知識人に知られていながらも、あえてその存在を隠匿させられたキリスト教以前の古代宗教の写本が1935年8月にアラブ人の農夫アブドゥル・アル・ハメドによってイスラエルの死海のムンクラ第5洞窟で発見された事により、恐るべき事実が明らかにされた。
 写本はアル・ハメドからさまざまなルートを経由して当時絶大な権勢を誇っていたナチスの親衛隊長ナイア・ホテップス教授の手に渡り、親衛隊は教授の命により、アル・ハメドから教授の手に届くまでに関わった人間を皆殺しにした。教授は言語学者をかり集め写本の翻訳を終えた。
 しかし、言語学者たちは、その後一ヶ月以内に全員原因不明のむごたらしい自殺を遂げた。写本は十三のパピルス・コーデックス、五つの文書から構成され紀元前千二百年頃に翻訳され、原テキストはおそらくギリシア語で書かれていたであろうと推定される。
 その後、教授はヘスの協力によりバイエルン地方奥深く設立された前衛実験用の広大な強制収容所の所長に就任し写本を「ロゴス・フォビア」と名付けてドイツ語で極秘に出版し先鋭的な将校たちに流布した。
 影響を受けた将校たちの間で幾つかのおぞましい事件が起きた。何人かの将校は自らの皮を剥ぎ、肉を食した。ある将校は千人以上のユダヤ人の赤子の血を抜き五芒星を刻んだタイガー戦車でドレスデン市内の建築物に放血しまくり、最後に自分で血を飲み干してから爆死した。
 たいていの読者は異様な死に方をしたが、何人かの将校は恐怖を通過しグロテスクな好奇心に目覚めた。教授は、彼らを集めヒトラー総統に「ロゴス・フォビア」を献上し、その映画化と製作の為の莫大な支出に対する快い認可を得た。
 ヒトラー総統は一読して恐怖を超越し、ゲルマン的な純粋な好奇心に目覚めた。ナイア・ホテップス教授は「ロゴス・フォビア」映画化において総統の全面的支持を確保した。(純粋なるゲルマン民族の知的好奇心はあらゆる恐怖心を凌駕する。「ロゴス・フォビア」の暴き出す恐怖によって精神を苛まれる者は支配民族としてふさわしくない。この映画の公開は、おそらく人類の希望を徹底的に粉砕し、その中から最終的な地球の支配者たりうる知性と強靱なる精神を持つ人間を厳選し、不適格者を悉く排除し最も優れたゲルマン人による少数者による最後の帝国が築き上げられていくだろう)とホテップス教授宛ての書簡の中で総統は展望を語っている。
 まず、バイエルン奥地の強制収容所にユダヤ系の建築技師と設計技師が徹底的にかり集められ「ロゴス・フォビア」に掲載された種々の幾何学図形をもとに吐き気をもよおすような醜悪でおどろおどろしいセットが収容所裏の森林の奥深くに建造された。
 セットが完成すると、次にユダヤ人の役者(プロもアマチュアも含めて)が総勢一万五千人集められた。撮影班と誘導班と録音班が設置され監督として最初にフリッツ・ラングが指名された。しかし、ラングは亡命し、次に指名された「民族の祭典」の女流監督レニ・リーフェンシュタールが原作を読むなり失踪してしまい、結局ホテップス教授自身が監督総指揮を行う事となった。それが結局、この映画の無演出状態に近い即物的な徹底したリアリズムを生み出すこととなった。
 撮影開始と共にドイツの戦況も急坂を転落するかのように敗色を強めていった。結局、映画版「ロゴス・フォビア」は1945年8月に完成され総時間にして五千時間分のフィルムに約一万名の殺人と五千名の自殺シーンが収録された。全て本物である。完成版は約4時間半で編集作業は極秘に行われ当事者として誰が関わったのかは全く謎である。
 ホテップス教授は6月15日、完成より二ヶ月前に原因不明の熱病によって死んでいる。完成後、セットを作った技師たちは全員処刑された。他の製作班(撮影・録音・記録・等)も8月15日に収容所裏の奥深くに残されたセット跡で全身を鉤爪でくまなく切り裂かれた焼死体になって発見されている。十二月の降伏後、連合軍によって没収された機密ファイルからは「ロゴス・フォビア」に関する何の記載も見い出せなかった。「ロゴス・フォビア」は徹底的にドイツ降伏の前に焼却されたらしい。当時、「ロゴス・フォビア」の映画化が完成していた事を知っている人間が生き残っていたとは考えられない。
 この事実が明るみになったのはモサドのホテップス調書からである。モサドの追求は壮絶を極めた。モサドはナチスの記録部の副長官だった人物アイン・ゲッペルとバイエルン強制収容所副所長の秘書をしていた人物フォン・ルードウィッヒを3年間電気と薬物による拷問を繰り返し、ヒトラーの個人的な書簡を徹底的に調べ上げ、ホテップス教授の写本の入手から映画製作までの緻密で論理的矛盾のない恐ろしい調書をしあげたのだ。
 調書によると写本とドイツ語翻訳の「ロゴス・フォビア」は現存の可能性は無く、フィルムはヨーロッパ各国に分散されて幾つかの大学図書館などに厳重な警備体制のもとで保管されている。映画化された「ロゴス・フォビア」は「ヘイス・ブッシュル」と改題され、写本に記されていた正確なコプト語のギリシア読みに変えられた。意味は{人間の正体}或いは{人類の真相}といった事らしい。
 以後、「ヘイス・ブッシュル」は、それを観た人間の精神を破壊し世にも恐るべき結果をもたらすだろうということであらゆる国の政府により厳格に公開が禁止されていた。ところが、世界的な情報公開の波に乗り、これを所有していたアメリカの大富豪ラムフォードの政治がらみの執拗な要請により、ヒル・ケイツが2時間の再編成版(監督はクエンティン・ダランヂーオ)としてインターネットでの公開の準備をしている。
 


