さて、池上道を進むのだが、通り過ぎてしまった西光寺がやはり気になるので、改めて訪ねてみた。ちょっと戻る形になるが、行ってみて良かったと思う様なお寺でもあったので、まずはそちらから。
装飾的ではないが、落ち着いた雰囲気の山門。簡素だが、質実剛健といった雰囲気がある。
「創建は鎌倉時代の弘安(こうあん)9年(1286年)とされ、ここも桜の名所として知られ、立春から70日目ころより咲きはじめる花は単弁(ひとえ)の「醍醐(だいご)桜」や「児(ちご)桜」が挿絵にも描かれています。」(品川区サイトより)
天台宗の寺として創建され、後に浄土真宗に改められたということ。そして、麻布山善福寺末であったと言うことから、すぐ近くの光福寺とも繋がりがあったことが窺える。(「猫のあしあと」サイトを参考にしています。)
本堂はコンクリート造りのもの。
扁額には無量光とある。本尊の阿弥陀如来に因んだもの。この寺が、南品川の荏原神社の古蹟であると新編武蔵風土記には出ているという。ここも寺前が古道であったらしく、ロケーションから見ると古代から何かあったとしても不思議ではない場所の様にも見える。
庫裏は木造で、往年の雰囲気を感じさせてくれる。境内が舗装されたりしておらず、木々が手入れされて繁っていることも、長い歴史を持つ寺院の雰囲気が味わえる。
江戸名所図会にも紹介されているという児桜(ちごさくら)。枝を大きく広げた姿が面白い。花の時期に再訪してみたくなる。
山門を入って直ぐ脇にある、松の寄附を記した石碑。
「松一株 明治二十六年十二月十五日 永代保存費金五拾円也 寄附村田庄五郎」とある。
明治26年は西暦1893年。樹齢は百年と少々ということだろうか。真っ直ぐに高く伸びている。明治26年に火災にあって、本堂や桜の名木が焼失したとも出ていた。火災の後の再建にと寄付されたものだろうか。
本堂の右奥には、イチョウの巨木があった。これもなかなか見事なイチョウ。品川界隈は、古木、巨木を見て歩くだけでも楽しめる。
下から見上げるとこんな感じ。これも数百年の樹齢を持っているのだろう。
「西光寺石造供養塔(三基) 品川区指定有形民俗文化財 所在:大井四丁目二十二番十六号 指定:昭和五十三年十一月二十二日(第三号)
無縁塔最前列の供養塔三基で、向かって左の延命地蔵菩薩を彫った舟型の塔は、大型で身長よりはるかに長い錫杖を持っている。おりつ等十六名の女性が明暦元年(一六五五)に造立したものである。
中央の塔は、阿弥陀如来像を刻んだ笠塔婆型の庚申供養塔で、寛文十三年(一六七三)に大井村の人々によって造立されたもの。
右の阿弥陀如来像を彫った舟型の塔は、寛文九年(一六六九)に、おいな等女性十二名の念仏講の人々が造立したものである。
この三基の供養塔とも、もとは鎌倉道に面した倉田地蔵堂に安置されていた。いずれも江戸初期に造立されたもので、石造美術の面でも優れ、保存状態もよく、特に明暦元年の供養塔は、原型に近い状態で残っており貴重である。
平成二十一年一月十日 品川区教育委員会」
さて、池上道を進む。左手の線路の側に大森貝塚遺跡庭園がある。
「エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838~1925)は、アメリカ人の動物学者で貝の研究をしていました。1877年(明治10)腕足類という貝の研究のため来日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見しました。これが大森貝塚です」(品川歴史館サイトより)
この貝塚の発掘現場が具体的にどこであったのか、あまりはっきりしていなかったらしい。そこで、品川区と大田区(かつては大森区)が競って記念碑を建てたりしたのだが、近年の調査で品川区のエリアであることが分かってきたという。品川区の記念碑。碑の上に土器のモニュメントが設置されている。昭和4年5月26日の銘がある。
柵の向こうは東海道線の線路。汽車の車窓からモース博士が発見して調査したという。
庭園内には、貝塚発掘気分を味わえる様な造作がなされている。とはいえ、これらは総て近年庭園整備によって作られたものだ。
そこから先へ進むと、池上通りは緩い下り坂の谷底になり、大森方面に再び上っていく。その辺りのマンションの一廓が小公園になっている。そこに案内板が建てられていた。
