気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

義と愛と誇りが 越後 「天地人博」

2009-10-08 10:26:51 | 気ままな旅
 6月24日(水)新潟県立大潟水と森公園を見学した後、同じ上越市内で開催中の 「越後上越 天地人博」にやってきた。
 現在放映中のNHK大河ドラマ「天地人」にちなんだイベントで「直江津屋台会館」で1月~12月20日まで開催されている。
 謙信の「儀」 兼続の「愛」 越後の 「誇り」といった、人間の内なるハートに訴える内容でドラマ化され、現代人が忘れかけたもの、新鮮な心、人間の絆の深さや大切さが演じられ、人々を魅了して人気を呼んでいる。
 数十台の観光バスから多くの方が訪れているが、平日のせいか年配の方が多いように感じる。
 私たちも入場券600円を支払って入場していく。

 このドラマや上越市直江津などについては次のように記載されている。
 「ここ上越市は天地人「義」の継承地で 「天地人」の主人公である直江兼続は、主君である上杉景勝とともに春日山城に入り、戦国時代の名将として知られている上杉謙信のそばに仕え、謙信の生き様を直に学びます。その地がここ上越です。
 謙信が「第一義」と謳うほど何よりも大切にした「義」の心は、こうして謙信から景勝、兼続へと継承され、名門上杉家を語る上での礎となっていきました。
 また、兼続が継承している直江家発祥の地でもあります。
 今もこの地に残る「直江津」(JRは現在も直江津駅)という地名は、直江の津(=港) という意味であり、昔から交通の要所として栄えています。
 この「直江」の地で勢力を持った豪族が土地の名にちなみ「直江」という性を称したと考えられています。」

                        
                 越後上越 天地人博入り口 

 館内に入場して行くと、そこは上杉謙信の精神を支え、ドラマにも度々登場してくる天地人毘沙門堂をイメージした洞窟のような暗い通路で、我々を天地人の世界へ導いてくれる。
 しかし、ここは意外と狭く、多くの人でごってかえして、写真撮影などできる状況ではなかった。
 さらに進んで行くと、天地人にまつわる上杉謙信、上杉景勝、直江兼続などのパネルが掲示され、当時の状況が詳しく紹介されている。
 続いてエントランスエリアに進むと、大河ドラマの主役に扮する出演者やドラマの世界を紹介するエリアに出てくる。
 謙信、景勝、兼続の扮装写真や小道具などを展示し、「天地人」の世界、戦国時代へと導いてくれる。    

             
              天地人博ポスター      原作者の火坂雅志のパネル

           
天地人の主役に扮する上杉謙信(安部寛)、直江兼続(妻夫木聡)、上杉景勝(北村一輝)が登場してくる。

 私は若かりし頃より歴史が大好きで、同じ上杉謙信を題材にした海音寺潮五郎の「天と地と」や司馬遼太郎の歴史小説などを読み漁っていた。
 勿論、NHKの大河ドラマは私の楽しみの一つであり、日曜日には欠かさず視聴している。
 同じ題材のドラマであっても、色々な立場から捉えると、まったく違ったドラマになってくる。
 特に今回のドラマで直江兼続や石田三成のことが詳しく放映され、改めて当時の時代背景や二人の絆、正義感などを考えさせられ、今までとは全く異なったイメージが湧いてくる。

 このドラマの主役となっている越後直江津などの出来事を踏まえながら、3人の武将が紹介されている。

 戦国の乱世において、私利私欲ではなく「義」のために戦った越後・上越の武将・上杉謙信。
 上杉謙信は、越後守護代であった長尾為景の末子として誕生する。
 幼名は虎千代。天文5(1536)年に為景が病死、兄の晴景が家督を継ぎ、虎千代は春日山城下の林泉寺に入り7~14歳の青年期を過ごす。
 謙信の、戦国武将としては珍しい深い学識、厚い仏心はこの時代に培われたといわれている。
 その後、元服し長尾景虎と名乗り、病弱だった兄に代わって家督を継いで越後守護代となった。

 謙信の戦歴は、元服をした天文12(1543)年に始まる。
 以降、武田晴信(信玄)や北条氏康、織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねるが、その戦いは欲によるものではなく、義を重んじ出兵したものだったといわれている。
 武田晴信に領地を奪われた村上義清・高梨政頼らを助けるために出陣し、5回に渡り戦った川中島の合戦は特に有名である。
 しかし、敵対していた武田晴信が今川氏真によって塩を断たれた際、今川の行為を批判し、武田に塩を送ったエピソードは有名である。
 これを、江戸時代の陽明学者・頼山陽が讃えて「敵に塩を送る」という故事が生まれたといわれている。

