ご無沙汰しております。
いろいろあって、しばらく更新できませんでした。
私も呼びかけ人としてお手伝いしております
立憲デモクラシーの会の公開講演会が開催されます。
第一部は、三谷太一郎先生ということで、
まさにマスターヨーダが、ついに立ち上がった的な歴史的講演会です。
(この場合、アナキンは誰で、皇帝は誰なのか
という問題はあるわけですが・・・。)
第二部では、前田哲男氏の講演もあります。
私は、憲法学の観点からコメントをすることになっております。
<集団的自衛権を問う—— 立憲主義と安全保障の観点から>
7月4日(金) 午後6時~8時(5時半開場予定)
会場: 学習院大学西5号館B1教室(JR目白駅)
(入場無料。先着順。予約は受け付けていません)
第1部
基調講演:三谷太一郎(日本学士院会員・東京大学名誉教授・政治史)
「なぜ日本に立憲主義が導入されたのか:その歴史的起源についての考察」
コメント:加藤陽子(東京大学教授・歴史学)
司会: 山口二郎(法政大学・政治学)
第2部
講演:前田哲男(軍事評論家)
「集団的自衛権をめぐる国会論戦を振り返って」(仮)
コメント:木村草太(首都大学東京准教授・憲法学)
司会: 中野晃一(上智大学・政治学)
詳細は
こちら。
また、月曜日にチキさんのラジオに出演しまして、
集団的自衛権の行使がなぜ違憲と言われるのか、
を5分で説明しよう、という企画にチャレンジしております。
ええと、チキさんのベストアシストをうまく決めきれなかった感もあり、
ちょっと補足させていただきます。
1 授権規範が必要なのである
まず、根拠がない云々というのは、どういう議論なのか
というようなことを、メディアの方からもご質問いただいたりしますので
ちょっとまとめておきましょう。
あらゆる団体に共通ですが、
団体は、規約に決められた範囲で活動をします。
(規約が団体に、これやっていいよ、と決めることを
「授権」といいます)
例えば、野球部は、野球部規約に決められた範囲で活動するので
部費を、
部長の実家の美容室の資金にしたり、
サッカー部の遠征費につかったりしてはいけないのです(当たり前や)。
(もちろん、規約にそういうことをしてもよい
という授権規定があれば別です。)
そんなわけで、
消防車の出動だろうが、年金の給付だろうが、
営業停止命令だろうが、関連企業への行政指導だろうが、
政府が国家権力を行使をするためには、憲法上の授権が必要です。
例えば、清宮四朗先生の教科書(憲法Ⅰ第三版17頁)等を見ると、
憲法には授権規範としての側面があり、
「憲法以下の全ての法令は」「憲法の授権にもとづいて存立」すると述べています。
(このことは、芦部先生の教科書でも、13ページの註に書いてあり、
専門的ではあるものの、大学学部レベルの当然の知識といってよいでしょう。)
(統治機構論が必修でない大学だったり、
統治機構論の講義で、こういう基本を飛ばして、ハイレベルな講義で飛ばす
先生もおられますが・・・)
で、いわゆる行政活動は、全て
日本国内の公益を実現すること、国民の権利を守ること
という憲法13条が定めた日本国の業務に含まれる活動なので、
憲法上の根拠があるわけですね。
2 個別的自衛権については授権がある
では個別的自衛権の行使はどうか?
ということですが、
日本国への直接攻撃を除去する作用なので、
日本国は国民の自由や権利などを守れと決めた憲法13条により根拠付けられており、
また、
国内の安全確保作用なので、行政権(憲法65条)に含まれる、
と言われているわけです。
(青井先生の『憲法学の現代的論点(第二版)』の論稿など参照)
また、憲法9条もそれを禁じていないと言われているわけですね。
(もちろん、個別的自衛権違憲説もなくはないですが、
個別的自衛権違憲説をとっても、集団的自衛権の行使が合憲
ということにはならんですな)
これが従来の内閣法制局・政府解釈のキモです。
3 ところが、集団的自衛権は・・・。
というところについて、
こちらをお聞きください。
4 で補足
でもって、一応、政府は、ある種の外国への攻撃は日本への攻撃なのだ、
だから、個別的自衛権とはなしは変わらん、という議論をするわけですが、
そういう議論をする場合には、
その外国と日本で、防衛の面である種の統一体・連合・連邦・連合国家的なもの
をつくっていることが前提になり、
(それを作ること自体は、もちろん、ありうる一つの政策です)
いくらなんでも、
現状、日本はアメリカの51番目の州ってことにはならないだろうし
そうした国家連合への加盟は、主権のありように大きな変更を加えるので、
当然、憲法改正が必要になります。
(2000年代の学会では、EU化の流れの中で、
国家統合と各国憲法という問題が盛んに論じられました)
と、こういうわけで、集団的自衛権の行使を容認するための解釈変更は
憲法上無理ではないか、と言われているわけです。
なわけで、行使容認が必要なら、やはり憲法の改正が必要でしょう、が素直な結論だと思われます。