東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(68)浅草の明暗

2014-09-25 19:23:23 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、東京の娯楽の町、浅草の話である。

「子供のころ、楽しかったのはなんといっても浅草へ連れて行ってもらうことだった。休みの日、一銭蒸汽か市電に乗って雷門にゆき、仲見世をあるいて観音さまにお詣りをする。そのあと、映画館か芝居小屋、あるいは花屋敷か木馬館、松屋のキディ・ランドにはいる。夕方になって、天ぶら屋か寿司屋で食事をして帰る。それが一日の行楽だった。
 正月とか夏休みになると、六区の劇場街は兵児帯姿の小僧さんや着飾った娘さんたちでごった返していたのをおもいおこす。垂れ幕や絵看板、あちらこちらから聞こえてくる音楽や呼びこみの声、それにぞろぞろと歩く足音がもつれあって、不思議な雰囲気をかもしだしている。工場の職工さんに連れていってもらったこともあったが、そんなとき、彼は「ベアトリねえちゃん、まだねんねかえ」とか「ラメチャンタラギッチョンチョンデバイノバイノバイ バリコトバナナデフライフライフライ」と口ずさんでいた。当時、エノケンとロッパ(古川緑波)か喜劇界を二分しているようだった。家のものはエノケンの大ファンで、ことに父はロッパは上品でいけねえなどと言っていた。エノケンが有楽町の日劇の実演に出るようになって、私もよくそこへ連れていってもらったが、大人たちに言わせると、カジノ・フォーリー、オペラ館時代のほうがおもしろかったというのである。」

隅田川、吾妻橋を望む。


 以前にも書いたが、私の育った高度成長期には浅草はどん底の時代にあった。繁華街としての賑わいも、他所に奪われ尽くし、隅田川は公害で汚染され見向きもされないというよりは、顔を背けられるような時代だった。その上、浅草に近いというわけでもなかったから、両親にも銀座や新宿には連れて行ってもらったが、浅草というのは記憶にない。父親は谷中の生まれなので昔から馴染みがあったようだが、母親は東京でも山の手エリアを何度か引っ越ししながら育っているので、やはり浅草にはあまり馴染んでいない。聞いてみると、戦前の時代の大晦日になると、父親に連れられて浅草で映画か芝居を観て、食事をして帰るというのがお決まりだったくらいだという。家の中の歳末の掃除など、祖母がするのに邪魔になるから祖父が連れ出していたということらしい。それでも、戦前の時代の浅草を少しでも見ているのだなと思っても、あまり具体性のある記憶はないようだ。父はもういないので、そんな話も聞き出せないのが惜しい。

「カジノ・フォーリーは木馬館のとなりの水族館の二階に生まれている。昭和四年のことだった。私が浅草という遊び場を意識しはじめたときは、もう日中戦争がはじまっていたから、その時代のことはまったくわからないが、ボロ小屋で、ナンセンスの舞台をみせていたらしい。添田唖螺坊に『浅草底流記』(昭和五年)というルポルタージュがあって「階下のガラス箱の中で、黒鯛が泳いでゐる。レピユーは二階。色襯せた、挨つぽい小屋。堅いボロ椅子。ガタガタな楽隊だ。一体何を見せるのだ」と書いている。」

 この辺りになると、既に浅草でも伝説の領域というべきなのか。そろそろその時代を生で見てきた人たちは、いなくなってきている。私の両親は、著者の近藤氏の僅かに下の世代なので、近藤氏以上に何かを見ているわけはもちろんない。とはいえ、時代が違うと言うことの意味合いとして、今では劇場の設備などの快適性が整っていることが当たり前になっているが、かつてはそんなことを考えるまでもない程に酷いのが当たり前であったということは言える。そういった部分で観客に快適に見られる環境を備えることが一般化したのは、ここ二十年強のことではないだろうか。

「そのころ、唖螺坊はすでに浅草の衰退を感じとっていた。東京の盛り場の移動を取材しながら、それを書きこんでいる。私などは昭和十年代の一時期を浅草全盛期の余韻ある風景としてうけとめていたが、彼によれば、震災復輿後の浅草に浅草的要素が失われつつあるというのである。」

 これまで色々と東京の町の変遷についての本も読んできたが、やはり関東大震災を境に浅草の地位は低下し、その失った栄華が舞い降りた先が新宿であったということのようだ。だから、新宿と浅草は良く似ているという。これには、それまで江戸以来の建て込んだ町の中に大勢で暮らして来た旧市街が焼けてしまい、道路拡幅や区画整理が大胆に行われ、さらに木造建築の建築基準が厳しくなったことなどで、周辺部へと大量の人口が流出することになったという事情がある。旧市街の中にいれば、浅草は一番手近な盛り場だが、この時に西へ向かって膨張を始めた東京は、新たな繁華街を新宿に求めることになったのだ。大まかな言い方をすれば、そんな流れになる。

