前回書き落としてしまったが、新馬込橋は架け替えられた機会に欄干に陶板で川瀬巴水の作品を展示するようになっている。
「川瀬巴水の紹介
川瀬巴水は、明治16年5月18日、現在の新橋に生まれ、27歳の時、鏑木清方に入門し、「巴水」の雅号を与えられました。大正7年、同門の伊藤深水による連作木版画『近江八景』を見て、版画制作に意欲を燃やします。 巴水を「旅情詩人」と読んだのは、この深水であり、巴水は、生涯を通じて日本の各地を旅行し、旅情あふれる版画を制作しました。なお、昭和5年には現在の南馬込三丁目に移り住み、かつて新馬込橋のたもとにあった三本松を描いたのが、代表作である「馬込の月」です。」(案内パンフレットより)
陶板に再現された川瀬巴水の作品は12点。「三十間堀の雪(大正9年)」「春のあたご山(大正10年)」「芝増上寺(大正14年)」「千束池(昭和3年)」「矢口(昭和3年)」「馬込の月(昭和5年)」「池上本門寺(昭和6年)」「森ヶ崎乃夕陽(昭和7年)」「上州法師温泉(昭和8年)」「西伊豆 木負(昭和12年)」「日本橋(夜明)(昭和15年)」「絶筆 平泉金色堂(昭和32年)」が道の両側に六点ずつ取りつけられている。大田区に関連した作品もあり、とても美しい。師である鏑木清孝の風景画も情緒的で心を打つものだが、その系譜を引き継いでいるように感じられた。
そして、先に進む。米屋さん。モルタル仕上げの看板建築。
その隣にも良い雰囲気のモルタル建築。この辺りの町の雰囲気がとてもいい感じ。
道路は緩くカーブを描いていて、古くからの道であることをここでも感じさせられる。
その先には、宗福寺というお寺があった。金光山宗福寺といい、曹洞宗の単立の寺だという。創建は16世紀らしい。(猫のあしあとサイトより)
境内に入ると直ぐの右手に、登志子地蔵が祀られている。昭和10年にこの辺りに暮らしていた10歳の登志子ちゃんという女の子が殺害された事件があったそうで、その悲惨な事件を繰り返さないようにという思いを込め、建立されたという。
本堂は銅葺き。落ち着いた雰囲気の境内。
この辺りを見ると、比較的新しいものが良い具合に色付いてきている所といった感じがする。
石像が祀られている。その前には庚申塔もある。
庚申塔は、青面金剛像と三猿のもの。
右側面には「右品川」と書かれている。剥落で分かりづらい。と言うことは反対側にも刻まれているはずだが、壁際に置かれていて見えない。
「川瀬巴水の紹介
川瀬巴水は、明治16年5月18日、現在の新橋に生まれ、27歳の時、鏑木清方に入門し、「巴水」の雅号を与えられました。大正7年、同門の伊藤深水による連作木版画『近江八景』を見て、版画制作に意欲を燃やします。 巴水を「旅情詩人」と読んだのは、この深水であり、巴水は、生涯を通じて日本の各地を旅行し、旅情あふれる版画を制作しました。なお、昭和5年には現在の南馬込三丁目に移り住み、かつて新馬込橋のたもとにあった三本松を描いたのが、代表作である「馬込の月」です。」(案内パンフレットより)
陶板に再現された川瀬巴水の作品は12点。「三十間堀の雪(大正9年)」「春のあたご山(大正10年)」「芝増上寺(大正14年)」「千束池(昭和3年)」「矢口(昭和3年)」「馬込の月(昭和5年)」「池上本門寺(昭和6年)」「森ヶ崎乃夕陽(昭和7年)」「上州法師温泉(昭和8年)」「西伊豆 木負(昭和12年)」「日本橋(夜明)(昭和15年)」「絶筆 平泉金色堂(昭和32年)」が道の両側に六点ずつ取りつけられている。大田区に関連した作品もあり、とても美しい。師である鏑木清孝の風景画も情緒的で心を打つものだが、その系譜を引き継いでいるように感じられた。
そして、先に進む。米屋さん。モルタル仕上げの看板建築。
その隣にも良い雰囲気のモルタル建築。この辺りの町の雰囲気がとてもいい感じ。
道路は緩くカーブを描いていて、古くからの道であることをここでも感じさせられる。
その先には、宗福寺というお寺があった。金光山宗福寺といい、曹洞宗の単立の寺だという。創建は16世紀らしい。(猫のあしあとサイトより)
境内に入ると直ぐの右手に、登志子地蔵が祀られている。昭和10年にこの辺りに暮らしていた10歳の登志子ちゃんという女の子が殺害された事件があったそうで、その悲惨な事件を繰り返さないようにという思いを込め、建立されたという。
本堂は銅葺き。落ち着いた雰囲気の境内。
この辺りを見ると、比較的新しいものが良い具合に色付いてきている所といった感じがする。
石像が祀られている。その前には庚申塔もある。
庚申塔は、青面金剛像と三猿のもの。
右側面には「右品川」と書かれている。剥落で分かりづらい。と言うことは反対側にも刻まれているはずだが、壁際に置かれていて見えない。
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