東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

「資生堂という文化装置 1872-1945」和田博文著を読む

2014-06-29 18:50:21 | 書籍
「資生堂という文化装置 1872-1945」和田博文著 岩波書店刊



アマゾンの内容紹介より
「西洋的な都市景観が出現した東京銀座で、洋風調剤薬局として創業した資生堂は、モダン文化の核となり、関東大震災後はパリのイメージを背景に、化粧・髪型・ファッション・食事から美術まで、一層幅広い都市文化を発信してゆく。「大東亜戦争」によって、その役割を終えるまでを、豊富な資料と図版で解き明かす決定版。」

 大作であり、なおかつ軽い内容ではない。多岐に渡る話を丁寧に資料を添えて解説してあり、そのボリュームに圧倒されたというのが、読後の最初の感想である。資生堂という、我が国における化粧品のリーディングメーカーであり、東京の中でもシンボリックな町で有り続けている銀座、その顔の一つである存在でもある。その明治初期の揺籃期からの歩みと、銀座という町の推移、さらにはそれが東京という都市であり、日本の置かれていた状況という背景に至るまで思いを馳せていく広がりを持って描き出されている。まさに、その内容に圧倒されるものがある。
 その資生堂の、戦前期までの広告を始めとした活動をまとめている。まさに、資生堂という存在が特別であった時代を、その背景を含めて描き出している。それだけに、読んでいて面白いことはもちろんなのだが、受け止める側にも理解する素養が求められている様なレベルだなとも感じた。気軽に読めるとは言い難い。それだけの内容の濃さを感じた。

 現在の資生堂の創業者である福原信三という人、この人のセンスと教養が資生堂の基本であると言っても過言ではないだろう。彼の父親である福原有信が明治初期の海軍の軍医であり、その専門知識から西洋調剤薬局を興したものの、成功しなかった。その三男である信三がニューヨークからパリへ留学しており、ここで身に付けてきたものが今日に至る資生堂のベースにあるのだ。写真にも早くから興味を持たれていて、アマチュア写真家としては草分けといってもいい存在である。長く資生堂の宣伝部が華やかな時代をリードしたのも、そこに端を発している。そして、具体的にその端緒の成果を提示してくれているのが本書である。



 そして、この時期の資生堂の広告を始めとするイメージを作り上げていった、伝説ともいえる山名文夫氏のことももちろん作品と共に掲載されている。本書の内容の充実振りは、資生堂をメインに据えて描きながら、フランスのコティのことなど、世界の最先端といわれた化粧品についても目配りが抜かりないことである。私の母に聞いてみても、明治生まれの祖母はコティを愛用していたという。祖母の実家が明治期からの輸入商品を扱っていたので、横浜で舶来品を手に入れるというのが生活の中での一部になっていた様だ。そういった女性側からの視点を踏まえても、奥の深い内容になっていると思う。

 そして、さらには今も銀座の顔である、資生堂パーラーについても多くのページが割かれている。パーラーが銀座で果たしてきた役割、そして与えてきた影響の大きさというのも、大きなものがあることを改めて感じさせられる。私の知っているパーラーは、今のビルの一つ前からで、その前の時代の本書に描かれる中央が吹き抜けになった時代のことは知らない。私の親の世代は馴染み深いというから、やはり銀座という町を彩る大きな存在であり続けている事を感じる。極早い時期からソーダファウンテンを店舗に併設して、アメリカンスタイルのドラッグストアを実現してきたわけである。そこから資生堂アイスクリーム・パーラーとなっていった。だが、母に聞いてみても、戦中の時代でも気楽な雰囲気というよりは、やはり高級店という感じであったという。今のビルに建て替えられて、パーラーは敷居をより高くしてしまった様にも思えたりする。

 何よりも忘れてはならない「資生堂グラフ」から「花椿」の話も、たっぷりと出ているのが素晴らしい。こういったことが、どれほど日本中の女性の楽しみになり、資生堂という企業が単なる化粧品屋ではないという存在に押し上げてきていたかと思うと、やはり凄いものだと思う。そして、今に至るも「花椿」は製作され続けている。こういうところは、やはり大事にし続けて欲しいと思う。
 かつて、季節ごとのキャンペーンがメディアで流れることで、季節を告げるのみならず、流行さえもリードしてきた存在であったのだが、いつしかコマーシャルの中で突出した印象を覚えることが無くなってきている。経営の難しい時代になっているのだろうとも思う。



 静岡県掛川に資生堂の工場がある。新幹線の車窓からも目にすることが出来るので、多くの人にそういえばあったっけと記憶されているのではないかと思う。その敷地内に、資生堂アートハウスという施設が設けられている。ここには、資生堂が作り上げてきた膨大な数の制作物の多くが納められている。1978年の開館というから、企業がこういった施設を作るという中では、やはり嚆矢であったといえるのではないだろうか。ここにいけば、さまざまな時代の資生堂の作り出してきたものを今も目にすることが出来る。私は極短い間に、この会社の末端で過ごしただけだが、今になってみると、しみじみその経験をありがたく思うし、まだ華やかさの残滓の残る次代であったことも、輝かしい時代を知る人達に出会えたことも、感謝したい気持になる。それは、この戦前の資生堂の歩みを知ると、なおのこと深まる思いになる。資生堂は銀座という町の特別な存在、それは東京のとも言い換えられるし、ある時期には日本のとも言い換えられるほどの大きな存在であった事を実感させられる。誰にでも勧められる一冊だとは言わないが、広告、文化史という側面からも、東京や銀座のストーリーとしても、様々なアングルから読みようのある一冊だと思う。手応えのある一冊だった。

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