"Save a Whale--Harpoon a Jap"ーー(AFP)
世の生さんブログより。
ケアンズで民族差別スローガン
「鯨を救え、ジャップを撃て」
クイーンズランド州最北部で、レンタルのキャンパーバンに、「鯨を救え、ジャップを銛で撃て」と大書されているのが目撃されたことから、7月19日、アンナ・ブライ州首相が、「民族差別行為だ。こういうことは必ずなくす」と発言する事態になった。NICHIGO PRESS
世の生さんブログより。
For Texans in 'Lost Battalion,' real heroes were Japanese-American
実は、テキサスおじさんのブログから・・・戦時中日系人は日本人ということで強制収容された。テキサスの部隊が閉塞状況にあったとき、日系人部隊が志願して救出に向かって、当該部隊を救出した。その勇敢さと米国に対する忠誠心を示したため、日系人は米国で受け入れられるようになった、という。
テキサスおじさんは、米国は分裂しているようで、いざとなるとつよいんだぞおお、とまとめている。
日系米人の方々の苦難と勇敢さに敬意を示したい。
実は、テキサスおじさんのブログから・・・戦時中日系人は日本人ということで強制収容された。テキサスの部隊が閉塞状況にあったとき、日系人部隊が志願して救出に向かって、当該部隊を救出した。その勇敢さと米国に対する忠誠心を示したため、日系人は米国で受け入れられるようになった、という。
テキサスおじさんは、米国は分裂しているようで、いざとなるとつよいんだぞおお、とまとめている。
日系米人の方々の苦難と勇敢さに敬意を示したい。
Death by Geoffrey Scarre
紀伊国屋でなぜか棚積みされていておもしろそうだから、買っちゃった本。
感動するほど面白かったとは言えないが、まあまあかな。
英語圏のわりに、ハイデカーやヤスパースなどにも言及している。
「死」に関する様々な断面に触れている。
死とは個体、ないし個人の消滅であるが、人間の死の基準については心臓死説、脳死説などあるもののいずれにせよ、絶対的な明確さをもつものではなく、昼と夜のように区別はあっても、どこからとはっきり分断できるものではない。
死後における霊魂の不滅については、かなり疑わしい心身関係の二元論をとらなければ維持できない。
動物は危険な状況を察知するが死の観念がない。自己という観念がない。自己に関する物語がない。そして、Aは死んだ。Bは生き残った。⇔ 彼は死んだ。私は生き残った。→ 私は死ぬ。息子は生き残る、という具合に他人の死から自己の死を推論しない。
死の実存的な意味について、ハイデカーやトルストイなどを引用し、人が死ぬとは思っていても、自分が死ぬとは思っていない、その日常生活における非本来的なあり方から、死に向かう存在として自己の自覚によって、本来的なあり方を選びとることが出来るとする。有限であることを自覚することによって有限な人生を有意義に生きようとする。
もっとも、無限の時間あるいは、宇宙から見れば、有限な存在者、そしてその人生など泡のような存在であり、無意味ではないか? 著者は、あえてそうした宇宙規模の視点、無限の時間的視点を取る必要はあるまい、という。有限の存在者でも一定の痕跡や次世代への影響を与えることができるーそれでよいではないか、と。
そして、逆に、死ぬことのない世界はかなり退屈だろう。サザエさんは長寿番組であるが、サザエさんを何十年も見ている人はいないだろう。さすがに飽きるのである。登場人物のカツオになったとして、彼の意識からすれば、さすがに同じように飽きるだろう。長ければいいというものではない。
儚いから貴重であり、輝くのである。
また、仮に終わりのない生命が与えられたとすれば、かえってある行動の意味がなくなる。いつやっても同じだからである。
死に対する不安・恐怖を克服しようとして死は、善でも悪でもなく何ものでもない、と唱える思想家たちがいた。
生きている間には死はない、死んでしまえば、あなたはいない、また、
生まれる前に自分がいなかったことを嘆く必要がないように、死んだ後に自分がいない世界を嘆く必要もないーーーと。
