親父 横浜の00川大学「貿易科」でチョットだけ勉強した その大学時代に友人
となった岩手県の00木君と共にこの大学で 親父はLL(語学教室)彼は「工業経営」
担当として3年間働いた 親父は退職 彼は今や先生となる
親父は現在「山形弁」が上達しフランス語は頭の何処かに残ってるだけ?
その00木君 小渕内閣の時から祭日が替わり上・下半期とも授業日15週とる
通達が続いている様でその調整で昨日(10月12日)「体育の日」でありながら
大学も授業日となり 大学より「ボヤキ」のメールをくれた
「ゆとり勉強」とは?・・・どの様になっているのか不思議である?
その親父今や「山形弁」を得意とし日々数種類の仕事に携わっている
昨日も休めなかった 前に丸棒鋼材を仕入れしていた「シュレッター」のシャフト加工
納期日には時間あるのだが1時間作業しては別の仕事 又加工しては別の仕事
の繰り返し いつ終わるか心配にて昨日全量仕上げに「体育の日」を作業日に
「ターレット」で加工された両端面に8mmのメスネジを切る
ターレットでもネジ切り出来るのだが「タッピングマシーン」で作業した方が速い
タッピングマシーンは専用機として存在するのだが「ボール盤」を親父改造し
ネジ切り機械として30年以上も使用している
納品時間決めてないが今日の内に納品し今月の切削加工終わりたぁ~い
親父の代より4代前までこの土地で「造り酒屋」を営んでいたと聞く
・・・・・そんな訳で親父も「酒飲み」なのかなぁ~と前々より思っている
冗談とし「長門屋」の屋号のもと「寒河江川」のブランドで酒を造っていた
この写真は一升瓶に張る「ラベル」でありこの版下現在残っており
この版下を元に版画として茶の間に飾ってある
酒購入された方への謝礼なのかは不明であるが「杯」も現存している
下の文字は「じいちゃん」の過去への記録として残しているのだが親父時間なく
ブログでの説明無~しよ!
造り酒屋を続ける為に「西村山郡役所」に願い届けを出した書類
読めない所だけ書き込む
右酒造場ニ於テ引續明治廿年度酒造営業仕度候間御免許被下度鑑札相添此段
相願候也
このようにして「酒造り」に先祖さま商売していたのであろう~
話を聞くにその当時酒は出来ても今の時代のようにエアコンが無く「酒の保管」に
悩まされていた 造っては酒だめになり自然には負けていたと聞く
当時の主が防腐剤を探しに京都まで行った その土地で何らかの病に掛かり
死んでしまった 以後「主」がいなくなり造り酒屋を廃業することになる
酒樽、酒柄杓・・・・等不要となり売却する
隣の町の0島酒造さまに引き取って頂く その酒造会社も廃業し工場ごと売却する
購入先は現在も活発に酒、ワインなどを製造している00寿酒造さま
この「長門屋」の道具を売却し0島酒造さままで移動する時に
『道路使用願』
を警察に提出している この時代自動車はなく「大八車」で運んだと思われる
この写真で読み取れる内容では「道路使用許可書」(和紙)が出ている
道路使用提出義務は知らないが現在の警察署でもその当時「道路使用願」はいらない
のでは? 届けたにしても不必要と却下されただろう?と「じいちゃん」聞いてきた
昔の道路に対し酒樽が余りにも大きく家の軒先などにも擦りながら運んだ!と
じいちゃん先祖さまより聞いていると親父に聞かせる
・・・・・・・・・・・・・・・
この書類を見られた警官が「道路使用許可書」の記録調べて見たが全く無かった
ぜひ「警察文化祭」に貸して欲しい!の願い有り文化祭に貸し出しした事が一度有る
住所の記載も「寒河江町→寒河江村→楯北村」と歴史を感じます。本楯の北側の意味で楯北村なのかと想像をかき立てられます。
自分の姓は寒河江では珍しいですが、先日訪ねた旧雄物川町の蔵〇院では墓石の6~7割が自分と同じ姓でした。直系の親族は見つかりませんでしたが、御住職のお話では、「全て一族」だということでした。
土曜日は幼稚園の運動会、日曜はランドセルと学習机の選定に付き合わされ、昨日は畑の石拾いで、今日は腰痛、筋肉痛です。