気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

厳しい戦況の中でユダヤ難民を救った人道的な日本人

2011-07-23 23:44:11 | 気ままな旅

 2011年5月4日(水)みどりの日、福井県敦賀市にある 「人道の港 敦賀ムゼウム」に妻と二人で訪れている。 

先程までは全く知らなかったポーランドのシベリア孤児救出に関する写真や展示物を見ていて、日本の先人たちの功績やポーランドの人達のとの心温まる交流の歴史に感動していた。  

 隣の展示コーナーでは、元リトアニアの外交官 「杉原千畝=すぎはら ちうね」氏が、ユダヤ人に対して「命のピザ」を発給して、6000人の人達を救ったことに関する写真や、当時の細かい状況が詳細に伝えられている。

6000人のユダヤ人を救った元リトアニアの外交官「杉原千畝」氏

第二次世界大戦後、世界各地に離散していたユダヤ民族が、国連総会の決定を受けてイスラエル独立を宣言したのは1948年(昭和23年)5月14日のことである。 日本は昭和27年にこれを承認、同年、東京にイスラエル公使館が設立されて、正式な国交が始まった。

昭和48年両国の公使館が大使館に昇格した直後、ジェホシュア・ニシュリが参事官として日本に赴任してきた。

彼の最初の仕事は一本の電話をかけることだった。 相手は当時、国際交易という会社でモスクワ支店代表を務める杉原千畝である。

そして、2人は同年6月イスラエル大使館で28年ぶりの再会を果たした。

「スギハラさん。 私はこれまでビジネスで来日する度に、ずっとあなたを探し続けてきました。 ようやくお会いしてお礼をいうことが出来ます。 あなたに助けられた多くのユダヤ人はみんな、今も心からあなたに感謝しています。 本当にありがとうございました」 とお礼を述べている。

イスラエル政府は、17年後に最も名誉ある 『ヤド・バシュム賞=諸国民の中の正義の人賞』 を杉原に贈っている。 これは日本人として初めての快挙である。

ドイツナチス党首 アドルフ・ヒトラー 

  1939年9月1日 ドイツ軍がポーランドに侵攻。 9月3日には、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。 戦火はヨーロッパ戦争として拡大して第二次世界大戦が始まった。

  ナチス党を率いるヒトラーは、ドイツの政権を掌握すると直ちに、ドイツ国内にいる52万人のユダヤ人に対する迫害と強制退去をはじめる。 ユダヤ人の公職追放、企業経営禁止、農業などに従事するなどの市民としての生活権も否定された。 その後にナチス党員・突撃隊が、ドイツ全土のユダヤ人住宅、商店地域などを襲撃、放火した。 

 こうしたユダヤ人は排斥政策は、ドイツにとどまらず、多くのヨーロッパ諸国に広がっていった。 

 事態の深刻さを重く考え、急増するユダヤ難民問題を解決するために、アメリカの提案による第1回救済国際委員会が、1938年(昭和13年)3月フランスで開かれた。しかし、会議に出席した各国のユダヤ人に対しての反応は冷たかった。  

 同年11月ユダヤ系ポーランド人の一少年が、パリのドイツ大使館書記官を暗殺したのを機に、ドイツはユダヤ人に対する報復を呼びかけた。その結果、ドイツのユダヤ人教会や商店が破壊された。 ヒトラーもこれを機にユダヤ人の大規模な国外追放をはじめる。

ナチス警備兵追及され両手を上げる少年

 

 1939年9月、ドイツ・ソ連がポーランドを分割し大量のユダヤ人難民が発生する。 ポーランドから逃れようとしたユダヤ人たち 「東方のスイス」 と呼ばれるリトアニアに逃げ込もうとするが、国境近辺には独ソ国境警備兵が駐留、無差別の発砲が待っていた。 なんとか国境での発砲をくぐりぬけたユダヤ難民たちの行先は、カウナスにある日本領事館であった。

 1940年(昭和15年)年7月18日、リトアニア・カナウス日本領事館の早朝、ユダヤ人排斥政策により国境を越え、ナチスの魔手から逃れるため、ユダヤ人難民たちが、日本通過ビザを求めて押し寄せて来る。

発給ビザを求めてリトアニア日本領事館前にやってきたユダヤ難民たち

 

