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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

桐ヶ谷を歩く~その三:桐ヶ谷斎場から長應寺へ

2015-01-22 18:53:37 | 品川区
桐ヶ谷から出る前に、もう一度氷川神社の中を抜けて裏手に出てみる。そこは高台の住宅街の中なのだが、真っ直ぐに進んでいくと、桐ヶ谷斎場の横手に出てくる。桐ヶ谷も都内の斎場としては古くから知られたところ。Wikipediaによれば、「三代将軍徳川家光の時代に芝三田の長松寺の荼毘所を当地の霊源寺に移したのが始まりといわれている。」とある。明治18年に寺と分離し匿名組合の経営となり、その後昭和4年に博善社の経営に革って今に至るという。博善社は、明治時代にいろは大王といわれた木村荘平が興した会社だが、変遷はあれども今日に至る歴史を誇っている。


その斎場の真向かいにあるのが、浄土宗の霊源寺。江戸時代初期に林譽霊源和尚が創立したという。寺のサイトによれば、火葬の職務を東京博善社に譲渡したのは、大正7年と出ている。


元々は、上記の三田の長松寺の末寺で、三田豊岡町にあったものが桐ヶ谷に移ったという。おそらく、それが徳川家光の頃ということなのだろうか。落語の「黄金餅」の舞台でもあるという。火葬寺と呼ばれていたからだろう。境内も現在の10倍もある、広大な寺であったようだ。


その横手をさらに進んで行くと、細くなる道の両側に寺が並ぶ。霊源寺の裏手にあるのが、専修寺。一行山専修寺という浄土宗のお寺。永禄2年(1559)青山に創建し、天正19年(1591)赤坂堀端へ、寛永2年(1625)には赤坂一ツ木へ移転したという。明治40年に桐ヶ谷へ移転して来た。おそらくは、赤坂一ツ木で同地にあった近衛第三連隊の兵営拡張のために移転したものと思われる。ただし、どうやら現在地へ移ったのはより新しいことのようで、西五反田の中原街道に近いところにあったようだ。


全体に真新しい堂宇。


本堂もまだ木の香りもかぐわしい雰囲気。


境内には圓光大師霊場の石塔が置かれている。浄土宗の開祖、法然のこと。安永九年(1780)の銘がある。


その向かいには、桐ヶ谷寺。泉岳寺の塔頭として江戸時代の創建の歴史を持つ寺で、昭和30年にここに移転してきた時、桐ヶ谷寺と改めたそうだ。曹洞宗の寺。(猫のあしあとサイトより)


その先も寺があって、兵に挟まれた道が長く延びている。真夏に歩くのは辛そう。


すると、突然立派な山門があって、驚かされる。芳荷山長應寺という法華宗陣門流のお寺。


圧倒されるような山門にしばし見入ってしまう。このお寺のことを調べてみると、実に波瀾万丈の運命を辿っていて、これにも驚かされた。開山は文明11年(1479)に三河国宝飯郡上ノ郷城主・鵜殿藤太郎長将の寄進によるといい、永禄5年(1562)には兵火によって焼失、その後鵜殿永忠の養女おとくの方が徳川家康の側室となったことで、江戸入府の後日比谷門内に再興されたという。


山門の細工を眺めているだけでも、しばし時間を忘れる。
その後に、下谷竹町、八丁堀、そして芝伊皿子と移転したが、寛永12年(1635)には、丸山本妙寺に続いて日蓮門下勝劣派の触頭となった。丸山本妙寺は、今は巣鴨にある寺である。


扉も透かし彫りが施されている。
ところが明治維新で寺は衰微してしまい、明治30年に移民の数を増していた開拓の地、北海道へと移転を決意し、明治37年に移転してしまった。この北海道の長應寺のその後も、波乱に富んだ物語になっているが、今も幌延の地に根付いている。


境内は広大なもの。
伊皿子に残された塔頭の蓮長院住職は、残った三ヶ院と牛込の連光寺を合併し、現在地へと明治39年に移転して来た。檀家の墓や長應寺の墓碑や仏像もこちらに引き継がれたので、長應寺と呼ばれ続ける事になり、連光寺を一度は名乗ったものの、長應寺を名乗れるようになったそうだ。


大正9年に本堂と庫裏が完成し、昭和12年に本堂の大修復と山門の建立が行われた。ところが、昭和20年5月の空襲で山門を残して、一切を焼失してしまった。昭和39年に再建されたのが、現在の本堂であるという。


墓地が隣接しており、桐ヶ谷斎場方面に向けて空が広々としている。


少し行くと、品川宿からの道の時に掲載した、地蔵の辻で分かれた品川用水の通っていた道に出る。ながく続くブロック塀は、星薬科大のテニスコート。



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