東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

池上本門寺と周辺を歩く~その三:本門寺門前

2015-03-11 19:41:03 | 大田区
この池上本門寺周辺は、塔頭が数多く周辺に存在している。巨大寺院というのは、周囲に関連施設のように小規模な寺院を従えているというべきなのか。上野の寛永寺は今も19の子院を持っている。この本門寺も、最盛期には36もの塔頭があったと言うが、今も23を数えている。新しい寺もあれば古い寺もあり、その一つ一つを巡ってみるのも面白いものだ。日蓮宗の聖地であることは間違いないが、江戸の人々のように観光気分で巡ってみて、手を合わせてくると言うのも良いものだと思う。何しろ、都区内でこれほど一度に多くの寺廻りができると言うところは、そう多くはない。宗教的というよりは、物見遊山名気分で池上を巡ってみるのをお勧めしたい。まずは、池上本門寺の総門前から見ていこう。
呑川に架かる霊山橋を渡って直ぐ、左手にあるのが中道院。
「中道院
 日蓮聖人の滅後、直弟子 日頂聖人が開いた庵室を起源とする。もとは本門寺の南の谷の先にあり、いつの時代にか当地に移された。本門寺十世 中道院日陽聖人がここに隠棲したので中道院とよばれるようになる。本門寺二十五世 日顕聖人の庵室(場所は不明)不二庵が日顕聖人没後の宝暦四年(一七五四)中道院と合併。かつては、日顕聖人の宝脈に連なる本門寺貫首の退隠後の庵室であり、現在はその位牌所となっている。」


その来歴を見ると頷ける、黒門の雰囲気。


そして、呑川に向けて開けた雰囲気で庭がある。


奥には木造の庵が建つ。


静謐という言葉の似合う雰囲気の場所だった。


「本成院
 弘安五年(一二八二)日蓮聖人の直弟子日向聖人の庵室として開創。はじめは池上の北谷の池「とどめき」という所にあり、北之坊または喜多院とよばれた。その後、東谷にあった本成坊が廃寺となりこれと合併、再興された。
 慶長年間(一五九六~一六一五)本門寺十三世 日尊聖人の隠棲地として整備されたが、宝永年間(一七〇四~一七一一)に火災で焼失。享保年間(一七一六~一七三六)に現在地に移り再建、本成坊と称するようになった。」


参道に面して観音堂が建てられている。


その奥に本堂がある。この本堂は最近の新しいもの。


「喜昇山」が山号。寺号はない。喜昇山本成院がここの名称である。


参道の向かい側にも塔頭が並んでいる。一番呑川よりにあるのが常仙院。
「常仙院
 天文十八年(一五四九)本門寺九世日純聖人の退隠後の庵室として開創。もとは玉蔵坊と称した。常仙院開創に関わる伝説によると、蒲田御薗村の豪士 月村宗観の葬送の際に落雷と共に妖怪が出現して死者の右腕を持ち去ったが、日純聖人の祈念によりその腕が戻った。日純聖人はこの怪異が自分の不徳の致すところとして本門寺を退き当地に隠棲したという。以来、雷除けの護符を乞う者が多く門前市をなしたと伝えられる。」


ここも本堂は近代的な建築である。本門寺の聖人が隠棲する庵が塔頭になっていくという流れがあることが分かる。


その隣には鬼子母神がある。厳定院の別院として昭和6年にここに作られたそうだ。(猫のあしあとサイトより)


ここも改装されてぴかぴかという雰囲気。


その隣には、本妙院がある。
「本妙院
 本門寺二世 日朗聖人の直弟子日傳聖人が庵室として池上の西谷に開創。(年代不詳)旧称は妙蔵坊。元亀四年(一五七三)火災で焼失。本門寺第十二世 日惺聖人が当時の住持 本妙院日逗聖人に再建の資助を与え南谷外溝の道端に移築再興し、本妙院とよばれるようになった。元禄三年(一六九〇)本門寺の防災のため支院の整備、配置換え、惣門の建立、此経難持坂(石段)の改修などが行われ、本妙院も現在地に移されたという。」


ここは木造の落ち着いた雰囲気の本堂、そして境内。


門前だけでも、それぞれに持ち味の違った雰囲気で面白い。

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