東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

「奥野信太郎随想全集二 随筆東京」を読む

2015-04-15 18:29:17 | 書籍
「奥野信太郎随想全集 二 随筆東京」福武書店 (1984)

近藤信行氏の「東京・遠く近き」に教えられて奥野信太郎氏の著作を読んでみた。奥野氏のことは知らなかった。明治32年生まれ、昭和43年に浅草で亡くなられたという。中国文学者であり、随筆家でもあった。そして、父は陸軍大尉で紀尾井町で生まれ、少年期に浅草の伯母の家に預けられたりで、山の手生まれでありながら、下町にも暮らしたという人である。荷風に心酔していたそうで、確かに山の手の人が下町を愛して通うという図式は、そのまま受け継いでいるとも言える。

本書は氏の没後に刊行された随想集で、東京に纏わるものを集めたものである。描き出されているのは、明治から大正に掛けての江戸の香りの残る震災前の東京のことと、戦災で焦土と化した後によろよろと立ちあがり始めた時代の東京の姿である。どちらも、私にとっては知らない時代の事でもあり、その時代の町の景色や匂いまで感じ取れそうな、そんな描き方がされていて思わずのめり込むように読み耽ってしまった。

私の母親に聞くと、奥野氏のことは知っており、テレビなどでも良く話をされていたらしい。とても読みやすくて、そして様々な町を訪ねておられて、その有り様が描き出されているのはとても楽しかった。我が地元である板橋についても触れられていて、戦後間もない頃の板橋の様子が偲ばれた。「場末風流」より少し引用してみる。

「池袋から板橋へぬけてくると、目がいたくなるほど眩しかったところからやや普通のところに辿りついたという感じである。もし一路板橋へきたのであったならば、板橋五丁目もしくは区役所前の都電停留所から右にはいった、つまり以前は遊廓のあった旧中山道のあの通り一帯は賑々しい明るい町であるにちがいないが、池袋の激しい光と騒音の刺激のなかを潜ってきた身にはかえってほっとした気持ちでさえある。
 ほかの旧遊郭たとえば吉原にしても洲崎にしても、品川千住のようなところにしても、戦後は一斉に特飲の巷としてまた旧時とは異った趣を呈して繁昌しているのに対して、この土地だけはそういう種類のカフェーを一切設けないで、新たに三業地として復活しているところに著しい特色がある。」

戦後間もない頃には、池袋は大きな闇市があり、西武池袋線と東武東上線のターミナルとして、繁華街としての発展を始めていた。それでも、私の幼い頃の記憶でも池袋は新宿などと比べると田舎臭いところだと思っていた。昭和四十年代でもそんな感触があったのが池袋である。
そして、板橋は宿場の衰退から遊廓を柱にして生き残りを図ってきたのだが、ほかの地区の遊廓との競争ではむしろ負けていたようだ。戦中に遊廓が閉鎖され、周辺にあった軍の工場の宿舎として使われるようになり、そのまま板橋の遊廓は消滅してしまった。三業地として復活と書かれているが、昭和40年代にはそれも衰退していたように思う。奥野氏の学生時代の板橋に纏わる思い出がこの後語られ、その思い出故か、板橋への筆はどこか優しい。

「さて現在の旧板橋宿であるが、旧遊郭当時の俤をそのままとどめている娼楼の建物が今もなお二三そっくり残っている。娼楼の中でも最大なものとして板橋では一番有名であった新ふじの三階の建物は、今は都病院という名前に変わっているが中庭も玄関の様子もなに一つ改変されることなく往時のままであるし、川越屋は金門金属株式会社の寮となって、そのかみ痴蝶の花に狂った部屋部屋は今では純真な青年たちが読書に休息に時間をすごす場所となっている。川越屋当時の二階正面の欄干はいかにも明治調が横溢していて、もはや眼ぼしいこうした建物のほとんど全部が焼亡してしまった今日となっては一見の価値あることはいうまでもなく、建徳の方からいってもまた風俗の方からいっても保存の道を講ずべき日が到来するのも遠い将来ではないと考える。」