kipple

風の映画館 前半

2021-05-19 07:32:10 | 夢洪水(散文・詩・等)


風の映画館
前半
 

 
 
 死者のための映画があるという。一握りの幸福に見送られて他界する者たちには縁のない映画である。
 それは生の世界で地獄を見る運命にある呪われた数少ない人々に用意された映画である。その映画を見るものは究極の恐怖を体験することになる。闇と恐怖の中で残りの短い人生を、死によって解放されるまで続けなければならない。
 それは、あなたかもしれない。明日、ふとした事でその映画を見ることになるかもしれない。その時のために、これを読んでおきなさい。

(その映画はバイエルン地方奥地にあったと伝えられるナチスの強制収容所所長ナイア・ホテップス教授によって制作された。脚本は伝説の古代宗教の写本「ロゴス・フォビア」が基調となっている。その名を「ヘイス・ブッシュル」という)  
 





 

 噂には、聞いていた。しかし、私は忘れていた。小島が私に、それの実在とそこへの不可思議な行き方を伝えてくるまでは。

 大学の時の映研の友人だった小島が私に電話してきたのは夏も終わりに近い水曜日の夜明けだった。風が強かった。小島は公衆電話からかけてきたようで向こうからもゴウゴウと風の唸る音が聞こえた。

「凄かったよ。もの凄いよ。あれは絶対に人間の作ったものじゃないよ。恐ろしいよぅ。」

 小島はいきなり、そうきりだしたので私は間違い電話かイタズラかと思った。最近、その手の電話がよくかっかてくる。それに小島とは、もう十年以上も会っていないし話しもしていなかった。十年もすれば人間はどんな変貌を遂げるか分かったものじゃない。しかし、しばらく話を聞いているうちに私は相手が小島だと確実にわかったので電話を切るのを止めた。

「小島か!どこからだ。落ち着いて喋れ、何だか分からない。」

 私は大声で言った。すると小島の声はピタリと止み、風の音だけが不気味にゴウゴウと鳴っていた。ミケランジェロ・アントニオーニの映画のような気分的な静寂が流れ小さな声が風の音の中から聞こえてきた。

「鬼頭!」

 彼は私の名を呼んだ。

 「鬼頭よ、聞いてくれ。俺はついに見た。映研時代に噂があっただろう。{ヘイス・ブッシュル}を上映している映画館が都内のどこかにあるって。俺は、その映画館を見つけて{ヘイス・ブッシュル}を見てしまったんだ。今、俺はその映画館の中からお前に電話しているんだ。」

 ますます風の音が強くなった。まるで受話器を持った私の背後から刻々と近付いてくるようだった。私は、全身で寒気を感じた。そして大声で鬼頭に質問した。

「どこに、あるんだ!場所を教えてくれ!」

 小島の声は強風にかき消され、ぐんぐん遥かな闇の中に遠のいていった。私は、もう一度、叫んだ。

「教えてくれ!どうやって、そこに行けばいい?」

「新宿だ、新宿のアルタ前だ。毎晩、8時にアルタの前でタクシーを拾うんだ。毎晩、8時ジャストにだ。そして八王子駅まで行ってくれと言うんだ。いいか!毎晩だぞ!…しかし、お前が人間最高の恐怖を望まないのなら止めた方がいい。単なる好奇心なら絶対に………………。」