確かに死は経験されるものではなく、人生の一部ではない。しかし、死が悪いことではない、とは言えない。過去を変えることはできないが、将来を変えることはできる。自分が変えることができる将来に執着を持つのは必ずしも不合理ではない。そして、変えることができる将来に望みがあり、やり残した事がある以上、死はそうした企図を奪い、私はそうした将来を失い、その程度に応じて死は悪しきものとして表象される。もっとも、やり残したことがなければ、死は悪いものとしてではなく受け入れることができるかもしれない。
例えば、花子が15才でその幸福な生を終えた、とする。生きていれば、彼女は結婚して子供を産んでさらに幸福な生活をしていたかもしれないーーと考えれば、彼女が15歳で無くなったことは不幸ではないか? しかし、いつ彼女は不幸になったのか? 著者は本来的変化と相対的変化(Chambridge change)という概念を導入する。幸子はは幸夫と結婚する。幸夫が死ぬ。幸子は主婦から未亡人になる。しかし、幸子そのものが変わったわけではない。幸子が他(の実体)との関係が(その実体の変化に伴って)相対的に変化したにすぎない、という。とすれば、人は他との比較において、死後に不幸になる、あるいは、死後相対的変化をすることもありえるだろう、とするーーーまあ、ここいらは非常にテクニカルな話ではある。
死に対する態度も文化によってかなり異なる、と言われる。死は文化や時代により勝利として、悲劇として、完成として、あるいは、怨恨として、あの世への門として、あるいは、存在の句読点(点や丸、セミコロンやピリオド)として表象される。そのなかで面白いは、ワグナーのトリスタンとイゾルデ が、愚かな世間に邪魔されずに死によって永遠の愛を成就・完成する、といったドイツロマン主義の伝統に位置づけられている、という。これってなんか日本の心中ものを彷彿とさせるな。*
最後に死者の存在論的性格とそれに対する態度。
死者については、昨今の社会学者などは、過去の人物に関して、学者による研究、あるいは、テレビや映画、小説などの創作、あるいは博物館に見学に行くなどを通じて、死者は蘇り、現存する社会の一員として、機能しているとするものがあるが、存在しないものが蘇るという社会学者的な譬喩に疑義をていしている。哲学者らしく、むしろ、死者も理性的に人間性を具現するものとして、カントのいう目的の王国の、非時間的な存在者の一員として敬意をもって処遇されるべきものとするーーー死者におべんちゃらをいう、という意味ではもちろんない。
ちょっとおおざっぱすぎるけどこんな感じかな。
因みに、おれとは死について生についても把握の仕方は異なる。
* なぜか、神戸事件の滝善三郎の切腹(seppuku)の様子を英語版で読んだことを思い出した。
凄まじい。こうした時代の人々にとってはかえって、日々の些細な事々も、強烈な鮮明さをもって迫っていたのかもしれない。
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紀伊国屋でなぜか棚積みされていておもしろそうだから、買っちゃった本。
感動するほど面白かったとは言えないが、まあまあかな。
英語圏のわりに、ハイデカーやヤスパースなどにも言及している。
「死」に関する様々な断面に触れている。
死とは個体、ないし個人の消滅であるが、人間の死の基準については心臓死説、脳死説などあるもののいずれにせよ、絶対的な明確さをもつものではなく、昼と夜のように区別はあっても、どこからとはっきり分断できるものではない。
死後における霊魂の不滅については、かなり疑わしい心身関係の二元論をとらなければ維持できない。
動物は危険な状況を察知するが死の観念がない。自己という観念がない。自己に関する物語がない。そして、Aは死んだ。Bは生き残った。⇔ 彼は死んだ。私は生き残った。→ 私は死ぬ。息子は生き残る、という具合に他人の死から自己の死を推論しない。
死の実存的な意味について、ハイデカーやトルストイなどを引用し、人が死ぬとは思っていても、自分が死ぬとは思っていない、その日常生活における非本来的なあり方から、死に向かう存在として自己の自覚によって、本来的なあり方を選びとることが出来るとする。有限であることを自覚することによって有限な人生を有意義に生きようとする。
もっとも、無限の時間あるいは、宇宙から見れば、有限な存在者、そしてその人生など泡のような存在であり、無意味ではないか? 著者は、あえてそうした宇宙規模の視点、無限の時間的視点を取る必要はあるまい、という。有限の存在者でも一定の痕跡や次世代への影響を与えることができるーそれでよいではないか、と。