「この辺りは、旧幕時代、天領で「大井村鹿島谷」と呼ばれ、幕府代官の支配地だった。この一廓の南側に、今は暗渠となっているが、小川が流れ、これが大井と山王の境界をなしていた。これは現在も変わらない。
この流れの水源は、大井・原(今、西大井四丁目)の水神池、途中鹿島・庚塚遊園地の中程で品川用水と合流、この団地の下を流れて海に注いでいるもので、昔は当地を流れるときは渓谷をなし、岸には樹木が茂り、清冽な流れが滔々と音を立てる様は正に「鹿島谷」の名の所以を思わせるものであった。
小川の南側は山王地区で、江戸時代は旗本・木原氏の所領地。
前のバス通りは、律令時代の東海道で、江戸期には平間街道ともいった。
明治九年に「大森駅」が設けられると、翌、十年には貝塚が発見・発掘され、農地が宅地に造成され始め、華族や高級軍人・政商等の別荘が建ちはじめた。
この一廓(旧大井村鹿島谷二九五〇ー五一番地)に、児島惟謙が広大な屋敷を建てたのは、明治三十六年頃のことである。
児島(一八三七~一九〇八)は大津事件のときの大審院院長として名をあげる。
大津事件とは、明治二十四年、当時の「ロシヤ」皇太子ニコライ二世が日本を訪問された際、五月十一日滋賀県大津で護衛の巡査津田三蔵に切りつけられた。時の松方首相や西郷従道内相らは、皇室に対する犯罪と同質であり、極刑に処することを主張したが、児島は司法権の独立と裁判の神聖のため、あくまでも法律の明文によるべきであると主張し、その結果、津田は謀殺未遂罪として、無期刑に処せられた。以上が「大津事件」の概要である。児島はその後、大審院長を退任、貴族院議員などを歴任、退官後大井村鹿島谷に居を定め、地元との交流につとめ、大森倶楽部の創立にさいしては、発起人三十九人の首班として努め、これが実現するや初代委員長として、在住名士・財界人等と親交を深めた。
明治四十一年七十二歳で亡くなるまで、ここに居を構えていたのである。
因みに電話番号は「大森局 壱番」であった。
地史研究家 後藤朝次諸 記」
大津事件を後世に知らしめた、司法の独立を死守した児島惟謙の旧居がここにあった。そして、この辺りが鹿島谷と言われていたことなど、なかなか興味深い。
装飾的ではないが、落ち着いた雰囲気の山門。簡素だが、質実剛健といった雰囲気がある。
「創建は鎌倉時代の弘安(こうあん)9年(1286年)とされ、ここも桜の名所として知られ、立春から70日目ころより咲きはじめる花は単弁(ひとえ)の「醍醐(だいご)桜」や「児(ちご)桜」が挿絵にも描かれています。」(品川区サイトより)
天台宗の寺として創建され、後に浄土真宗に改められたということ。そして、麻布山善福寺末であったと言うことから、すぐ近くの光福寺とも繋がりがあったことが窺える。(「猫のあしあと」サイトを参考にしています。)
本堂はコンクリート造りのもの。
扁額には無量光とある。本尊の阿弥陀如来に因んだもの。この寺が、南品川の荏原神社の古蹟であると新編武蔵風土記には出ているという。ここも寺前が古道であったらしく、ロケーションから見ると古代から何かあったとしても不思議ではない場所の様にも見える。
庫裏は木造で、往年の雰囲気を感じさせてくれる。境内が舗装されたりしておらず、木々が手入れされて繁っていることも、長い歴史を持つ寺院の雰囲気が味わえる。
江戸名所図会にも紹介されているという児桜(ちごさくら)。枝を大きく広げた姿が面白い。花の時期に再訪してみたくなる。
山門を入って直ぐ脇にある、松の寄附を記した石碑。
「松一株 明治二十六年十二月十五日 永代保存費金五拾円也 寄附村田庄五郎」とある。
明治26年は西暦1893年。樹齢は百年と少々ということだろうか。真っ直ぐに高く伸びている。明治26年に火災にあって、本堂や桜の名木が焼失したとも出ていた。火災の後の再建にと寄付されたものだろうか。
本堂の右奥には、イチョウの巨木があった。これもなかなか見事なイチョウ。品川界隈は、古木、巨木を見て歩くだけでも楽しめる。
下から見上げるとこんな感じ。これも数百年の樹齢を持っているのだろう。
「西光寺石造供養塔(三基) 品川区指定有形民俗文化財 所在:大井四丁目二十二番十六号 指定:昭和五十三年十一月二十二日(第三号)