 そこで、声も強風もプツンと途絶えた。後から、どす黒い怒濤のような闇の沈黙が訪れた。まるで1億リットルの血飛沫を、たった一人でゴビ砂漠で浴びたみたいだった。ゴビ砂漠でなければいけない。理由はない。私は硬直した。腕時計の音がビッグベンの鐘突きみたいにガンガンと私の後頭部を打った。ビッグベンだ。地球が割れるような気がした。私は過去からの時間連鎖を断ち切るように受話器を置いた。気がつくと窓の外でゴウゴウと風が唸っていた。真っ黒な風が。







 次の日、私は会社の帰りに新宿のアルタ・ビルの前で午後8時ちょうどにタクシーを拾った。

 くすんだ赤い色の個人タクシーだった。何の特徴も見いだせない、ごく普通の運転手だった。ひっそりと社会の片隅で何の野心もなく単調で静かな日々を送っているようなタイプだった。

 私が「八王子まで」というと無言のまま彼は静かに車を走らせた。妙なルートだった。青梅街道からいつのまにか、見たこともない街道群をいくつも通り抜けて八王子に到着した。窓の外の町並みは、まるでかびにおおわれたミニチュアのように古色蒼然としていた。私は数百万年前に滅びた文明社会の影を車窓の向こうに感じてしまった。

 そこには、誰もいない。かつて絶大なる繁栄をきわめた文明の影。その影の中を静かに唯一ひたすら、何か恐ろしく不吉な運命のルートに導かれ、私を乗せたタクシーは死の街道を走り抜けて行く。

 私は後部座席に深くもたれて震えていた。しかし、私は恐怖にまさる好奇の対象はない、という事を知っていた。私は震えながらも秘かに胸を高鳴らせている自分に気づいていた。ワクワクしていたのだ。

 しかし、あっけなくタクシーは八王子駅に到着し、運転手は淡々と料金を請求してきた。私は生暖かい夏の夜の風の中に放り出され、ポカンと八王子駅周辺のきらびやかな風景を見つめていた。

 
 何も起こらなかった。ただ、私は新宿から八王子までタクシーでやってきただけなのだ。しかし小島は毎晩これを繰り返せと言った。私は今夜は何もなかったが、とにかくしばらく小島の言った通りにやってみようと思った。

 私は、あきらめない。中央線で阿佐ヶ谷に向かいながら、私はふと思った。{小島はどうなったんだろう?}阿佐ヶ谷のアパートに帰ると、私は膨大な量の{ヘイス・ブッシュル}資料を読み返した。

 制作スタッフ、出演者、また関わった者は全て映画完成に至るまでに死んでいる。惨殺、狂気の自殺、原因不明の変死。少なくとも一万五千人以上はむごたらしい死を遂げた。原作となった{ロゴス・フォビア}は焼失。
 撮影は全てバイエルン地方の奥深く、強制収容所近くの「黒い森」と呼ばれる場所で行われた。映画{ヘイス・ブッシュル}は現存しているが各国の政府により厳重な警備体制のもとで保管されている。その公開は人類の存続自体を脅かすだろうと言われている。私は{ヘイス・ブッシュル}の資料を机と床に洪水の後のように散乱させたままグレーのソファーベッドに横たわり留守番電話のテープが進行しているのに気づき、再生した。

「ゴゴゴゴゴゴゴゥゥゥゥゥゥゥゥ、ゴウゴォウゴォウ、ゴオンゴンゥゥゥゥゥゥゥゥー」

 巨大な吊り鐘の中で世界中の豪風が集まり、デスマッチを繰り広げているような音だった。

 私は戦慄を覚えた。風たちは数秒間、唸り続けてからピタリと止んだ。地底湖の底のような沈黙が続いた。私が留守にしていた間、かかってきたのは、それだけだった。私は{小島がなんとか連絡を取ろうとしているのではないか}と思った。私は、それ以上考えるのを拒絶し、睡眠薬を3錠、牛乳で流し込み、黒い沼に沈むような眠りについた。

 次の夜も、私は会社の帰りにアルタの前で午後八時ちょうどにタクシーを拾って行き先をつげた。{八王子駅まで}。今度は白にブルーのストライブの入った会社タクシーだった。

 しかし運転手は、またも無口で存在感の無い男だった。車は静かに夜の街道をすべった。いつからか、再び妙なルートを走っていた。私は、ずっと窓の外を眺めていたのだが、どこで青梅街道から、この死の影に包まれた廃墟のような街に入ったのか思い出せなかった。

