東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

「築地明石町今昔」北川千秋著を読む

2014-06-08 19:06:37 | 書籍
「築地明石町今昔」 北川千秋著 聖路加国際病院礼拝堂委員会刊 1986年10月18日発行

 さて、今回は図書館で見つけた本である。アマゾンで検索しても出てこない。発行元が聖路加国際病院となっているので、非売品であった可能性もあると思う。とはいえ、今では明石町の多くを占め、その主役の座にある聖路加国際病院から出た本であれば、どんな内容になっているのか興味深いと思い手にしてみた。
 著者の北川氏は、明石町生まれで、聖路加国際病院に勤務されていた方であり、本書は病院の広報紙「明るい窓」に連載されていたという。そして、本書の発刊前に亡くなられたと書かれている。

 この築地明石町界隈については、これまでに1980年代に撮影した写真を掲載したこともあり、中央区立タイムドーム明石で開催された築地居留地関連の展示を見に行った記事を掲載したこともあった。元々は埋め立て地であり、その後は武家地として使われてきたところが、明治維新の頃から外国人居留地となり、我が国の西洋化の発信地となっていったということなども、この町に対する興味を深める理由である。さらには、この聖路加国際病院の存在から第二次大戦中にも空襲が行われなかった場所であったことから、戦前からの町が残されていたところという面白みもあった。いまは、聖路加国際病院の建て替えもあって、町中が大きな変化を遂げており、古い町並みはすっかり消えてしまった。町の周囲を巡った運河も埋め立てられている。


江戸時代の鉄砲洲。その名の由来など、詳細に書かれていて、面白い。また、明石町という地名が元々は鉄砲洲の一部だったことが分かる。この図の北側が亀島川であり、そこが江戸時代には江戸湊であったわけで、この場所が江戸の海運の玄関口であったわけである。

ちょうど、このところ取り上げてきた荒川区南千住五丁目と縁のある話もあって、小塚原回向院のところで取り上げた「解体新書」を作る前に、その原書をもって腑分けを小塚原で杉田玄白らが見に行ったわけだが、当時その中の一人、前野良沢は鉄砲洲の奥平家中屋敷に住まいがあった。腑分けを見た翌日も、そこに集まって原書であるターヘル・アナトミアを見ていたと言う。それから、その翻訳を開始したと言うから、南千住で見た結果が明石町で「解体新書」となっていったとも言えるようだ。


外国人居留地の図。中央の網掛けのところが居留地になった所。左上が新富町で、新島原という遊郭が作られたが、繁昌せずに廃れてしまった。これを見ると位置関係など分かりやすい。

今も上野にある精養軒の始まりは、この築地であった。明治3年に築地三丁目に北村重蔵が店を開き、フランス人のチャリヘスが調理をしたという。火災など色々あって、明治6年に現在の新橋演舞場の近くである采女長に移転し、大正12年の関東大震災まで続いたという。上野にはやはり明治の初め頃に、海外視察から帰国した岩倉具視の勧めで宿泊施設と共に開設したという。


明治40年の明石町番地図。時期から言えば、居留地時代の後にあたる頃。

赤穂浅野家の屋敷があったことや、芥川龍之介の生誕の地であることなどが書かれている。せっかくの芥川生誕の地の話だが、その時の地主が西の渋沢栄一というべき大阪の恩人と言われた五代友厚の未亡人であった話には触れられていない。五代は大阪では巨人だが、東京では知名度が低いと言うことなのだろうか。若くして亡くなったことで、その業績が東京では特に知られていないと感じる。


明治32年前後の居留地地番と主な使用者の図。

また、鏑木清方の話や、木村荘八の名も出ては来るものの、ちょっとその辺りの話は隔靴掻痒といった感もある。居留地時代の明石町では私が一番興味を惹かれるのは、サンマー英語学校の話なのだが、その件などはほぼ全く出ていないのが残念。
とはいえ、1980年頃に当時を知る世代の人々から聞き取った話などで構成されているので、そういった意味合いでの生々しさや面白さはある。これ一冊で明石町が分かるというよりは、こういったアングルで掘り下げてみた面白さと言うべきなのではと思う。本書は入手が難しいものだと思うので、図書館で調べてみていただきたい。読んでみる価値は充分にある内容だと思う。


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