無縁塔最前列の供養塔三基で、向かって左の延命地蔵菩薩を彫った舟型の塔は、大型で身長よりはるかに長い錫杖を持っている。おりつ等十六名の女性が明暦元年(一六五五)に造立したものである。
中央の塔は、阿弥陀如来像を刻んだ笠塔婆型の庚申供養塔で、寛文十三年(一六七三)に大井村の人々によって造立されたもの。
右の阿弥陀如来像を彫った舟型の塔は、寛文九年(一六六九)に、おいな等女性十二名の念仏講の人々が造立したものである。
この三基の供養塔とも、もとは鎌倉道に面した倉田地蔵堂に安置されていた。いずれも江戸初期に造立されたもので、石造美術の面でも優れ、保存状態もよく、特に明暦元年の供養塔は、原型に近い状態で残っており貴重である。
平成二十一年一月十日 品川区教育委員会」
さて、池上道を進む。左手の線路の側に大森貝塚遺跡庭園がある。
「エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838~1925)は、アメリカ人の動物学者で貝の研究をしていました。1877年(明治10)腕足類という貝の研究のため来日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見しました。これが大森貝塚です」(品川歴史館サイトより)
この貝塚の発掘現場が具体的にどこであったのか、あまりはっきりしていなかったらしい。そこで、品川区と大田区(かつては大森区)が競って記念碑を建てたりしたのだが、近年の調査で品川区のエリアであることが分かってきたという。品川区の記念碑。碑の上に土器のモニュメントが設置されている。昭和4年5月26日の銘がある。
柵の向こうは東海道線の線路。汽車の車窓からモース博士が発見して調査したという。
庭園内には、貝塚発掘気分を味わえる様な造作がなされている。とはいえ、これらは総て近年庭園整備によって作られたものだ。
そこから先へ進むと、池上通りは緩い下り坂の谷底になり、大森方面に再び上っていく。その辺りのマンションの一廓が小公園になっている。そこに案内板が建てられていた。
「この辺りは、旧幕時代、天領で「大井村鹿島谷」と呼ばれ、幕府代官の支配地だった。この一廓の南側に、今は暗渠となっているが、小川が流れ、これが大井と山王の境界をなしていた。これは現在も変わらない。
この流れの水源は、大井・原(今、西大井四丁目)の水神池、途中鹿島・庚塚遊園地の中程で品川用水と合流、この団地の下を流れて海に注いでいるもので、昔は当地を流れるときは渓谷をなし、岸には樹木が茂り、清冽な流れが滔々と音を立てる様は正に「鹿島谷」の名の所以を思わせるものであった。
小川の南側は山王地区で、江戸時代は旗本・木原氏の所領地。
前のバス通りは、律令時代の東海道で、江戸期には平間街道ともいった。
明治九年に「大森駅」が設けられると、翌、十年には貝塚が発見・発掘され、農地が宅地に造成され始め、華族や高級軍人・政商等の別荘が建ちはじめた。
この一廓(旧大井村鹿島谷二九五〇ー五一番地)に、児島惟謙が広大な屋敷を建てたのは、明治三十六年頃のことである。
児島(一八三七~一九〇八)は大津事件のときの大審院院長として名をあげる。
大津事件とは、明治二十四年、当時の「ロシヤ」皇太子ニコライ二世が日本を訪問された際、五月十一日滋賀県大津で護衛の巡査津田三蔵に切りつけられた。時の松方首相や西郷従道内相らは、皇室に対する犯罪と同質であり、極刑に処することを主張したが、児島は司法権の独立と裁判の神聖のため、あくまでも法律の明文によるべきであると主張し、その結果、津田は謀殺未遂罪として、無期刑に処せられた。以上が「大津事件」の概要である。児島はその後、大審院長を退任、貴族院議員などを歴任、退官後大井村鹿島谷に居を定め、地元との交流につとめ、大森倶楽部の創立にさいしては、発起人三十九人の首班として努め、これが実現するや初代委員長として、在住名士・財界人等と親交を深めた。
明治四十一年七十二歳で亡くなるまで、ここに居を構えていたのである。
因みに電話番号は「大森局 壱番」であった。
地史研究家 後藤朝次諸 記」
大津事件を後世に知らしめた、司法の独立を死守した児島惟謙の旧居がここにあった。そして、この辺りが鹿島谷と言われていたことなど、なかなか興味深い。
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