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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(69)浅草の明暗(つづき)

2014-10-21 20:04:40 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、浅草の話の続きである。

「久保田万太郎と浅草小学校で同級だった渋沢青花は、『浅草っ子』(昭和四十一年)という回想記を書きのこしている。日本画家の鴨下晁湖、山谷重箱の主人大谷平次郎とも同級だった。彼は京橋に生まれ、物ごころついたときからずっと浅草公園のそぱで暮したというから、浅草への想いは実に深いものがある。明治時代の子供の眼をとおして、観音堂をはじめ、奥山、祭り、矢場、十二階、六区の見世物などをあざやかに描いている。」

 鴨下晁湖は、『浅草っ子』の表紙を始め、挿画を描いている。そして、山谷重箱というのは、有名な鰻屋で関東大震災後に熱海に移り、戦後しばらく経ってから赤坂へ移転して、現在も続いている。私の祖母の兄弟が鰻が好物で、震災前に浅草に暮らしたこともあってこの店を好んでいたようだ。赤坂に移る直前の頃なのか、戦時中から箱根にその親戚が越していて、戦後は強羅で旅館をやっていた。そこに同居していた曾祖母が東京の私の家を訪ねていた時に、高齢で様子がおかしくなったものの、車で迎えに来て貰い、最後の外食が熱海の重箱だったという話は聞いたことがある。 

「たとえぱ瓢箪池の変貌について、つぎのように書く。
「瓢箪池も今は昔の語り草となって、終戦後埋めたてられ、姿を消してしまった。そしてその跡には、西参道などという名がついて、浅草温泉だとか楽天地だとか、また商店街ができて、まったく雑然としたところになってしまった。これで今はもう浅草公園から、風致というものは、すっかり取り去られた感がある。観音堂再建の資金を得るために、浅草寺自ら思いきってこの辺一帯の地区を払いさげたのだというから、これも仕方がなかったのかも知れない。
 もとここには、大小二つの池が並んでいて、まんなかのところでつながっていた。わたしたちはこれを瓢箪池とよんでいたが、『台東区史』を見ると小さいほうが瓢箪池で、大きい方は大池というのだと書いてある。
 大池には緋鯉がおどって、麩をやる人たちがのんびりと板橋の手すりに腰かけて、眺めていたものである。板橋の上には藤棚があって、季節にはあでやかな花影を水にうつし、麩を追う緋鯉の群れがそれを掻き乱すという、絵のような光景を描きだす。」
 たしかにこのとおりだった。六区の映画館街の雑踏から一歩ここに足をふみいれると、のどかな空間がひろがっていたのである。この一節を読んで、私は自分の記憶がよびさまされる気がした。しかし戦後はがらりと変ってしまう。池は焼跡の残骸物でゴミためのようだった。夕暮れとなると、夜の女があらわれて客引きをおこなっていた。そして、やがて埋立てがはじまって、建物が立ちはじめた。
 もちろん、凌雲閣(十二階)は知らない。関東大震災で七、八階より上が崩れ為ちて、工兵隊が爆破したというが、震災前の写真をみると、盛り場浅草の名物だったことがわかる。青花は「絵草紙や絵葉書になって、東京見物にでてきた地方人の土産には欠くことのできないもの」といい、「遠くから見たあの姿は、たしかに美しかった」と書いている。」

 この池のある浅草というのは、高度成長期に育った私にとっては幻の浅草と言っても良いイメージになっている。全盛時の浅草といえば、池のある浅草であったのは間違いない。何度か書いているように、高度成長期の浅草は衰退が目立っていた時期で、現在よりも場末感が漂っていたものだった。震災後に新たな浅草となっていった新宿の賑わいとは対照的で、それは戦後から高度成長期という時代にも、東京が西へと拡張を続けて行った勢いは衰えることがなかった。そして、その拡張から取り残された浅草は東京の盛り場の王座から転がり落ちていくばかりだったのだ。それがいつしか、浅草を見直そうという動きになり、かつての様な賑わいではないものの、東京の古くからの観光スポットとして改めて見直される様になっている。それが定着したのが今日の姿と言えるだろう。川向こうには東京スカイツリーができて変化は起きているのだが、そんな中で強かに甦りつつあるのが今の浅草という印象を受ける。

 そして、凌雲閣(十二階)は私にとっても、より伝説的な存在でもある。それでも、工兵隊によって爆破され、その瓦礫を埋め立てたのが、少し前にこのブログで取り上げた「『漢文のすすめ』とその舞台~その一(下谷区金杉上町)」の下谷区金杉上町にあった市嶋家別荘の池であったというのは、面白いことだと思う。あの辺り、地面を掘り返すとレンガなど出てくるのだろうかと思ってしまう。池のあったところを工事するのなら、是非見てみたいものだ。

