東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(60)生地死地(つづき)

2014-03-26 22:04:50 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、両国に縁の深い作家、舟橋聖一から斉藤緑雨へと話が移っていく。

「舟橋聖一が生まれた明治三十七年に、おなじ横網町で斎藤緑雨が亡くなったことは、まえに述べたとおりである。十二月二十五日の出生と、四月十三日の死亡とでは八ヵ月半ほどのへだたりはあるが、横網町にかんするかぎり、たいへん興味ぶかい事実である。文壇の帝王ぶりと、正直正太夫の貧窮とでは、その生き方に大きなちがいがあるが、双方の歯に衣をきせぬ言い方は、さすがに文学者の典型であった。」

 舟橋聖一は名前くらいは知っているというレベルだったが、斉藤緑雨は知らなかった。舟橋聖一よりも更に前の世代の人であり、しかも僅か三十六才での夭折という短い人生を駆け抜けた人物であったことを、このエッセイをきっかけに知ることが出来た。もっとも、「ギヨエテとはおれのことかとゲーテ云い」というのが、この人の作であることも初めて知った。この警句は昔から何度も聞いたことのあるものだ。

「緑雨が息をひきとったのは横網町二丁目七番地という。前年の十月二十三日にそこへ引越したのだが、馬場孤蝶はそのころの緑雨について、つぎのように書いている。
「・・・・・・誰にも知らさずに、隠棲してゆつくり療養がしたいから、誰にも云はずにゐてくれと、固く口止めされたので、已むを得ず、人から聞かれても、黙つてゐた。家は御蔵橋より一町程手前のところを右に曲つた路次と云つていゝくらゐの狭い横町の中程の右側の三間程の平屋であつた。何処かの隠居所の一部を仕切つたとかいふので、狭くはあつたが、そんなに汚い哀れな家ではなかつた。あのあたりは、先年の震災に一掃されてしまつたので、今日では、周囲がまるで変つてゐるであらう。」
 これは改造社版『現代日本文学全集』第七篇(柳浪・眉山・緑雨の三人集。昭和四年三月刊)に孤蝶が執筆した緑雨略伝の一節である。」

 今となっては、この場所は正に両国駅の真ん前というべきところになっている。両国駅が開業したのは、明治37年のこと。緑雨が亡くなる、そのほぼ一週間前に千葉方面へのターミナルとして開業している。きっと、町はその賑わいの中にあったのだろうが、その直後に彼は短い人生を終えている。
 今も残る両国駅舎は、関東大震災後に再建されたもの。それでも永らく、房総方面へのターミナル駅としての使命を果たしてきた歴史を持っている。今は、両国始発の列車もなくなり、ホームも減ってしまい、往年の雰囲気が大分薄れてしまった。


 これは現在の緑雨旧居跡。文中にある通り、関東大震災による火災によって、この界隈は焼失している。その後に、作り直された町が今も残っている。戦災の影響を墨田区内ではあまり受けていない、極めて希少な地域になっている。旧居跡を示す標柱の文章は下記の通り。
「緑雨は、慶應三年(一八六七)伊勢国神戸に斉藤利光、のぶの長男として生まれました。本名賢、のち緑町に因み緑雨と号しました。十一歳の時、両親と上京、やがて父が藤堂家の侍医となったため本所緑三丁目(現二丁目)の藤堂邸に住みました。小学校は弥勒寺に近い土屋小学校や江東小学校(現両国小)他数校を転々とし、最後は明治法律学校(明治大学の前身)を中退して終わっています。
しかし、年少から才気あふれ、筆力は冴え、観察は鋭く人々を驚嘆させました。十八歳の時、其角堂永機に俳諧を学び、その紹介で仮名垣露文を訪ね、彼が主筆の「今日新聞」の校閲係となりました。やがて作家の途を進み、『油地獄』等の傑作や、辛辣な文壇批評で知られました。明治三十七年四月、奇行の多い人生をこの地に閉じました。戒名「春暁院緑雨醒客」は幸田露伴がつけました。
 平成三年三月 墨田区」


