ブラタモリ、今回は荒川とのこと。ただ、この第三シリーズに入ってからのブラタモリは二週使って一つのテーマを取り上げるパターンが続いているので、次回の荒川後編の内容次第というところもあるので、今回は少し手加減しながら進めてみたい。
今回は葛飾区の葛飾区郷土と天文の博物館の協力の下で制作されていたようだが、岩淵水門辺りから水害については北区内が現場となる話であり、ちょっと不思議だなという印象を受けた。水害とその対策などについては、次回でも取り上げられるようなので、今回はあまり深く掘り下げないでおく。
荒川が人口河川である話から始まるのは良いのだが、これをポイントに盛り上げるのなら、以前のシリーズで御茶ノ水に触れたときにももっとそこを協調しても良かったのでは?と思えてしまう。御茶ノ水の開削を治水の面からだけ触れたりするのは少々片手落ちといった印象だった。戦国時代からの戦を前提にした設計がなされていたり、御茶ノ水の開削は奥が深い話だったはず。
つい脱線してしまったので、荒川に話を戻す。今では地図でも荒川と表記されているが、ある世代以上にとってはあの川は荒川放水路という名で知られてきた。それこそ正に、人口河川であったからこその名前でもある。岩淵水門で撮影しているのに、当初に作られた赤水門に触れもせずに青水門の話がされて、CGでも荒川放水路建設のシミュレーションが流されたけど、そこにも青水門が描かれていたりというのはちょっとどうかと思う。
青水門というのは、今回登場した現役の水門で、赤水門とは僅かに上流側に位置する荒川放水路建設当時に作られた水門のことである。水門の扉がそれぞれ色分けされていることから、そう呼ばれている。
こちらが赤水門。

そして、今回登場した青水門はこちら。

放水路建設の経緯について、さらっと水害が多かったという触れ方をしていたが、実際に東京が大水害と言うほどになった機会がしょっちゅうだったわけではない。明治43年8月に大水害が発生し、これを契機に放水路の建設が決定された。
また、我が国に於いてと言うのであれば、大阪での明治18年の大水害を契機に明治22年から明治30年に掛けて行われた淀川改良工事、そして新淀川の開削が上げられる。この経験があればこそ、荒川放水路の大工事にも速やかに取りかかることが出来たわけである。その工事を指揮した青山士についても、一切触れないままだったのもちょっと残念だった。
タモリ氏の話で、川はいつも台地を削ろうとしているという話が出て来たが、これには異論がある。河川による浸食はもっぱら傾斜地を川が流れているときに起き、平野部に入った河川は堆積作用をもたらす。浸食ばかりが河川のもたらすものではないということ。
次回予告を見ていても、あまり取り上げられないようなので書いてしまおうと思うのだが、この荒川放水路の開削によって最も影響を受けた町が千住ではないかと私は思っている。この工事が行われた明治末から昭和初期に掛けての時代に、この工事に掛かる地域で最も大きな町が千住だった。全国的にその名を知られた名倉接骨院があったので、放水路はそれを回避してカーブしているとも言われている。工事の結果、日光街道の旧道は寸断されて行き止まりになった。なにより、北千住の町の北側は開けた平野が一転して、川に遮られることになってしまったわけである。そういう観点から、荒川を取り上げるのであれば、北千住という町は避けられない場所だと思っていたのだが、番組ではスルーされそうなのが少々残念。
次回も荒川の後編ということなので、期待しておこうと思う。予想以上の内容を見せて欲しいところ。
今回は葛飾区の葛飾区郷土と天文の博物館の協力の下で制作されていたようだが、岩淵水門辺りから水害については北区内が現場となる話であり、ちょっと不思議だなという印象を受けた。水害とその対策などについては、次回でも取り上げられるようなので、今回はあまり深く掘り下げないでおく。
荒川が人口河川である話から始まるのは良いのだが、これをポイントに盛り上げるのなら、以前のシリーズで御茶ノ水に触れたときにももっとそこを協調しても良かったのでは?と思えてしまう。御茶ノ水の開削を治水の面からだけ触れたりするのは少々片手落ちといった印象だった。戦国時代からの戦を前提にした設計がなされていたり、御茶ノ水の開削は奥が深い話だったはず。
つい脱線してしまったので、荒川に話を戻す。今では地図でも荒川と表記されているが、ある世代以上にとってはあの川は荒川放水路という名で知られてきた。それこそ正に、人口河川であったからこその名前でもある。岩淵水門で撮影しているのに、当初に作られた赤水門に触れもせずに青水門の話がされて、CGでも荒川放水路建設のシミュレーションが流されたけど、そこにも青水門が描かれていたりというのはちょっとどうかと思う。
青水門というのは、今回登場した現役の水門で、赤水門とは僅かに上流側に位置する荒川放水路建設当時に作られた水門のことである。水門の扉がそれぞれ色分けされていることから、そう呼ばれている。
こちらが赤水門。

そして、今回登場した青水門はこちら。

放水路建設の経緯について、さらっと水害が多かったという触れ方をしていたが、実際に東京が大水害と言うほどになった機会がしょっちゅうだったわけではない。明治43年8月に大水害が発生し、これを契機に放水路の建設が決定された。
また、我が国に於いてと言うのであれば、大阪での明治18年の大水害を契機に明治22年から明治30年に掛けて行われた淀川改良工事、そして新淀川の開削が上げられる。この経験があればこそ、荒川放水路の大工事にも速やかに取りかかることが出来たわけである。その工事を指揮した青山士についても、一切触れないままだったのもちょっと残念だった。
タモリ氏の話で、川はいつも台地を削ろうとしているという話が出て来たが、これには異論がある。河川による浸食はもっぱら傾斜地を川が流れているときに起き、平野部に入った河川は堆積作用をもたらす。浸食ばかりが河川のもたらすものではないということ。
次回予告を見ていても、あまり取り上げられないようなので書いてしまおうと思うのだが、この荒川放水路の開削によって最も影響を受けた町が千住ではないかと私は思っている。この工事が行われた明治末から昭和初期に掛けての時代に、この工事に掛かる地域で最も大きな町が千住だった。全国的にその名を知られた名倉接骨院があったので、放水路はそれを回避してカーブしているとも言われている。工事の結果、日光街道の旧道は寸断されて行き止まりになった。なにより、北千住の町の北側は開けた平野が一転して、川に遮られることになってしまったわけである。そういう観点から、荒川を取り上げるのであれば、北千住という町は避けられない場所だと思っていたのだが、番組ではスルーされそうなのが少々残念。
次回も荒川の後編ということなので、期待しておこうと思う。予想以上の内容を見せて欲しいところ。
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