「昭和五年ごろ、もしくは十年代はじめの浅草というと、川端康成が『浅草紅団』に、高見順が『如何なる星の下に』に書いている。浅草という盛り場の風俗や流行がよみとれるが、その視点にはちょっと異和感がないわけではない。唖螺坊は朝から夜まで、夜中までの浅草を観察し、人間の欲望が吹きだまりのようにたまっている大衆の現実を、あらゆる階層をゴッタ混ぜにした大きな流れとしてとらえていた。
「本能の流動だ。
 音と光り。もつれ会ひ、渦巻く、一大交響楽。そこには乱調の美がある。
 男は、女は、此の色彩と交響の狂奔の中に流れ込んでは、その中から、明日も生きようといふ希望を拾ひ出して行く」
 という一節もみえるが、活気ある盛り場にも一沫の不安をよみとらずにはおかなかった。商店主の発言に耳を傾けながら、彼は衰退の徴候の根本的な原因をとりあげている。それは浅草を丸の内や銀座に仕立てようとしていることではないか。浅草が他の盛り場と形態外観のみ競っていたら、愚劣な話ではないか。浅草は断固として浅草でなけれぱならない。浅草の現状は浅草の特質を振り捨てようとしているのではないか、もっと影を持て、バカ面をして笑える浅草をとりもどせというのである。」

 浅草は、庶民の娯楽の場であったということの中には、猥雑さも存在してきたし、怪しさもあったわけだが、次第に猥雑は整理されていき、浅草からは姿を消していく。例えば、十二階下というとかつては魔窟などと形容されていたところだ。十二階と呼ばれた展望塔のあった辺りの周辺には、銘酒屋という私娼窟が広がっていたりもした。言問通りの建設が行われる時に、これらは浅草から追われていき、玉の井という新たな町へと移っていった。おそらく、震災後の復興期によって、こういった方向性はより強化されていったことだろう。大正期に遊郭が許可されてきたところでも、町の外へ指定したエリアを作りその中だけで営業させるという方向性の指導が行われている。それは公娼の管理という意味合いもあるが、それだけではなく行政が風俗を支配下に置いてコントロールするためでもあったわけで、浅草のような歓楽街がその影響の外にあろう筈もない。
 それに加えて、震災復興で再建されていく浅草の町が、かつての浅草とは違う方向に向かおうとしていることを、添田唖螺坊は感じとっていたのだろうか。

「浅草は金龍山浅草寺の門前町として発展した街だった。寺門静軒の『江戸繁昌記』には「都下、香火の地、浅草寺を以て第一と為す」と書かれている。縁起によると、寺の草創は上代のことといわれるが、徳川幕府の庇護によって栄え、境内にはのち東照宮がまつられている。雷神門から本堂にむかって「東西十二の子院、駢び住つ。而して雑商・並びに其の廡下に肆ぶ」とあるところからは、江戸期からの盛況を想像することができる。吉原が日本堤に、芝居小屋が猿若町に移されたことによって、浅草一帯は庶民の信仰と芸能・遊楽の一大根拠地になったことがわかる。明治になってからは、東京府のもとで寺内は浅草公園地となり、七区にわけられた。一区は本堂の周囲、二区は仲見世、三区は伝法院、四区は大池・ひょうたん池付近、五区は奥山、六区は見世物街、七区が東南部だった。映画館や芝居小屋の立ちならんでいた場所が通称、六区といわれるのはその区分けからきている。」

 浅草寺が、東京最古の寺であることを知る人はどのくらいいるのだろうか。この場所が江戸開府より遙かに古い時代から交通の要衝であり、寺が置かれてきたという事情がある。また、江戸時代以降の寺町としての浅草というのも、今よりも遙かに多い数の寺が浅草寺周辺に集まっていたわけである。先に書いた様に、震災前から東京の都市計画はじわじわと進められていたものもあって、元は浅草であったのに旧市街の周辺地域へと移転したという寺の数は結構あるものだ。それに加えて、震災復興の折に大量の寺が移転している。我が家の寺も、浅草から震災後に西東京市へと移転している。
 また、浅草公園の話というのも、都市内に公園を作るという発想から実行については、明治という時代を思うと先進的であったと思うのだが、公園とはどうあるものかという辺りの詰めが甘かったり、その後の計画性に継続性が欠けていたりで、浅草もその盛衰に関わるような大きな変化をしていくことになる。東京の公園としては、上野公園、芝公園と並んで指定されていったわけだが、今日でもその姿を留めているのは、上野公園のみと言っても良いかもしれない。浅草も、芝も公園指定された当時の面影はない。