「本所緑町に育ち、横網町で死んだ彼について具体的なイメージをあたえてくれたのは、上田萬年であり、馬場孤蝶である。萬年は少年時代からの友人でった。彼の歿後、帝国文学会でおこなった講演の記録「故斎藤緑雨に就て」(「帝国文学」明治三十七年六月)では、「私共の記憶致しまする所によると、明治十二三年ですから、緑雨氏の十二三の頃でありませう、其時分に雑誌を拵へることを友達中で始めました。無論貧乏書生のことですから、活版などにすることは出来ませぬ。そこで駿河半紙を買つて来てそれへ清書して、雑誌を拵へる。其時分に編輯長となつて、総ての雑誌の材料を友達の所から持つて行つて、それを書き直して、表紙をつけて、『花鳥の友』だとあ、『浮世の義理』だとか大分小さいやつらの仕事としては、マセたことでしたが、何にしろそれを緑雨氏が引受けてされたのであります」と語る。萬年は回覧雑誌の仲間として一時期をすごし、緑雨の亡くなるまで交際をつづけた言語学者だった。それだけに緑雨にかんするおもしろいエピソードをつたえている。」

 夭折した若き文学者の人となりや業績が後の世へと残されていくには、やはりその人を大事に思う友人があればこそということと思う。明治十年代という頃に、雑誌造りを志すというのは、時代背景を考えればかなり早熟であり、また流行の先端を行くセンスの持ち主であったと言えるのではないだろうか。『花鳥の友』とか『浮き世の義理』というタイトルもなかなか面白そうだ。緑雨という人に、少しずつ興味が湧いてくる。
 今でこそ、パソコンが普及し、ネットが普及したことで、同人誌とか、ブログとか、様々なメディアがあり、多様な表現の手段のある時代になっているが、ちょっと前まではガリ版であったり、手書きのコピーであったり、そんな手段で少部数の自分の雑誌を造ったという経験を持った人は多いのではないだろうか。

「孤蝶はさきほども記したように、緑雨の死の前後を記録した人だが、つきあいはじめたのは樋口一葉につながる縁であった。彼女の歿後、翌三十年の夏ごろというが、本郷丸山福山町の樋口家で緑雨に出会っている。そのときは彼は早々と帰ってしまった。しかし「その前から一葉女史の死んだ時に斎藤君が色々世話をしてくれたと云ふ事を、戸川秋骨君から聴いて居つた」と「明星」の緑雨追悼(辰歳第五号、明治三十七年五月)で語つている。
 緑雨は一葉の才にほれて、こまごまと面倒をみていた。鴎外をとおして青山胤通に診察をたのんだり、一葉が危篤となるやすぐさま「文学界」同人に後事の相談をもちかけている。秋骨は「斎藤緑雨」(「文章世界」明治三十九年八月)のなかで、明治二十九年十月下旬のある夜、緑雨の訪問をうけて「女史の死に関する事」をきき「深い感銘を余の脳裏に刻むだ」といい、「実に余は緑雨君の事を忘れる事が出来ない」と書いている。孤蝶がそれを聞きおよんでいたことはいうまでもない。「一葉女史との交りは吾々より浅いにも関はらず、親切に世話をしてくれたと云ふ事をきいて、兼々謝意を表して居つた」というが、「文学界」の仲間たちは一葉の死を楔機として、情に厚く、思慮深い緑雨とつきあうことになる。死にのぞんだときの緑雨が、あずかっていた一葉の遺稿を樋口家に返すよう孤蝶に托したというのも、必然のなりゆきであったとおもわれる。
「一葉の文才を評するのには、東京、江戸と云ふ事を離れては駄目だ」
 と緑雨は語っていた。それは彼自身にもあてはまるごとである。」

 樋口一葉が、やはり短く苦労の多い人生を送ったことは良く知られているが、彼女のよき理解者であったことを知ると、次第に緑雨という人が立体的に感じ取れる存在になっていく。それにしても、一葉もそうだったと思うのだが、緑雨という人も溢れる才能を持ちながら、貧困という生活苦の前に大いに苦しみながらその生を終えている。戦前やそれ以前の日本の貧しさというのは、断片的に得られていく情報から見ても、本当に厳しいものであったと思う。かつての日本の社会が何も良いところのない暗黒のようなものであったというつもりは、もちろんない。だが、貧困の深さ、そして人の命が極めて軽いものであったということについては、やはり何ともいえない気持になる。都会においてもこれほどであり、地方に行けば更に酷い状況が広がっていたことは、知っておくべき事だろうと思う。
 そんな時代に、一葉という輝きに出会った緑雨の献身は、彼自身のおかれた状況を知るほどにより貴重なものであったことが知れる。同時代の人達にも、その心根が伝わったからこそ、孤蝶がこのように記しているのだろう。

