Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

at the mercy of

2009年08月12日 12時16分36秒 | Weblog
Now if he succeeds, here is Japan, it's defenseless. All these years, depending on the U.S. to step in if there was a real problem that threatens Japan.・・・・・So if Obama gets us out of nuclear weapons, and Japan is sitting there with no nuclear weapons, Japan is at the mercy of North Korea and China, we are defenseless against North Korea and China and Iran. (Interview with Enola Gay crew member Morris Jeppson

エノラゲイの乗組員とのインタビュー
なかなか解釈が難しですが、FPは

Hiroshima bomber: Japan needs nukes
Tue, 08/11/2009(FP


Interestingly, Jeppson, who was in charge of arming the bomb that destroyed Hiroshima, seems to feel that the time has come for Japan to have nuclear weapons of its own

乗員は、日本は核武装すべきときがきた、と感じている、と解釈したようであります。


at the mercy of
の意の[なすが]ままに[で]、~の言いなりで、~に翻弄}されて、振り回されて


北朝鮮や中国が核兵器を日本に向けている。
日本はそれに対して無防備であるから、日本は北朝鮮や中国に翻弄されている。
日本に何かあれば、アメリカに頼ればよい。アメリカが介入してくれる。
アメリカの一部では日本は核武装すべきだ、という意見がでている。

日本に都合のいいシナリオーーーー

 核兵器保有国はオバマ大統領や広島長崎市の活動に感銘を受けて、みなで核兵器を放棄する。

日本に都合の悪いシナリオーーーー

 北朝鮮や中国が核兵器で日本を脅し、アメリカも自国への損害を考えて介入を渋る、あるいは、介入を条件に、または、不介入をちらつかせて、日本に他の点で様々な要求をする、あるいは、不介入の可能性に怯えて、日本の側から様々な要求をのむ。

 アメリカが日本は十分成熟した民主国家だし、自分もやっかいに巻き込まれるのは嫌だから、日本の核武装を許そう、というシナリオもあるかもしれない。

 他にも様々なシナリオは考えられるでしょう。
 そして、どれが現実的なのかはなかなか難しい。
 みなさまはどのようなシナリオをお考えでしょうか?

 誰もが平和的進捗を望んでいます。

 ただ、核兵器廃絶させるカードも持たない日本が、各国に翻弄されずに済むには、かなり都合の良いシナリオを描かなければならないのではないでしょうか?

 そういえば、日本にかなり都合のよいシナリオだけ描いて、愚かな結果を招いたのはいつの日のことでしたっけ?

・・・・千羽鶴の折り方でも勉強しようっと。



折り紙の折り方






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パスカルのお盆

2009年08月12日 02時02分20秒 | Weblog
 パスカルの賭けPascal's Wagerってのがある。

 神は存在するか、しないか、どっちに賭けるか?

存在する方に賭けて、神が存在して賭けに勝てば、来世の幸福が保障される、神が存在しないで、賭けに負けても失うものはない。
存在しない方に賭けて、神が存在しないで賭けに勝っても、得るものはないが、神が存在して賭けに負けたら失うものは甚大である。だから、理性で神が存在すると証明できなくても、神が存在する方に賭けてみては、どうか、というものである。

 これは反論の方が面白くて、イスラム教徒やブードゥー教徒も同様に彼等の神の存在に賭けるだろうか、それもいいのか、というのとか、そもそも、神が存在する、しない、という 選択肢の設定が可笑しいとかいわれる。面白いのは、無神論者のドーキンの反論で、存在する可能性が多少あったとしても、存在を信じて、神のために、崇拝したり、犠牲になったり、争いあったり、殉教したりして、貴重な時間を浪費するのはもったいないではないか、という。

 とっくの昔に亡くなったうちのばあさんが、夏休みなんぞに、幼い孫のおれら兄弟を連れて外出するとき、仏壇の前で瞑目し手を合わせて、ブツブツ何かいっていた。何いってるんだ、と聞けば、みんな無事に過ごせますように、といってたんだ、という。
 迷信と言えば、迷信で、祈ったからと言って何か効果があるわけではない。時間の浪費といえばそれまでだ。
 
 東京じゃお盆は7月が多いが、8月の地方の方が大半かもしれない。
 ご先祖さまを迎えたり、あるいは送ったりするわけだ。
 死んだ肉親の幽霊なんぞいるわけはない。全く非科学的である。時間の無駄といってしまえばそれまでである。

 しかし、愛するものを失った人々は、そうした儀式を通じて、そうした「死者」と対話し、あるいは「死者」を慰めたり、「死者」に謝罪しながら、行き場のない狂わんばかりの自分の悲しみを慰め、癒し、あるいは、「死者」に対して、生前、義理を欠いた行為、すべきなのにしなかった、すべきでないのにしてしまった行為のこれまた行き場を失った罪悪感を晴らしているのではなかろうか?

 また、不気味な死の世界である「あの世」にいる愛しい「死者」たちとそうして交流することで、「あの世」とこの世とが地続きに交わりあって、漆黒の死の不気味さはむしろ、近しい、親しみのある色調を帯びる。

 理不尽ではある。強迫神経症の儀式のようなものかもしれない。

 しかし、他の神様と喧嘩するわけでもなし、こっそりひっそりやっていて、他人に迷惑をかけるわけでもなし、病的とは言えまい。実在してもしなくても、その存在を信じていようがいまいが、そうした実践が人間の正気を保つ機能を果たしていることもあるのである。かりにそうした儀式や心情を理不尽として排斥し尽くそううという理性があるとすれば、むしろ、そっちの方が凶暴で病的であろう。

 もっとも、こうした「心霊」たちを不幸の原因にして、自分の人生から責任逃れをしようとたり、ひとの心の弱みにつけこんで心霊商売するようなことは困ったものではあるが。

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