「雷門の風神雷神は慶応元年十二月の火災以来、再建もされず荒れたままであったらしい。大正十四年、仲見世の復興にさいし、雷門は模造されたが、風雷二像はベンキ画の書割だった。それは物笑いの種になって、たちどころに取りはらわれている。
 久保田万太郎は古い浅草から新しい浅草への変化を嘆いた人だった。震災後の芥川龍之介の浅草見聞記をひきながら、仲見世から公園、公園裏にかけて、ことに池のまわりの見世物小屋に「新しい浅草」がうち立ちたてられたという。そこは「これからの浅草」の中心だと書いた(「雷門以北」)。夢のように伸び、花びらのように密集したそれらの町々と表現しているが、そこには彼の少年時代の記憶につながるものばかりである。
 彼は田原町三丁目十番地(いまの雷門一丁目五番)の生まれだが、そこは六区とはかけはなれた、静かな場所であったらしい。そこから馬道にあった浅草尋常高等小学校にかよっている。昭和二年執筆の「雷門以北」では浅草広小路や仲見世、そして南北、東西のこまかな路筋を描き、軒をならぺる多くの商店の名をあげている、古書肆「浅倉屋の露地」という表現も出てくる。広小路と公園をつなぐ二つの道のひとつで、彼は小学枚へ通うのにそこを通って仲見世へ出るのである。
「今よりずつと道幅の狭かつたそこは、しばらく両側に、浅倉屋の台所口と“片つぽの角の蕎麦屋の台所との続いたあと、右には同じく浅倉屋の土蔵、左には、妻に灰汗桶の置かれてあるやうな女髪結ひのうちがあつた」と書いている。並びには出羽作という有名なばくちうち、西川勝之輔という踊りの師匠、道をへだてたところには日本橋の小間物問屋の隠居が住んでいた。私は浅倉屋の先代、吉田久兵衛氏と親しくさせてもらったことがあって、吉田さんはこのような環境に育ったのかとおもいをあらたにするのだが、万太郎がいうには、そこを通るたびにそのような構えの家にいつかは住みたいと空想したというのだ。浅草もちょっと横丁へはいると、実に静かなところだったのであろう。」

 雷門が江戸時代末に焼失し、その後再建されたのが昭和35年であったという話を聞いた時には、驚いたものだった。いかに浅草に馴染みがないと言っても、東京で生まれて育っていれば、浅草雷門の景色は当たり前に擦り込まれてきたものだ。それが、永らく無かった、そして再建も昭和35年というのは、意外に思えたのだった。この関東大震災後に、仮設された雷門の姿というのはあまり写真でも見た覚えがない。むしろ、何もなくて仲見世が続いている写真を見て、本当になかったのかと思ったものだ。それにしても、風神雷神の姿をペンキで描いた書き割りでというのも、当時であっても物笑いになったというのは分かる。
 久保田万太郎は、明治22年の生まれ。その時代の浅草、それも少し浅草寺から離れた辺りの町場の雰囲気というのは、とても興味深い。江戸の香りを色濃く残していた時代であったろうし、町並みも少しずつ変化していても震災や空襲のような根こそぎ全てが無くなってしまうという状況ではない。その具体的な空気の匂いまで感じられる様な話だと思う。

「私にも焼けただれた浅草の風景は眼にやきついている。五重塔のあった場所の前でも、二天門のあたりでも、昔ながらのがまの油売りや路傍の芸人が人を集めていた。公園の樹木は枯れそうだったし、六区の池には焼跡の残骸物が汚く散乱していた。路ぱたには露店が軒をならぺて、靴やら衣類やら食べものを売っている。買うものはなくとも多くの人々で混みあっていた。浅草はなんといっても、人のあつまる場所であった。
 万太郎は郷里のあれはてた姿に「浅草よ、しづかに眠れ」と絶望の声をあげている。子供の時分のゆめ、この土地に育ったころのゆめがよみがえったといい、そこからは震災も戦争もなかったころの「わたくしの浅草」の風景がひらけてきたと書いている。彼は処女作「朝顔」以来、浅草を書きつづけてきたが、このころ「新しい浅草」なぞ、信じられなかったにちがいない。しかし浅草は逞しく立ち直るのである。

 震災での焼失を浅草寺は免れたのだが、戦災は容赦なかった。震災の時に無事だったことでここに逃げた方で、亡くなられた方もおられると聞いたことがある。久保田万太郎も戦災で居宅と蔵書の全てを失ったというが、それに加えての東京の惨状には絶望的な気持になったのだろう。震災と戦災の二つを経験してきているというのも、今思えば凄まじいことだと思う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 文京区本郷界隈~最近消えた景色 | トップ | 新宿区下落合、豊島区目白~... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東京・遠く近き」カテゴリの最新記事