「浅草は独特の歴史をもつ公園だった。浅草寺(本名、伝法心院、略して伝法院)を中心に発展して「四時香華遊覧の客絶えず」といわれてきたが、明治六年の公園制度の施行によって大きく変りはじめている。『浅草区史』(大正三年)の記録によると、維新当時、十一万四五〇〇坪余だったが、上地命令により、わずかに伝法院六三六八坪のみをのこして、そのほかは公園になった。これは浅草ぱかりでなく、上野、芝、飛鳥山・深川におよんでいる。京都もおなじだった。明治の改革と都市づくりは徳川家と縁のふかい寺社地を取り上げたかたちでおこなわれた。」

 都市公園という言い方は口当たりのいい表現だが、公園とは何かということも明確ではないままで公園に指定されたのが、明治六年のこと。上野公園、飛鳥山は公園の姿を今日まで残しているのだが、浅草と芝は大きな公園であった痕跡を探すことが難しい様な状態になっている。芝は中途半端な空き地だか公園だか分からない様なものが点在するという状況だし、浅草に至っては公園に指定されていたことを思い起こさせるものはないと言っても良いくらいの状態である。

浅草、隅田川、吾妻橋。


「六区に、電気仕掛けの見世物があらわれたのは、明治二十八,九年ごろだったという。しかし、客はつかなかったらしい。三十五,六年ごろになって、電気館に活動写真がかかっている。凌雲閣ができたのは明治二十三年というから、六区は新しい装いをみせていたが、活動はかなりおくれていたようである。神戸、大阪がすでにその先鞭をつけている。浅草は輸入とか真似とかもじりのうまいところらしく、二番手、三番手にまわって土地に憤らし、浅草向きに生かしてしまう。渋沢青花は「今の映画館である電気館の前身」(五年ほどまえ・電気館の建物はついに取壊された)と書いているが、そこでは科学としての電気装置の見世物を出し、活動写真があらわれてくる。その勢いはたちまちのうちに轆轤首や鳥娘を凌駕してしまったようである。もちろん弁士つきの映画だ。私たちの時代にはもう無声映画なぞはなくなっていたが、それでも場末の小屋ではまだ弁士が滔々とまくしたてていた。たとえぱ私の家にちかい高橋では、江東館、高砂座という二つの劇場があって、桝席のある高砂座のほうで弁士がしゃぺっていたのをおもいおこす。それはかろうじておぼえている情景である。そんなことから六区の記録を読んでいると、明治、大正の名残りにかんする連想かわいてくるのであった。」

 明治からの近代史を見ていると、映画の登場が実はそれ程古いものではないことに気付く。明治の後期になって、ようやくという話である。先に書いた私の親戚は、昭和の始め頃に日本でもトーキーを上映しようという初期に、その話を持ちかけられて出資したものの、まるで当てが外れたということを書いていた。考えて見れば、それは輸入物のフィルムであって、トーキーといっても英語で話すものであったわけだ。それが当時の日本で受けようはずもなかったわけである。小さな製菓会社に、食品関係の会社をいくつかやっていたようだが、なかなか商売が軌道に乗らずに苦労していたらしい。そんな中で、こういった儲け話に乗せられたりしていたという。結局、第二次大戦で軍需成金となっていったらしい。
 見世物や芝居の時代から、映画の時代になり、それが浅草の町を変えていったという話はなかなか面白い。今となっては、むしろその見世物の方が見てみたいような気がする。
 そして、活動写真の弁士という話になると、かつて神保町にあった東洋キネマを思い出す。その建物が非常に特徴的で、バブル期まで残されていたのだが、震災復興期に建てられた映画館の正面はバルコニーになっている。かつては、そこに人気の弁士や女優が出て、観客に挨拶をしたという話を見た覚えがある。トーキーへの移行期が、昭和の初期から戦前に掛けてであったいうことで、近藤氏の思い出とも時期的に整合性の取れるタイミングだと思う。

「ともかく活動写莫の出現は浅草を変えてきた。孤剣山口義三の『東都新繁昌記』(大正七年)によって、当時の浅草興行街をみてゆくと、活動写真はかっぽれのかわりにオペラダンスを喚び、「日清談判破裂して・・・・・・」の剣舞をやめさせて、「カチューシャ可愛いや」を歌わせることになったといい、女義太夫や薩摩琵琶を捕虜とし、公園に於ける芝居の領地を蚕食したと述べている。彼は「見よ、活動写真は縄暖簾の代りにペンキ塗りの安つぽい西洋料理屋を其の周囲に作つたではないか」と書いた。」

 活動写真の登場が、浅草の出し物の変化の呼び水になったということだろうか。明治時代に書生達を熱狂させた女義太夫とか、時代遅れになっていったのだろう。浅草オペラ、そして洋食屋が新しい時代の顔担っていったということなのか。

