goo blog サービス終了のお知らせ 

東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東海道品川宿を歩く~その一:八ツ山橋から

2014-10-22 19:42:20 | 品川区
 今回は、江戸四宿の一つであり、その中でも代表的な存在である品川の宿場町を訪ねてみた。この町は震災でも焼けることがなく、戦災も大きな被害を受けていない。そういった意味でも、非常に貴重なところであり、また江戸四宿の中でも宿場町として最も栄えた歴史を持っている町でもある。どんな風に過去の面影が残されているのか、それを求めて歩いてみた。
 この品川の宿場町、こうしてちゃんと歩くのは初めてだが、周辺やこの中の一部の場所には昔から通ったりした経験は持っている。高校生だった頃でも、学区がこのエリアを含んでいたから、友人もいたし、京浜急行にもよく乗っていた。それで馴染みのあるつもりになっていたが、改めて来てみると、何も知らなかったし、何も見ていなかったとしみじみ思わされた。中途半端にちょっと知っているという状況は、一番宜しくないものだと改めて思った。

 さて、まずは品川の入口、八ツ山である。今はというより、明治の鉄道開通でここに切り通しが造られて以来、橋が架かるようになったわけだが、かつては御殿山から一続きであったと思うと景色の見え方も違ってくる。そして、東海道を江戸へ向かってくると、ここで恐らくは江戸の町が望める絶景のポイントであったことが偲ばれる。芝浦の海と、向こうに広がる江戸の町が見えたのだろうと思いつつ。その方向を望む。


 そして、たもとにはかつての八ツ山橋の親柱が保存されていた。この橋の由来なども書いてあればいいのにと思ったけど、こうしてちゃんと保存されているだけでも有り難い。


 現在の八ツ山。ビルの間を進むのが、旧東海道。右手は国道15号線。第一京浜である。


 そして、これが品川宿の入口のあたり、京浜急行の踏切から見た品川宿。


 当初は京浜急行はこの辺りが終着で、八ツ山橋の向こうへ伸びたのは大正14年のこと。現在の京急の八ツ山橋と品川駅になったのは、昭和8年のこと。


 品川宿の北側は、歩行新宿という。元々はもう少し南側が宿場の中心であったものが、北へ拡張していったようだ。新宿と略されるようだが、歩行というのが面白い。問答河岸という船溜まりになっている、海に繋がる水路が今も残る。そこに至る坂道から旧街道を望む。かつては、この下までが海であった。そして、正面に見えている栄亀庵という蕎麦屋、これも老舗で大正時代の街道地図(『品川宿遊里三代』所収)にも出ている。


 問答河岸へ下る坂を街道から望んだところ。かつてなら海が見えたのだろうか。


 ここは、かつて土蔵相模という遊郭があったところ、相模楼というのだが、建物がなまこ壁でできていたので、土蔵相模と呼ばれたという。幕末には、高杉晋作らがここで泊まり込んで、密議をこらした。そして、御殿山に建設されていたイギリス公使館を焼き討ちにしたという。今は、普通にマンションである。


都心部だけに建て替えも進んでいる中、モルタル建築もまだ多く残されている。大正時代には、寿司屋があったところと思われる。建物は昭和になってからのもの。


街道から山側へ伸びる路地。少し上っているのが分かるだろうか。かつてはずっと先に御殿山があるというロケーションだったが、今はこの奥には第一京浜国道が横切っている。


しばらく行くと、木造の店舗があった。右隣の魚善は、これも大正時代の地図に出てくる老舗である。この旧街道の商店街、老舗が多い。


建て替えの進んでいる中では、木造の店舗は数少ない。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