さて、池上本門寺の総門を入って直ぐの左手に山門がある。本門寺の玄関内側ともいうべきところにあるのが、理境院。
「理境院
元享年間(一三二一~一三二四)本門寺三世 日輪聖人の住坊として開創。大坊本行寺、照栄院と共に池上三院家の一つに列せられ、古来より朱塗りの山門(赤門)を許される。延宝年間(一六七三~一六八一)に長澤氏の母 理境院妙性日貞尼の寄進の法功をたたえ理境院と改称。慶応三年(一八六七)官軍の江戸城明渡し要求の際に、官軍参謀西郷隆盛は当院を宿舎にあてたと伝えられる。明治十一年(一八七八)堂宇を小学校校舎に使用、池上小学校の前身となる。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/58/ba492b0bdc6840e1b0c17e8bafdec17b.jpg)
今は庭も美しく整備されている。ここに西郷が緊迫の度を増した幕末にいたのだろうか。そんなことを思うと、興味深い。また、池上が東海道の間道となっていたことも伺わせる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/26/a3c42f79161a3ade607af6d1da3e60e8.jpg)
妙祐山の扁額。これを西郷も見たのだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/92/cf3a043ba3d2befdf24440db6ac4f950.jpg)
そこから池上の山裾を巡る様に時計回りで見ていこうと思う。少し行くと、神社がある。本町稲荷神社という。元はより南側の土手上にあったというが、大正9年に長栄稲荷、玉造稲荷、田上稲荷を合祀して、ここにできたらしい。本門寺の山裾に意味ありげなと思ったら、意外なほどに新しい神社だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/08/1540f055c7b75cc5afcde944a553f0a7.jpg)
境内は舗装されているので、こざっぱりとしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/1d/c05573ecd2adf8bd33e3a4f0c571a617.jpg)
神楽殿も立派なもの。周辺の宅地化が進む中で、鎮守が欲しいと言う願いから作られたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/fa/182bb7bbccd87bf28d1eee86d04baa28.jpg)
どうも、神仏分離の影響の下でできた神社であるようだ。大正期にできたということで、明治の廃仏毀釈の時期のような乱暴な事はなかったようだが、鎮守が欲しいと言う話自体が、当時の神社の政治的な意味合いを思わせる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/94/0c038110cdc5177f8217a7111694925b.jpg)
社殿も大きなものではないが、細工も丁寧にされている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/f8/2f6ad8fe46d9811a87a0536617262c85.jpg)
狛犬には、大正12年2月の銘がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/00/f59317c3ad0d4b35b3d53ed125f9a4f7.jpg)
ちょうど、本門寺へ上っていく車道の車坂の下に当たる。その登り口に立つ木。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/55/871af228786691c3d4b3266bdb1eeff8.jpg)
横手を上っていくのが車坂。
「『新編武蔵風土記稿』に「車坂、経蔵の背後の坂なり」とあり、また、「池上長栄山本門寺図」天明元年(一七八一)には、車坂が描かれている。昔からある古い坂道である。」案内より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/68/33dcee73ecea1c5d981eca94f87afb1b.jpg)
「理境院
元享年間(一三二一~一三二四)本門寺三世 日輪聖人の住坊として開創。大坊本行寺、照栄院と共に池上三院家の一つに列せられ、古来より朱塗りの山門(赤門)を許される。延宝年間(一六七三~一六八一)に長澤氏の母 理境院妙性日貞尼の寄進の法功をたたえ理境院と改称。慶応三年(一八六七)官軍の江戸城明渡し要求の際に、官軍参謀西郷隆盛は当院を宿舎にあてたと伝えられる。明治十一年(一八七八)堂宇を小学校校舎に使用、池上小学校の前身となる。」
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今は庭も美しく整備されている。ここに西郷が緊迫の度を増した幕末にいたのだろうか。そんなことを思うと、興味深い。また、池上が東海道の間道となっていたことも伺わせる。
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妙祐山の扁額。これを西郷も見たのだろうか。
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そこから池上の山裾を巡る様に時計回りで見ていこうと思う。少し行くと、神社がある。本町稲荷神社という。元はより南側の土手上にあったというが、大正9年に長栄稲荷、玉造稲荷、田上稲荷を合祀して、ここにできたらしい。本門寺の山裾に意味ありげなと思ったら、意外なほどに新しい神社だった。
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境内は舗装されているので、こざっぱりとしている。
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神楽殿も立派なもの。周辺の宅地化が進む中で、鎮守が欲しいと言う願いから作られたという。
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どうも、神仏分離の影響の下でできた神社であるようだ。大正期にできたということで、明治の廃仏毀釈の時期のような乱暴な事はなかったようだが、鎮守が欲しいと言う話自体が、当時の神社の政治的な意味合いを思わせる。
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社殿も大きなものではないが、細工も丁寧にされている。
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狛犬には、大正12年2月の銘がある。
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ちょうど、本門寺へ上っていく車道の車坂の下に当たる。その登り口に立つ木。
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横手を上っていくのが車坂。
「『新編武蔵風土記稿』に「車坂、経蔵の背後の坂なり」とあり、また、「池上長栄山本門寺図」天明元年(一七八一)には、車坂が描かれている。昔からある古い坂道である。」案内より
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