「「われは幼きころ深川に住みぬ、後本所に移りぬ」(「おぼえ帳」)といっていた緑雨だが、彼の下町認識をさぐってみると、深川・本所には純粋な江戸っ子が多いという。しかしそこにもすこしちがいがある。深川は魚河岸とおなじように土着ものが多いが、本所では、「眼先の一寸に明るく足元の三寸に暗き江戸つ子」が生存競争のことわりにせめられて、やむを得ず大川をわたってきたというのだ。「両国橋より来る引越車の、見るに運好きはあらで、孰れもそれの傾きたるなり」と観察する。彼らはすこしでも安い家賃の家に住もうとしていた。そのため本所はつねに東へひろがってゆく。明治前半期の隅田川東岸についての率直な感想である。」

 江戸から明治に代わり、大きく変わったのは、士農工商が廃止され、それぞれ暮らす場所もお上の決めたところではなく、おのおので好きなところに暮らせるということがある。江戸時代には、武家地は将軍家から決められており、武士はその決まった場所に住んだ。町人は町人で、これも町として決められた中で暮らしていた。明治維新によって、これが崩壊し、同じ町内で大商人から貧乏人までが一緒になって暮らしていたシステムが崩壊したわけである。
 その結果、富裕層は西へ行き、庶民は東へという流れが出来ていたようだ。この江戸の町の崩壊は、明治を通して進行していくのだが、決定的な変化をもたらして、周辺地域の都市化までを急激に推し進めることになったのは関東大震災であった。だが、それ以前からこの動きは始まっていて、ジリジリと進行していたことが分かる。

両国橋の上から、隅田川上流を望む。


「文明の進歩にたいする彼のいらだちが眼にみえるようである。このころ厩橋は鉄橋に改架されていたが、両国橋はまだ昔のままである。大川のあちこちに渡しがあった。蒸汽船の航行に嫌悪の情をもよおすところほ、根っからの文雅風流の人であったからであろう。
 緑町時代の緑雨について、内田魯庵は「なかなかの紳士」だったと書いている。貧乏話をして小遣銭に困るような泣き言をいっていても「いつもゾロリとした常綺羅で、困つてるやうな気振りは少しもなかつた」という。リュウとした服装で「看板法被に篆書崩しの斎の字の付いたお抱え然たる車」を乗りまわしている。どこへ行っても俥を長々と待たしていた。藤堂家の部屋住みでできたことかもしれない。」

 緑雨という人、生まれは三重県鈴鹿の人だというが、10歳で上京して東京人となっている。そこで明治の文明開化の風潮にのらず、近代化を苛立ちの目で眺めていたというのは、確かに文雅風流の人というに相応しい気がする。荷風よりも遙かに上の世代である。
 そして、困っていてもそれを形にして表すことを良しとしない、そんな気風も感じられる。泣き言を言うほどというのは、実際困っていたに違いないのだが、そうでありながらという行動をしてしまうというのは、理解出来るところがある。

「ところが、父親の死亡で本郷の下宿生活になると、紳士風が失われて書生風になった。前記の「おぼえ帳」のなかに、
「○うなぎ縄手の名、今は全く忘れられたれども、本郷の開化は最も新しきものなり、書生によりてなされたる者なり、雑誌と牛肉と巻煙草との上に於て進歩したるものなり、さる頃よりわれもこの区の下宿屋に在り、下橘屋はこの区の勢力なり、商品は総べて下宿屋向なり、江戸つ子よりいへば本郷は村なり、宿場なり、衣食住に就ての誤解者が巣窟なり、肩掛着たる束髪の佳人、月あかき夜を厭はず内に入りて蘿蔔直切りたまへば、たて掛けたる葭簀の外に黒き高帽の才子、髭をひねりて待ちたまふか如きは、到底他区にては看得可からざるものなり。」
「○威権堂になどいふ声を本郷にて聞くときは、浦里が恐び泣きすりやを本所にて聞くときなり、其差異を簡畧に示すものは、銭湯と縁日となるべし。」
「拒ぼえ帳」には明治の東京の二つの面がうまくとりだされている。生活に敗残のおもいをいだいて大川をわたってゆく人、彼らは時勢についていけなかった。地方から出てきて山の手の新開地に住むインテリ階層、彼らは外来のあたらしい生活をとりいれようとする。東京の変化はまさにここからはじまっている。江戸以来の習性を身につけてきた緑雨にしてみたら双方とも諷刺の種であったにちがいない。反時代的感性をもっていた彼の言葉からは、涙とともに笑いがきこえてくる。東京を好み、東京人以上に東京を愛していた彼は、冷静にそれをうけとめている。」