そして、逆に、死ぬことのない世界はかなり退屈だろう。サザエさんは長寿番組であるが、サザエさんを何十年も見ている人はいないだろう。さすがに飽きるのである。登場人物のカツオになったとして、彼の意識からすれば、さすがに同じように飽きるだろう。長ければいいというものではない。
儚いから貴重であり、輝くのである。
また、仮に終わりのない生命が与えられたとすれば、かえってある行動の意味がなくなる。いつやっても同じだからである。
死に対する不安・恐怖を克服しようとして死は、善でも悪でもなく何ものでもない、と唱える思想家たちがいた。
生きている間には死はない、死んでしまえば、あなたはいない、また、
生まれる前に自分がいなかったことを嘆く必要がないように、死んだ後に自分がいない世界を嘆く必要もないーーーと。
確かに死は経験されるものではなく、人生の一部ではない。しかし、死が悪いことではない、とは言えない。過去を変えることはできないが、将来を変えることはできる。自分が変えることができる将来に執着を持つのは必ずしも不合理ではない。そして、変えることができる将来に望みがあり、やり残した事がある以上、死はそうした企図を奪い、私はそうした将来を失い、その程度に応じて死は悪しきものとして表象される。もっとも、やり残したことがなければ、死は悪いものとしてではなく受け入れることができるかもしれない。
例えば、花子が15才でその幸福な生を終えた、とする。生きていれば、彼女は結婚して子供を産んでさらに幸福な生活をしていたかもしれないーーと考えれば、彼女が15歳で無くなったことは不幸ではないか? しかし、いつ彼女は不幸になったのか? 著者は本来的変化と相対的変化(Chambridge change)という概念を導入する。幸子はは幸夫と結婚する。幸夫が死ぬ。幸子は主婦から未亡人になる。しかし、幸子そのものが変わったわけではない。幸子が他(の実体)との関係が(その実体の変化に伴って)相対的に変化したにすぎない、という。とすれば、人は他との比較において、死後に不幸になる、あるいは、死後相対的変化をすることもありえるだろう、とするーーーまあ、ここいらは非常にテクニカルな話ではある。
死に対する態度も文化によってかなり異なる、と言われる。死は文化や時代により勝利として、悲劇として、完成として、あるいは、怨恨として、あの世への門として、あるいは、存在の句読点(点や丸、セミコロンやピリオド)として表象される。そのなかで面白いは、ワグナーのトリスタンとイゾルデ が、愚かな世間に邪魔されずに死によって永遠の愛を成就・完成する、といったドイツロマン主義の伝統に位置づけられている、という。これってなんか日本の心中ものを彷彿とさせるな。*
最後に死者の存在論的性格とそれに対する態度。
死者については、昨今の社会学者などは、過去の人物に関して、学者による研究、あるいは、テレビや映画、小説などの創作、あるいは博物館に見学に行くなどを通じて、死者は蘇り、現存する社会の一員として、機能しているとするものがあるが、存在しないものが蘇るという社会学者的な譬喩に疑義をていしている。哲学者らしく、むしろ、死者も理性的に人間性を具現するものとして、カントのいう目的の王国の、非時間的な存在者の一員として敬意をもって処遇されるべきものとするーーー死者におべんちゃらをいう、という意味ではもちろんない。
ちょっとおおざっぱすぎるけどこんな感じかな。
因みに、おれとは死について生についても把握の仕方は異なる。
* なぜか、神戸事件の滝善三郎の切腹(seppuku)の様子を英語版で読んだことを思い出した。
"I, and I alone, unwarrantably gave the order to fire on the foreigners at Kobe, and again as they tried to escape. For this crime I disembowel myself, and I beg you who are present to do me the honour of witnessing the act."
凄まじい。こうした時代の人々にとってはかえって、日々の些細な事々も、強烈な鮮明さをもって迫っていたのかもしれない。
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