 謙信の旗印「毘」の文字は、自らを生まれ変わりと信じ、厚く信仰していた毘沙門天からとったものと伝えられている。
 春日山城に毘沙門堂を作って毘沙門天祀り、毎日祈りを捧げ、戦の前には戦術を考えるためにこもったり、戦勝の祈願をしていた。
 総攻撃の際に本営に掲げられた「懸り乱れ龍の旗」から、「越後の龍」とも呼ばれた。
 また、戦に長ける反面、和歌にも通じ、達筆であったともいわれている。
 内政や外交にも才を発揮。青苧(あおそ=衣類の原料となる植物)を栽培し、日本海を通じて全国へ広め、豊富な財源を獲得している。
 天正6(1578)年、享年49歳で人生の幕を閉じるが、その生涯は戦の連続であった。
 妻を持たず生涯未婚を貫くなど、戦国武将としては異色の人物であったといえる。

           
                春日山城と当時の街並み

            
        白馬にまたがった「義」の上杉謙信  謙信が身につけていたの鎧

◎上杉景勝については次のように記されている。
 御館の乱で勝利した上杉景勝は、越後国内の混乱を治め、正式に上杉家の家督を継ぎました。
 しかし、時代は戦国から天下統一へ向かう動乱の時期。寡黙で、どんな時も顔色を変えなかったといわれる若き景勝も、その渦の中に巻き込まれていきました。
 1555(弘治元)年、坂戸城で生まれる。
父親は坂戸城主・長尾政景、母親は謙信公の姉・仙桃院の二男。幼名は卯松、後に顕景。

●謙信にかわいがられた少年時代
 8歳の頃、叔父である謙信から習字が上手になったことをほめられ、謙信直筆の手本をもらう。
 10歳の時に父・政景が死去。その後、謙信の養子として、春日山城に移る。
●性格は冷静沈着、無言実行。厚い信望
 冷静沈着で決断力・行動力があり、家臣からの信望も厚かった。寡黙で家臣の前では一度しか笑わなかったといわれる。
●謙信から帝王学を学ぶ
 謙信は、景勝が春日山城に移ってからは、自分の後継者として英才教育を施していた。
 謙信が1575(天正3)年にまとめた「上杉家軍役帳」では、21歳の景勝・謙信に次ぐNo.2の位置で、総勢375人の兵を率いている。これは、並み居る上杉の武将の中でも群を抜いていた。
●妻は信玄の娘
 正室は、武田信玄の娘・菊姫。謙信と信玄の親の時代では、激しく対立していた上杉家と武田家だが、景勝と勝頼の時代には同盟を結び、絆を深めていた。
 菊姫との間には子宝に恵まれず、側室との間に長男・定勝(1604年・景勝50歳)が生まれる。しかし、定勝が生まれた年に菊姫が死去。定勝の生母も産後の体調がすぐれずに相次いで死去した。

           
                直江兼続の等身大の写真と天地人の幕

◎直江兼続について
 兼続は1560(永禄3)年に坂戸城下(南魚沼市)で生まれました。
 父親は、長尾政景の家臣・樋口兼豊、母親は信濃の武将の娘の長男。幼名は与六。
 坂戸城は、謙信の姉であり、景勝の母・仙桃院の嫁ぎ先でした。
 幼いころから、仙桃院に認められ、景勝に仕えていました。
 景勝の父・長尾政景の死後、景勝とともに春日山城に入ると、謙信のそばに仕え、数々の功績をあげるとともに、謙信の生きざまを近くで見ていました。
●謙信の姉に見いだされた才能
 幼い頃から聡明で利発な兼続が景勝の母・仙桃院の目に止まり、近習(君主の側に仕える家臣)として景勝に仕えた。その後、景勝とともに春日山城に移った。
●謙信も認めた優秀さ
 頭脳明晰で、文武両道の武将。その優秀さは、謙信も認めていたようで、景勝とともに手元に置き、学問や戦略を教えていた。
●武田からのスパイを見抜く
 信玄が謙信の元に送ってきた使者が遊んでいるふりをして、浜の長さを測っていることに兼続が気づいた。
 後日武田側から改めて浜の長さの問い合わせがあったが、兼続は「それは、使者が測っていった確認だ」と謙信に進言。使者がスパイと気づいた兼続の機転だった。
●名家臣の妻は“姉さん女房”
 妻は、お船。兼続公より3歳年上の「姉さん女房」。夫婦仲が良く一男二女をもうけるが、早くに亡くしている。
 お船は、上杉家の名家臣・直江景綱の娘で、直江信綱を婿にしていた。直江信綱が「御館の乱」の後の混乱で殺され、名門・直江家が途絶えることを惜しんだ景勝公が、お船と結婚することを勧め、兼続に直江家を継がせた。

◎景勝と兼続
 謙信の後継者として上杉家の家督を継いだ、景勝。景勝を支えた兼続。
 謙信の教えを強く受けた二人が、戦国から天下統一に向かう激動の時代に、上杉家の舵取りを担いました。
 謙信から「義の心」を受け継いだ景勝と兜に「愛」の文字を掲げた兼続の横顔を紹介している。