 私はシートに深くもたれながら{新宿から八王子に到達する間のどこかに鍵があるはずだ}と考えた。考えているうちに八王子駅に着いてしまった。タクシーは昨夜と同じように何事もなく、あたりまえに私を送り届け去っていった。

 阿佐ヶ谷のアパートに帰宅すると、私は、すぐに留守番電話を再生した。今度は風の音ではなかった。音ではなかった。信号音の後に続いたのは途方もなく深い深い沈黙だった。まるで闇が押し寄せてくるような沈黙だった。

 誰かが向こうにいると私は確信した。小島ではない、と思った。遥かな時の深淵から誰かが受話器を通して人類全体に呪いをかけているような気がした。

 いったい小島はどのような過程を経て{ヘイス・ブッシュル}を上映している映画館にたどり着いたのだろう。私と同じように時の彼方からやってくる呪いに導かれたのかもしれない。今日もかかってきた電話は、その不気味な沈黙だけだった。

 私は小島の事を考えた。ごく平凡な青年。しかし現状にいつも不満を感じている。それを打開するものを求めている。小島にとって、それは{ヘイス・ブッシュル}を見ることだった。小島は生地獄に陥り、究極の苦痛と恐怖の中で私に連絡してきた。小島は、きっとまだ生きている。
永遠の苦痛の中で






 次の日も、私はきちんと出社しきちんと仕事を終えて新宿のアルタの前で八時ジャストのタクシーを待った。八時になるまでに私は、この三日間の出来事を整理しようと思ってポイントを拾って単語を手帳に列挙してみた。

  [電話、風、小島、{ヘイス・ブッシュル}、映画館、新宿、アルタ、八時、タクシー、無印象な運転手、見知らぬ街道、八王子、中央線の逆行、留守番電話、豪風、無音]

 私は書きながら妙に一つのことが気になってきた。八時、なかなか八時ジャストに新宿アルタの前でタクシーはつかまらない。二度目までは、まだ偶然の範疇にある。しかし三度目となると。

 私はアルタから八王子までの鍵は運転手にあると考え始めた。八時ちょうどに私を乗せる運転手。彼らには何かが隠されている。彼らがキーなのだ。私は、そう思って、何だか当然のような気がした。冷静に考えれば、これらの中で唯一コミュニケーションがとれるのは運転手しかいないのだ。

 私は今夜、またしても八時ジャストにタクシーを捕まえることができたら、何とか運転手とコンタクトをとろうと思った。腕時計を見ると八時だった。私はタクシーの存在も確認せずに右手を星空にむかって突き出した。

 喧騒の中から何か不気味な思念が私の体を地の底から黒い泥濘のように突き抜けていったような気がした。見るとちゃんと黄色い会社タクシーがドアーを開いて私の前に停車していた。私は、頭を振り、他律的にタクシーに乗り込んだ。

 ドアーが閉じ、タクシーは静かに車影の群れの中をするすると走り始めた。車窓の彼方で超スピードでペイントされていくようにネオン群が風景の中でぶれていた。

 私は、これは間違いなく、得体のしれない何者かによって作られた通路への入り口なのだろうと思った。8時ジャストに新宿アルタ前でタクシーに乗り八王子駅に行くことが、この世界の裏側に埋め込まれてしまった人類の邪悪な原風景に続く数少ない道のひとつなのだ。

 私は慎重にと自分に言い聞かせた。微妙な言動が軌道逸脱行為となりかねない。しかし、行うべき事は唯一つしかない。私は、思考を針のようにピンと張りつめて決行した。運転手に声をかけたのだ。頭の中で細かい空気がボコボコと移動しているみたいだった。

「これで、三日目ですよ。アルタの前で8時ちょうどにタクシーを拾った。」

 返事は無かった。私は運転手の白い手袋を見つめた。私は巨大な白黒の不安に包まれた。でも勇気を絞りだして続けた。

「運転手さん、僕はね、三日間続けて、8時ちょうどにタクシーを新宿アルタ前でつかまえて八王子駅まで行って貰っているんですよ。他人には理解しがたい理由がありましてね。」

 私は運転手の両肩が空爆直後のベルリンの廃墟のように震えるのを見て、いいがたい安堵の感情に包まれた。彼は何かを、言ってしまうと狂気に陥りそうな何かを、闇夜に降る静かな雪のように隠している。運転手は様々なエフェクターを繋ぎ通したようなノイジーな声を出した。