昭和四十年代には、旧遊郭の建物は新藤楼のものだけしか残っていなかった。この戦後間もない頃に、保存の道を講ずべきと言われいてるのは、正に先見の明というべきものだ。唯一残っていた新藤楼も昭和四十七年に取り壊されてしまい、玄関先だけが板橋区立郷土資料館に残されている。板橋の宿場町は明治時代に大火があり。既に鉄道の開通で衰退していたところで焼けてしまったことで、宿場町らしい遺構があまり残されていない。今の時代になって思いついたように町興しとかいうのであれば、せめて新藤楼でも残しておければ目玉になったものをとも思う。とはいえ、既に消えてしまったものを惜しんでみてもどうしようもないのだが。



「割烹兼業の待合のなかで喜内古家という不思議な名前の家、これも今の東京となっては十分に珍とすべきものの一つであろう。この不思議な名前の来歴については誰も知る人がない。なにかきな粉に関係があるものかないものか、そういうこともはっきりしないけれども、この家の表通りに面した方は宝ずしという看板で鮨屋になっていて、この宝ずしという屋号については「吹きおくるかほりや風も宝ずし」という其角の句がこの家に伝来しているというから、よし其角の命名でないとしたところが、宝ずしまた従って喜内古家という店は板橋宿でも古い家であるにちがいない。昨今の料理屋や待合の座敷のちゃちな長押というのも一切ない、黒光りのするような柱のおちつき、思いきり玄関が眼だたなくて、なかにはいると広く奥まった感じのするゆかしさ、そういうおよそ現代の人心の帰向を逆にいったところに得もいわれない魅力を備えている家である。旧遊郭のころ、台の物といえば喜内古家からのものが一番上等ということになっていたというのはけっして嘘ではなかったろうということが十分推測がつく。

喜内古家は、私の物心付いた頃には既に無かった。私の母が、その両親と共に板橋へ越して来たのは昭和二十年の終戦の後のことで、ここで奥野氏が描いているのは私の母には懐かしい景色であるようだ。越して来た頃には、この喜内古家から出前を頼んでいたという。私の知っている頃には、文豪屋敷という名前の料亭になっていた。その後に取り壊されて、今は駐車場になっている。喜内古家の由来は、恐らくは裏手に千川上水が流れていて、かつてはそこに水車があったそうだ。水車で粉を挽いたりしていたことから、付いたのではないだろうか。文豪屋敷があった頃には、区役所前の交差点の辺りから見える所に看板が出ていたのを覚えている。だが、その近くまでは行ったこともなかったのが惜しいと思う。

喜内古家跡の現在。


これが文中の玄関の名残だろうか。


というように板橋の稿では更にその頃の様子が描かれている。

そして、目次から拾っていくと、大正期の谷中の情景が目に浮かぶような冒頭の「彼岸まで」、浅草橋の「ミルクホール」の切ない様な思い出、荷風の偏奇館があった町であり、奥野氏も暮らしていた「市兵衛町界隈」、本好きなら思わず笑顔になってしまう「曝書」、今の時代にもどこか通じるものがある「古フィルムの夢」、近藤氏の「東京・遠く近き」に紹介されていた「酒たのし宿の口笛」などなど、どれも興味深いものばかりが並んでいる。
なによりも、それぞれで出てくる町の様子や風俗などが、これまでに様々な書籍で知っていたこともあるのだが、単に知っていたというところから、その有り様に生々しさを加えて再現して貰っているような、そんな感覚で読むことができて、非常に感覚的に理解することができたように思う。とりわけ戦後間もない時代のどたばたしていたバッラックだらけの東京の空気感が、見事にすくい取られているようで、まるでそこに行ってきたような気分にさせられる。

さらには、私の祖父と同年代でしかも東京人であった奥野氏の感覚が、読んでいる中で伝わってくるものがあり、それもとても参考になる。この時代の人がどう感じて何を思っていたのか、それが分かりやすいということも重要なポイントだ。
そういった意味でも、本書は過去の日本、東京について知る上では、非常に重要な価値のある内容を持っている。およそ東京中、その周辺に至るまで、町の隅々を歩き回っている所も素晴らしい。これは必読な一冊だと思った。

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