 さらに進んでいくと、出演者のスタンバイスペースエリアに出てくる。
 このエリアは、スタジオの前にある控え室やメイクルームなどを再現し、普段見ることのできないドラマの舞台裏を紹介するほか、出演者のインタビュー映像なども見ることができるように工夫されている。

            
           景勝の母仙桃院の内掛け   ドラマで使われていた着物

           
        スタジオの庭園樹木のセット 愛の文字が入ったシンボた凧 よく上がることで人気が高かった

           
春日山城の本丸御殿のセット 撮影で使われた着物を体験希望者に応えるスタッフの女性 

 私達も春日山城本丸ご御殿のスタジオセット体験エリアにやってきた。
 このエリアは、ドラマ撮影で用いられた、春日山城本丸御殿のセットを忠実に再現して造られている。
 ドラマで使われた着物を着て、撮影をしている様子が目に入り、その側で紅い衣を着た女性が世話をしている。
 最初は何かとおもっていたところ、女性スタッフから記念に如何ですかと勧められた。
 撮影で使われた衣装を着て、セットの中で記念写真を撮ることができるとのことであった。
 せっかく来て記念だと思い、妻と二人で、豪華な着物を着ての撮影することになった。
 思いもかけない本丸御殿での豪勢な着物を着ての記念撮影に妻もニッコリ、私達にとってもほんとに記念の撮影となった。
           
          春日山城本丸御殿で撮影に使われた着物での記念のショット

            
        地元の人たちの手によって作られた春日山城、精巧なできばえで当時を偲ばせている。 

           
春日山城天主部分は左側の天守 中央が本丸 右側に毘沙門堂があり 谷の部分は通路で結ばれている。 
一段下の部分が二の丸で御台所があり、茶室もあったと考えられている。その下の部分が三の丸である。 

 また直江兼続については次のようなことも記されている。
 兼続の容姿は「長高く、姿容美しく、言語晴朗なり」と伝えられています。
 背が高く、体つきもがっしりしていて、頭脳明晰。 そんな姿が浮かび上がります。
 そして戦には「愛」の文字が光る兜をつけて臨んでいました。
 戦国武将の兜には、その武将が信仰している神仏にちなんだもの(前立て)をつけることが多く、兼続の「愛」の文字は、軍神である愛染明王の一字を取ったものと考えられています。
「御館の乱」では、景勝の側近としていち早く春日山城を抑えるなど活躍。景勝を勝利に導きます。
 また、織田信長の死後、勢力を伸ばした豊臣秀吉との和睦を景勝に助言し、上杉家の安泰を図ります。
さらに、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れた際も、景勝とともに上洛し、家康に謝罪しました。
 「お家取りつぶし」は免れ、会津(120万石)から米沢(30万石)への国替で済みました。
 この時も家康の家臣と連絡を取り、難局を乗り切ったといわれています。

※当時の状況について
 織田信長亡き後、天下を統一した豊臣秀吉は、織田軍を手取川の戦いで敗った上杉軍と友好関係を築くとともに、景勝と兼続の力を認め、優遇しました。
 また、秀吉は「天下の政治を安心して任せられるのは、直江兼続ほかの数名しかいない」と言ったといわれ、兼続を自分の家臣にしようと誘っていましたが、兼続は首を縦には振りませんでした。
 石田三成は、秀吉の家臣として活躍し、関ヶ原の戦いで徳川家康と戦った武将として有名です。
 同じ歳、有力者の家臣など共通点の多い二人は親友といっていいほどの交友関係にありました。
 二人が初めて会ったのは 「越水の会談」 と呼ばれる席で、景勝と秀吉の会談に兼続と三成だけが同席していました。
 秀吉の死後、力をつけた徳川家康に対し、二人は反発します。
 そして、天下分け目の「関ヶ原の戦い」へ向かっていくことになります。
 会津へ国替となった上杉家は、国造りを急いで進めていました。
 しかし、これが実力者となった徳川家康への反抗とうわさされ、家康から上洛を促す書状が届きます。
 この書状に対して、兼続は理路整然と反論した 「直江状」 と呼ばれる書状を書きました。
 家康はこの返事を見て怒り、会津へ上杉家を攻めるため出陣しました。
 この一連のできごとは、兼続と三成が手を組んでいたともいわれています。
 兼続が家康を挑発することで、家康をおびき出し、その背後から三成が兵を挙げ、家康を挟み撃ちにする作戦を立てていました。
 しかし、家康はその作戦を読んでいたかのごとく、三成が挙兵した報を受けると引き返し、関ヶ原で戦うこととなります。

           
          春日山城と繁栄した街 右は交易が盛んに行われた直江津(港)

           
           武将謙信の人間性を現している上杉家家訓(宝在心)全十六項目

 兼続を育み、兼続がつないだ越後の天地人、日本海舟運による交易により財を成した謙信、豊かな国の富によって義の理想を追い続け、それをつなぐ景勝、兼続、雪国ならではの風土と文化が、越後の温かい天地人を育む伝統を感じながら、会場を後にしていった。  
               
                                   
           
             



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