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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東海道品川宿を歩く~その三十:鮫洲~その一

2014-11-26 18:26:46 | 品川区
東海道品川宿を歩く、今回は鮫洲である。品川宿という括りで言えば、青物横丁の辺りで南品川宿も終わっていて、宿場の外へ出ているのだが、鮫洲までは旧東海道が残されているので、そのまま辿っていきたいと思う。さてこの鮫洲と言うところも、見て歩くと面白いところだった。東京の人にとっては、運転免許試験場がある場所として昔から親しまれてきているのだが、それよりも古い歴史を辿って品川の宿場町から見てくると、また少し違った側面が見えてきて、興味深く思えた。

「『品川宿と鮫洲の猟師町』
江戸湾沿いには、いくつかの漁業専業者集落があり、これを猟師町(りょうしまち)または浦といいました。品川地域においては、品川浦の南品川猟師町と、御林浦の大井御林猟師町の2つの猟師町がありました現在の鮫洲にあたる大井御林猟師町は南品川と浜川の間にあり、江戸幕府の直轄林だった御林を開発してつくられたことからその名がついたといわれています。 品川浦・御林浦は御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)の一つとして、収穫した魚などを江戸城に献上する義務がありました。御菜肴八ヶ浦とは、元浦の本芝、金杉をはじめとして、品川・御林・羽田・生麦・神奈川・新宿の浦々で、力レイ・あいなめ・俥海老などをはじめ、様々な魚介類の収穫がありました。また、海苔の産地でもあり海苔の養殖もおこなわれるようになり、19世紀初頭には養殖が大森・羽田方面にまで広がっていきました。」
「『鮫洲の地名の由来』
「鮫洲」の地名の由来は諸説ありますが、鎌倉時代、品川沖で大鮫が死んで浮いているのを漁夫が見つけ、この鮫の腹を割いてみると、聖観音の木像が出現。この聖観音は鮫洲観音と呼ばれ「鮫洲」の地名になったといわれています。この観音像は海晏寺の本尊として奉られています。」(鮫洲商店街サイトより)

 ということで、前回掲載した海晏寺が、鮫洲という町と深い繋がりを持っていることが分かる。そして、この旧東海道を下って来てこの町に入ってきたときに、どこか雰囲気が少し違うことを感じたのだが、それが猟師町であったということで納得したりもする。このシリーズの最初の方で品川浦の南品川猟師町に触れたが、漁師と書かずに猟師と書くところが面白い。旧東海道は緩く蛇行しながら、進んでいく。


 街道筋らしい民家もある。とはいえ、建て替えも進行していて、昔を偲ばせるような建物が多くあるわけではない。むしろ、ほとんどないと言う方が正しいだろう。


 旧東海道から京急鮫洲駅へ向かう道。モルタル仕上げの片流れの屋根を持つ看板建築。運転免許試験場に纏わるビジネスが盛り上がった頃の建物だろう。


 今は仕舞た屋になっていたりする。かつては、大勢の人で賑わい、代書屋も繁昌していたものだった。


 駅に近い、当時の看板が残る店。私にとっては懐かしくも思うのだが、この店が繁盛していた頃の背景を知らない世代には、何故こういった代書屋が繁昌していたのかがもう分からなくなっているのではないだろうか。
 まず、かつては免許の更新も試験場に行かなければならなかった時代が長かった。最寄りの警察で手続きできるようになった事は、こういった商売には大きな打撃になった事だろう。そして、以前は更新の際にも証明写真が必要であったし、さらに少し前の時代だと、申請書類を和文タイプで打ってもらう事が必要だったりしたのだ。ワープロやパソコンが当たり前になる前の時代には、和文タイプというものがあった。当時の仕組みでは、申請書類の和文タイプで打ったものが、免許証にそのままなっていたのを覚えている。だから、代書屋で打ってもらう必要があったのだと思う。この辺はさすがに、かなり昔のことなので、私もうろ覚えになって来ているけど。
 その後、書類は自分で手書きすれば良い様になり、写真もいらなくなっていった上に、試験場まで行かずに更新が出来る様になっていき、今に至るのだ。だからこの看板のタイプは和文タイプのことで、申請書の記入も、証明写真も、全部できますよと言う看板なわけである。今ではどれも試験場に行けば済むようになってしまっている。


 その向かいの角、今は仕舞た屋になっているようだが、この建物は年代を感じさせる。試験場で賑わうようになるよりも以前の、猟師町であった頃からのものだろう。


 私が最初に免許を取得した頃の1980年代には、代書屋が大繁盛していた時代だった。バイクブームが真っ直中であった時代でもあったから、試験場に行く途中のビルの一階に、カワサキがバイクのショールームを設けていたのを思い出す。その頃は、朝から人の流れが途切れることなく試験場へと続いていて、道を知らなくても付いていけば試験場へと行けたものだった。また、30日免停になって短縮講習を受けるのに来たこともあったっけと思い出す。今では優良運転者であるから、試験場とは縁遠くなったものだ。


 その鮫洲駅前から、細い路地を入って行くと、青雲稲荷神社があった。元は、泊船寺の中にあったらしい。場所柄も、前回掲載した泊船寺の墓地と隣り合った位置でもある。


 水盤も年代を感じさせるもの。


 社の直ぐ後ろを京急の高架線が走り抜けていく。かつては、直ぐ後ろの地平を線路が走っていた訳である。


 小さな稲荷社だが、境内の一隅には池が作られていたりする。


 そして、常夜燈が寄進されていたりして、猟師町時代に栄えた頃の名残がこんなところにあるのかとも思う。


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