 待乳山聖天のトーキーの碑。


「社会主義者の孤剣は永井柳太郎のすすめによって、大隈重信の「新日本」紙上にこの東京十五区観察記を連載したというが、浅草では華やかな光の背後に影を見、歓楽の裏に苦痛をよみとろうとする。江川一座の球乗りの少女は雇主の鞭にうたれて血の涙と苦い汗を流している。仲見世その他の商店や飲食店から一歩、仁王門にはいり、噴水や瓢箪池のあたりをみると、憂いと憤りと絶望の失業者の顔ぱかりではないか。それは非人道的遊戯であり、痛切な社会問題だというのである。活動写真が芝居や寄席を圧迫しているのとおなじように、銘酒屋八百六十一、私娼五千二百という数は、浅草芸者の領分を荒している。十二のいたいたしい子供から六十三歳の老婆まで、肉体を売って「冷たき銀貨」に交換する。儲けるのは銘酒屋だけだ。銘酒屋は売春婦という虫をくう蛙といって、吉原滅亡論をくりひろげている。
「白昼芳原を歩いて見よ。見るかげもなく痩せた身体、青い顔、殺けた顔、蝋石の唇に悲哀のこもつた瞳、肉をひさぐ女奴である。何処に国色の美があるか。一咋年古式復興とでもいふものか、花魁道中を催した。大門口から仲の町通りへ、九十何株かの桜を植え込み、其の間には江戸風の行燈を立て、両側の引手茶屋には疋田鹿子を絞り上げた美しい花の暖簾、三味や太鼓の景気よく、錦の飾り夜具を妓楼の店頭に積みかさねるといふ時代物を演じたが、眼鏡をかけた花魁が汗を拭き拭きサイダーを立ち呑みするという風では滑稽なる茶番として、川柳子の厄介になるばかりであつた。」
 彼の観察は行きとどいている。その現状批判には説得力がある。大正初期の痛烈な東京論だ。お役所の麹町、書生の神田、高襟の京橘、虫声の麻布、腰弁の四谷、学者の小石川、職工の本所、水都の深川というぐあいに各区の特徴も印象づけるが、浅草はというと「女の浅草」である。愛の化身である観音さまの慈愛のかげで多くの女が泣いている。「浅草は煩悩を語り、痴情を語り、愛慾の臭皮袋に歓楽と悲哀から脱することを許さない」とみていた。東京最大の盛り場としての浅草は、享楽、頽唐、夢幻とともに絶望と死をつつみこんでいる。自殺と殺人、色情にかかわるものはみな浅草の名物だ。彼は「煙花の郷たる浅草は読経しめやかなる寺院が多く、売女の数は墳墓に比し、白粉の匂ひは抹香のかをりに和している」と書いた。」

 永井柳太郎は政治家であり、雄弁家として知られた人物であった。早稲田大学の卒業生で、三木武吉とも親しかった。そんな早稲田人脈の繋がりで、大隈重信へと繋がっている。
 それにしても、この大正期の浅草を評した文章の鮮烈な切れ味には、感心する。勿論、この時代のものであるということから、今日的な人権思想をそのまま当てはめてみても仕方が無いところではあるが、人間を見る目の本質という点では、時代を超えて通用するものがあるとも思う。
 面白いのは、お役所の麹町~という下りで、この当時の東京のあちらこちらの有り様がとても分かりやすく簡潔にまとめられているとも言える。もちろん、それで全てというわけではないが、特徴を掴むという点ではとても説得力がある。
 吉原の花魁道中の復活の話は、「大正・吉原私記」波木井晄三著に詳細が出ていて、この高下駄を履かせて歩かされたことを虐待であると花魁が申し出て、自主廃業に至るという事件に繋がっている。廃娼運動というのも盛んに行われていた時代で、救世軍の大きな仕事の一つがそれであった。この自主廃業のために、花魁道中の復活は一度きりで終わってしまったという。近年、かつての吉原の様子をショーに仕立て見せていた松葉屋も今は無い。

「私は浅草には住んだことはなく、ただ遊びに行くだけの場所だったが、久保田万太郎、渋沢青花のような根っからの浅草人には、こころからの共感をおぼえることがある。また一方で山口孤剣のような、純真なまなこで現実をみつめた人道主義者に教えられる。浅章の二つの面はそれぞれに真実を語っている。谷崎潤一郎は変貌しゆく大正期の浅草を「鮫人」に書き、川端康成は震災復興の浅草を写し出した。浅草はつねにそれぞれの時代の顔をみせて、人をひきつけてやまなかった。東京生活者にとって、これほど魅力ある街もないであろう。」

 清住の人である近藤氏の感慨は、やはり浅草が身近な盛り場であった人ならではとも思う。そして、良き時代の浅草を知っていることで、その前の時代にも愛惜を覚えるものだろうとも思う。かつての浅草は、東京に暮らす人に等しく愛された町であったとも言える。そして、私にとってはそこまで浅草を身近に感じることもなかったし、その良き時代を知らないので、異邦人として浅草を見物しているという点では、海外からの観光客と大差ないのかもしれないとすら思えてしまう。

 これも震災後の浅草の変貌、東武鉄道の浅草駅。


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