 彼らユダヤ人にとって生きる道は、たった一つ、日本領事発行のシベリア鉄道経由での日本通過ビザを受け、第三国へ行くしか道は残されていなかった。 ビザがなければ収容所送りとなり死を意味していた。

多くのユダヤ人が犠牲になったポーランド・アウツビッシュ強制収容所へつながるレール

 

 次から次へと押し寄せてくる大勢のユダヤ難民、しかし、杉原領事代理はビザを数人分位なら自分の裁量で発給可能だが、何百・何千枚となると外務省の許可が必要なため、何度か外務省へ実情を打電する。 だが、最後の返事も「ビザ発給はならぬ」という回答であった。  

 独ソ不可侵条約により分割されたポーランド。 さらにソ連は、バルト三国を傘化に納めるという秘密合意を得、1940年6月1日、ソ連はバルト三国に親ソ政権を樹立さした。 リトアニアは中立国と考えていたユダヤ人はこれに大いに動揺する。   このことは、近い将来、ポーランドと同様にユダヤ人狩りの修羅場になることであり、その時が刻々と迫り、恐怖がユダヤ難民に襲いかかっていた。

 もはや、ユダヤ人達にとって、リトアニアからの脱出が、緊急を要することは明らかで、猶予する時間は残されていなかった。

 こうした厳しい情勢の中の、1940年(昭和15年)7月15日 朝、ビザを発給すべきかどうか! 悩み苦しんだ杉原は、妻の幸子に問いかけた。

 「彼らの(ユダヤ人)の望むことをすれば・・・僕は外務省を辞めさせられるかもしれないし、ドイツ軍に捕まるかもしれない。 君も幼い子供たちも・・・・。 それでいいかい・・・」 幸子は杉原をまっすぐに見てうなずいた。 「かまいません」  

 こうして杉原千畝は外務省の意向に背いてビザを発給する人道的な決断を下した。 

 そして、玄関前に集まったユダヤ難民たちに向かって、杉原は鉄柵越しに

      「ただいまよりピザを発給する」

 と告げた時、難民たちの表情には電気が走ったような、一瞬の沈黙と、その後の大きなどよめき、キスをし合う姿、天に向かって感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げ喜びを抑えきれない母親の姿があった。 ユダヤ難民たちの喜びの様子を窓から見ていた杉原の妻・幸子の目頭も、夫の人道的な決断と感動で熱くなっていた。 

 こうして、ビザ発給を決断した杉原は、避難民の状況を聞き取り、渡航理由をビザに書きサインしていく。食事を摂る時間も惜しみ、万年筆が折れても、腕が痺れても書き続け、この日に121枚、次の30日には260枚、31日には146枚を発給する。 

 カナウスの日本領事館は8月26日に閉鎖されたが、杉原は9月5日にベルリンへ立つ直前まで、滞在するホテルでビザを発給し続けた。さらにカナウスの駅のホームまで群がる難民のために、列車が出発する間際までビザを書き続けた。 ついに汽車が走りだす。 走り始めた列車の窓にも、難民たちはビザを求め、必死になって差し伸べてくる手に杉原が書いた命のピザが渡される。 列車が動き出しても次から次へと差し出されてくるピザ。杉原も必死でピザを書こうとした。

リトアニアの外交官杉原千畝が発給した命のビザ

 そして、最後に杉原は難民たちに向かって

  「許してください。私にはもう書けない。皆様のご無事を祈っています」 

 といって、杉原は難民たちに深々と頭を下げていた。 

 「バンザイ ニッポン」「スギハラ 私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」

 列車と並んで泣きながら走ってきた人が、何度も、何度も叫び続けていた。

    

命のビザの発給を受けたユダヤ人たちが通過したシベリア鉄道の駅

 

  杉原の発給したビザを受け取ったユダヤ人たちは、数百人毎の集団となって、身動きもとれないような列車で、数週間かけてシベリアを横断してウラジオストックに到着する。 

 ウラジオストックからは日本郵船の船に乗船し3日間かけて福井県の敦賀までやってくる。

 杉原ビザをもつ難民のうち、早いものは1940年(昭和15年)8月上旬から次々と敦賀に到着する。

 日本に着いたユダヤ少年によると 「初めて見た日本、美しい山々に囲まれ、そこに住む日本人は礼儀正しく親切でフレンドリーだった。 家もなく、無一文で行く宛てもない私たち難民に、親身になって接してくれた。 そこから神戸に着くと、しっかりしたユダヤ難民救済会があり、義援金などを集めて援助してくれた。 少年らは、日本に4ケ月間滞在し、その間、日本の着物と風景との調和、青い空と木造の家々の印象に加えて、「日本人の並はずれたホスピタリテイー、言葉が通じないのに、見知らぬ私たちに差し伸べられた親切心を忘れることはできない」 と述べている。 

