東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

文京区立千石緑地

2012-12-09 21:37:47 | 文京区
文京区千石一丁目、かつては小石川林町という旧町名であったところで、町名の由来には、儒学者である林家の屋敷があったことからという説もあるそうだ。この町内で、一際存在感のある屋敷が江戸時代から連綿と続いてきていた。それが一ツ橋徳川家の屋敷であった。大江戸切り絵図にも、しっかりと記されている。


この場所の立地というのも、五代将軍綱吉の別邸の跡に出来た御薬園であった小石川植物園の裏手に辺り、加賀の中屋敷、柳沢吉保の築いた名園六義園もそう遠くない。江戸時代の拝領屋敷の位置などは、大抵微妙な力関係や政治的な背景を持っていたりもするので、この辺りの事情に詳しいければ、尚のこと興味深いのではないだろうか。そして、その跡地が今も千石緑地として、残されている。

●文京区立千石緑地
所在地:文京区千石1-6
開園時間:4月から9月までの期間は、午前9時から午後5時までとなります。
     10月から3月までの期間は、午前9時から午後4時までとなります。
観覧無料

不忍通りから千石一丁目を少し入っていったところ、右手に鬱蒼と木々の茂る一角があり、文京区立千石緑地と記された石柱が立っている。


小高くなった緑の茂る中へは、階段を少し上がる必要がある。


入口には案内板が立てられていて、この緑地の由来が書かれている。
「土地の由来
 この緑地は、元は一橋徳川家所有の樹林地であり、12代故徳川宗敬氏は、国土緑化推進機構の理事長として活躍され、都市内の自然林の保存に努められてきました。平成元年(1989)10月に、出来るだけ樹林を末永く残すように配慮することを条件に、区に寄附されました。
 区ではその意向に従い、都市内の貴重な樹林を保全すると共に、平成6年(1994)6月から、区民の方が自然に親しんでいただけるように、緑地として限定解放しました。」
内部は、観覧者が土を踏み固めていかないように、浮き橋状の木製園路が設けられている。


住宅地の中に、木々の茂るこんな一角が忽然とあるというところがまず面白い。そして、この地が江戸以来の一橋徳川家の屋敷跡であるというのも興味深い。


明治維新によって、大名は版籍奉還をし、その後には廃藩置県が行われた。刀を捨て、ちょんまげを切り落とした大名は華族という名を与えられた。その屋敷は元々の屋敷、大体は中屋敷か下屋敷を使ったのだが、関東大震災後辺りから巨大な大名屋敷をそのまま残すケースは減っていく。さらに、第二次大戦後には華族は廃止される。東京の町が、震災と戦災で広大なエリアが焼失したこともあるし、貪欲に新たなものが町を塗り替えていく東京という都市の性質もあって、江戸以来の大名の屋敷の痕跡を今に残しているところは、本当に少ない。ここは、一橋徳川家の屋敷という、その過去からの経緯が今も形として残されている希有な例と言えるだろう。
樹齢百年以上といわれるムクノキの巨木。


ムクノキを見上げたところ。


隣接してマンションがあるのだが、その名は徳川マンション。昭和46年築の分譲マンションである。この辺り一帯が、元々は一橋徳川家の屋敷地だった。


外から見たムクノキ。


緑地という名の通りで驚くほど広いわけではないのだが、その由来を含めて、歩いてみるとなかなか面白い。一橋徳川家といえば、水戸徳川家から養子に入った一五代将軍慶喜公は、三十年に渡る謹慎生活が解けて東京に戻ってこられたときに、現在の巣鴨駅南口の辺りに屋敷を構えた。その後、鉄道の建設が始まって、文京区春日へ越して、そこで亡くなるまで過ごされたのだが、巣鴨駅南口辺りというのは、この屋敷にも近かったというのが場所選定の理由の一つになったのだろうか?など、様々に思うところが多い。


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