 本郷に暮らした時代があったと聞けば、やはりより身近に感じられる様な気分になる。私は小中学校を文京区に通っていた。あの私にとっても馴染み深い町で、それよりも遙か昔に、緑雨がくらしたのかと思うと不思議な気持になる。江戸から東京へ、江戸から明治へと言う大きな変革の時代の中で、江戸以来の習性を身につけていたという緑雨。変わりゆく東京、そして変わりゆく人々、それを緑雨も見つめていたのだというところに、勝手に親近感を覚える。
 時代の趨勢に流されることなく、自分の感覚、意識で東京を愛し、見つめていたのだと言うことが、伝わってくる。ここに描かれている本郷の風情など、時代が変わっても、理解出来る様に思う。

「彼はそれからたびたび住居をかえた。上田萬年によると十数回というが、駒込蓬莱町、壱岐坂上、浅草向柳原、丸山新町、そして市川国府台、また森川町、向柳原、さらに病気療養のため鵠沼、小田原へ移った。明治三十五年の暮、東京にもどってから浅草須賀町に、千駄木林町、そして最後が本所横網町であった。萬年は彼の転居ぶりをじっとみつめていた。
文部大臣が十年に十一入かわったことの例にたとえて、更迭がこのように頻繁におこなわれては教育方針が立たぬ、それとおなじように「何度も転居してあるいては、考への纏りやうがない、まして善い大きな考への出よう筈がない」と手厳しかった。」

 確かに、短期間でこれだけ転居していては、殆どそればかりという日々になっていたのではないかとすら思えるほどだ。見ていくと、駒込蓬莱町、壱岐坂上、丸山新町、森川町、千駄木林町が本郷周辺ということになる。浅草向柳原に二度、市川国府台、療養のためという鵠沼、小田原があって、最後は本所横網町ということになる。本郷界隈が気に入っていたというのは間違いなさそうに思える。だが、いくら何でもこれ程引っ越しばかりというのはとも思える。
 病気療養といいながら、落ち着く間もないように東京に戻ったのは何故なのだろうか。殆ど一年と同じ所に暮らすことなく、転居を繰り返している。かつての東京は、貸家が数多くあって、大半の人はそこで暮らしたから、気軽に引っ越せたとも聞くし、引っ越しが趣味であったような話を聞いたこともある。だが、緑雨は病を押してまで転居を何故繰り返していたのだろうか。

「本所を出て十年後に本所へもどることになったのは、彼の人生の帰結であったのかもしれない。その家は隠居の貸家だった。両国百本杭の交番から伊達家へむかう細い道にある長屋の四軒目の家であった。後年、といっても震災前のことだが、馬場弧蝶は「本所横網」に、緑雨旧居をさがして「その家は未だ存して居るやうに思ふ」と書いた。百本杭はとうに影をなくしている。町も広くなった。彼は緑雨をおもいおこしながら川岸を厩橋のほうへと歩いている。
 孤蝶は露伴、逍遙らにくらべたら年若く、緑雨とは短い交際であったが、こころからなる緑雨追悼を書いた。それは横網町の名とともに忘れがたい。彼の死期の静穏であったことに敬意をあらわしている。明治三十七年四月十四日、幸田露伴、与謝野鉄幹とともに、歩いてその枢を日暮里(町屋)の火葬場へ送る状景は、きわめて印象的である。隅田川をわたり浅草馬道のあたりにさしかかったとき、緑雨の法講をつけることを約束していた露伴は、「どうだ、春暁院緑雨醒客としては。そうすると春の暁に対して、醒客の醒めるという字がきいてよくはないか」
 と言った。鉄幹も孤蝶も、至極よいからそれにきめようと答えたというのである。

 緑雨を取り巻く人々の彼への想いが胸を打つ。弧蝶は、短い付き合いの中で、緑雨という人の持ってる人間性に惹かれたのだろうか。露伴、鉄幹といった明治文学の巨人たちにとっても、緑雨という存在が決して小さなものではなかったことを、この話は感じさせてくれる。緑雨への想い、そしてこの時代の人達らしい、死というものとの向き合い方をも感じさせてくれる。この時代、まだまだ容易く人の命は失われていったものだった。そんな背景があるからこそ、夭逝した友への思いの表し方にも、どこか覚悟のようなものを感じさせられるように想う。
 緑雨が火葬に付された町屋の火葬場というのも、ちょうどこの明治37年に現在の姿になっている。どうも、緑雨さんという人、そういうタイミングになる人なのだろうか。ただの偶然とはいえ、なんだか、不思議な感じがする。

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