「気味が悪いな。お客さん、冗談じゃないですよ。こうも、続くとね。でも、お客さん、あんたに言ってもらって、何だかほっとしましたよ。こんな事、めったな事じゃ話せない。気違いだと思われる。」

 私は静かな感動に打ち震えていた。運転手の次の言葉をじっと待った。

「一週間ですよ。一週間続いた。いったい、これはどういう事なんでしょうか?何かの呪いでしょうかね。頭のいかれた奴が巧妙に仕組んだ悪質な悪戯なんでしょうか?」

 私は目の前に吊り下げられた金箔に向かうように、ゆっくりと丁寧に質問した。耳の後ろを流れる血液のような声だ。

「何が一週間、続いたんですか?僕の話と関係がありそうですね。それは八時ちょうどに新宿のアルタ前から八王子駅まで行くという事と関連しているんですね。」

 運転手は凍りついた沈黙を車内に漂わせた。やがて車が青梅街道に滑り込むと、彼は目の前に吊り下げられた氷細工の人骨模型に向かうように注意深く低く囁くように、だらだらと答えた。堰をきったように延々とだらだらしゃべり始めた。

 


kipple

創世記

2021-05-18 07:03:43 | 夢洪水(散文・詩・等)

創世記




皆の者、聞くが良い・・底知れぬ悪転に終わりは無い、

神も悪魔と交じわり、混濁の中に、人の子よ、気楽な笑いを見出すだろう。

底無しの腐敗は空虚な快楽へと続いてゆく。

 



上なるものは終わることなく、さらに上まで続き

下なるものも同じく続く、

よって中間なるものは無い。よって上と下というものも無い。

(自家撞着という言葉があるが、すでに言葉という者はイミディアの中の幻覚で、それ自体は無い)

 



終わり無きものの、どこかで、まばたきがあった。

まばたきの内にポンと暗闇が生まれた。

(まばたきが、終われば当然それは失せる)T×Sというものだ。

 



暗闇は、塵芥を生み、塵が動いて時と空間が生まれた。だが、それはホログラム。

塵と供に時と空間は交互に入れ代わり次第に広がり分岐した。

その終わり無きもののどこかで、まばたきの間に光が暗闇に侵入した。

 



光は圧倒的に闇より微少なり。

 



微少なる光は光の裏に非なる光を隠し、非なる光は光を通してイミディアをもつ両性具有存在を創った。

イミディアをもつものは時と空間を統一し、そこに中間(グレーゾーン)という概念があらわれた。

そして上なるものと、下なるものが・・・。

イミディアをもつものにより時と空間はピッタリと一致したので、それは消滅した。

 



時と空間はイミディアをもつモノのイミディアの中にのみある。

この最初にしてイミディアをもつモノは、大いなる者、創世者である。世界の源なり。

それはイミディアスである。

 



イミディアスが無から空想する時と空間のホログラムはドリーム・コスモスとも言う。

時と空間は無い。全てイミディアスの夢である。

ドリーム・コスモスがイミディアスの空想によって時と空間の錯覚をドリーム・コスモスに生まれたものに与えられる。

イミディアスは自己と交わる事により、ドリーム・コスモスの中にミニイミディアスを生む。

 



ミニイミディアスはイミディアスのドリーム・コスモスの中に「ミニイミディア」により世界を創った。

ミニイミディアスは時を空想し空間を空想し次に他者を空想した。

ミニイミディアスは「ゾロアスター」とイミディア内の空想された他人に自分を呼ばせた。

ミニイミディアス=「ゾロアスター」は、そして世界と時と空間の全てを創った。

 



全てが創られると、再びイミディアスは自己と交わり、又一人、又一人とミニイミディアスを生んだ。

ミニイミディアスたちは全て「ゾロアスター」の全ての中に散らばった。

かくして全ては初めの創世者と後から来た創世者たちによって、7つに分割され再編成された。

7つのゾーンが重なり合うにつれ、ミニイミディアスたちは記憶を徐々に失い、創世者たる事を忘れた。

 



ミニイミディアスたちは死なない(消滅しない)。

彼らは今も生きている。

しかし、遙か昔、7人目のイミディアスをうみしのち、

非なる光は闇にフィルターとしての光の通路を押し戻され、供にイミディアスは消失した。

 



故に全ては根源を断たれ、無の中に浮遊する死んだ夢の残留物となった。

かくして全ては本質的に無い。

全ては、かつてあったものの夢の中の夢である。

初まりと終わりは一緒である。

 



世界はヴァリアブルに死んでいる。

 



皆の衆、しかと心得よ。我々は無により創出され見捨てられた無である。

 




ウオォォーーーン、ルルル。


kipple