その後、アメリカの渡航許可を得て、避難民たちはアメリカへ向かった。

  

ナチスの迫害から逃れて日本にやってきた人たち

杉原千畝氏以外にも、もっと大規模にユダヤ人救済に奔走した人物がいる。 関東軍ハルピン特務機関長であった樋口季一郎少将である。 

彼は1938年3月、ドイツからシベリア鉄道経由で約2万人のユダヤ難民が、ソ連と満州の国境の駅、オトポールに集まった。 ユダヤ人たちは満州経由で上海に向かいたかったが、満州国外交部は、友好国ドイツに配慮して入国を拒否する。 ユダヤ難民たちは、満州国境まで来て、足止めを食らい野営生活を強いられていた。 満州国境の3月は寒さが厳しく食料もなく彼らは凍死寸前だった。

 そこで、ハルピン在住の極東ユダヤ人協会会長のアブラハム・カウマン氏の要請により、樋口少将が満州国外交部を説得した。 一方で樋口少将は南満州鉄道の松岡洋右総裁に救援列車を要請、12両編成の列車13本が行き場を失ったユダヤ人救出に出動した。 

 この救出劇は、当然のようにドイツ外務省より猛烈な抗議を受ける。 このため当時の東条英機中将が、樋口中将を参謀本部に呼びつける。 樋口中将は東条参謀長に持論の人種差別についての正統性を、熱心に説明したところ、東条参謀長も深い理解を示し、樋口少将の行為を不問にしたと伝えられている。

 今回は杉原千畝氏のユダヤ人救済に伴う、当時のヨーロッパ戦況を記載さしていただいた。 この救出劇以前の1919年1月パリ講和会議で日本は、「人種差別撤廃法案」を提出しているが、欧米列強の強い反対により葬り去られた経緯があった。  

 アジアやアフリカで行われている欧米各国の植民地遇民政策、アメリカの黒人問題があった。 日本が行った朝鮮半島や台湾の併合は、日本と同等の教育水準を引き上げるための学校の建設、道路、鉄道、治水、衛生などへの莫大な投資を行ったことと、まったく違っていた。 欧米列強は植民地からの搾取を第一目標におき、愚民政策を行っていたのとは基本的に違っていた。 日本人による人道的な行動は、現在も世界から高い評価を受けている。 

敗戦により間違った歴史観が漂っている今日の日本から、再度歴史の真実を見つめ直し、これら、先人達が行った人道的な出来事を知っていただいて、誇りある日本、誇りある日本人に目覚める方が一人でも多く、良い影響を与えれば幸いに存じます。

 

 

 



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2 コメント

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Unknown (岡崎生男)
2012-12-23 19:58:16
感動しました、なぜ、今の日本はこのような素晴らしい日本人がいたことを教えないのでしょうかね、まったく腐ってますね、先人の日本の行いに感謝している国もたくさんあるのに、中国と韓国のことばかり、この、2国とは国交しなくてもよいと思うのは、私だけではないとおもいますが。
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コメント (希間々兼行)
2012-12-25 09:24:37
 岡崎生男 様
 コメントありがとうございます。
 ご意見には私も全く同感します。
 日本には国際的に貢献した人達がたくさん見えます。
 現在も私たちの知らない所で活躍されている日本の方々も、多くみえることと思います。
 学校教育では、こういった活躍された日本人がいたことを全く教えようとする姿勢を見せていませんね。
 どうしてでしょうか!
 私も良くわかりませんが、誇りある子供たちを育成していくためには、日本を悪者にしている、歴史を再度、検証して、認識を改める時期に来ているのではと思います。
 中国や韓国が主張することは、どっからどこまでが本当で、どっからどこまでが嘘か分かりません。
 ただ、残念なのは、日本の報道機関や政治家の中には、中国や韓国の主張をそのまま取り入れて報道したり、発言することが多いことです。
 こういった日本の歴史をはっきりさして、誇りある日本の子供たちや、国家を築いていくべきだと思います。
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