東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(18)銀座の娘さん

2012-06-16 22:19:18 | 東京・遠く近き
 「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

前回から銀座を舞台にした話になってきている。銀座という、東京を代表する商業地だけに内容は深くなっていく。およそ東京人で銀座に何の感傷も持たない人というのも少ないのでは無かろうか。東京の東京たる町といえば、銀座をおいて他にはないようにさえ思える。
「銀座は記念碑の多いところである。場所の由来とかそこにかかわった人物を語る説明書きまでくわえると、かなりの数にのぼる。そこには元禄の昔から、ことに明治以降の発展と変貌の歴史がこめられている。
 京橋からはいるとすると、橋の手前の東詰のつつじの横込みのなかに「京橋記念碑」(昭和十三年建立)があり、擬宝珠欄干の親柱(石柱)がのこされている。向い側には「江戸歌舞伎発祥之地」「京橋大根河岸青物市場蹟碑」の碑、橋をわたると(いや、高速遺路をくぐるといったほうか正確なのだが)、「煉瓦銀座之碑」かあり、ガス燈が復元されている。」

京橋の跡にある記念碑。本文で触れられているもの。


確かに、銀座の街を歩いていると、あちらこちらに記念碑があることに気が付く。日常で銀座にいる時期があれば、なおのことである。仕事の合間や昼食時など、歩いていると「あれ?こんなところにも」と思うことが多い。丁寧に書かれていることを読む時間があるとなるほどと感心し、何の碑なのか見るゆとりすらない時は又の機会にしっかり見てみようかと重いながらそのまま忘れていたりと、様々である。銀座と縁が切れてたまにしか足が向かないようになると、あまりそんなことで感心することもなくなっているのだが、銀座の会社に勤めた時期があったことは、自分にとっては思い出深いものになっている。幼い頃から両親に連れられていったハレの銀座と、日々の仕事のために通った日常の銀座を持てたことは、銀座の街を身近に思える大きな材料になっている。

銀座の中央通り。これを銀座通りとも言っている。東海道でもあり、古くからの東京のメインストリートでもある。八丁目から一丁目方向を望む。


「路上にみられる銀座の記念碑は、みな戦後のものである。大震災や戦災にみまわれて、銀座もこの百年余のあいだに幾変転をかさねたわげだが、建碑の推進役に銀座通連合会会長の保坂幸治という人物のいたことが短られている。彼は明治十九年、木挽町の生まれ、府立一中から東京高商に学んでいる。中学では谷崎潤一郎と同級であった。二人が「銀座百点」で対談をしていたことを記憶しているが、三年ほどまえ、四丁目の玩具店「キンタロウ」を生家とする田中康子さんの『銀座は緑なりき』(武田勝彦氏との芙著、六興出版)を読んでいたら、保坂は康子さんの母方の祖父とあった。」

今の銀座はビルの建ち並ぶ街であって、人の暮らす町としての側面は壊滅的な状況になっている。中央区は家賃補助などを行って、マンションの住人を増やそうと手を打ってはいるのだが、こういう形では町の再生は困難だとしかいいようがない。町はそこに暮らす人のコミュニティという側面を強く持っているものだから、住人の関係性を希薄化していく傾向の強い近代建築の住宅をいくら造ったところで、そこにはコミュニティは簡単にはできない。戸建ての住宅の方がまだ、その可能性はあり得るのだが、地価のべらぼうな銀座ではそれは不可能に近い話になってしまう。

京橋の中央通りの反対側、これも本文中で触れられている江戸歌舞伎発祥之地の碑。


そんな風になってしまう中でも昔からの銀座の商店主の中には、町としての銀座を意識する人々もいた。銀座の顔と言っても過言ではないのが、オモチャ屋の「キンタロウ」。そのご主人が一度は銀座から住まいを移したのに、銀座の町を再興したいということから再び銀座に住まいを戻されたという話を聞いたのは、もうずいぶんと前の話になる。おそらくは、この随筆が書かれた頃ではなかったかと思う。そして、昔からの銀座の商店の旦那衆の結束で「銀座百店」も刊行され続けているということなのだろう。そんな活動の中に銀座に記念碑を建てるということも含まれていたわけだ。

「その建碑第一号は、御木本幸吉翁を顕彰する「真珠王記念碑」であった。つづいて「商法講習所」の碑、「銀座発祥之地」、「煉瓦銀座之碑」「銀座柳之碑」を建てている。康子さんによると、
 「これらの碑を建設することを提唱し、浄財を集め、時には私財を投じたのも保坂であった。しかし、保坂は自分の名をどこかに刻み込むようなことは一切していない。私はその商人根性がたまらなく好きである。(中略)
 現在、秋になると大銀座祭が挙行される。この基礎を固めたのは保坂だ。昭和二十三年に銀座に柳を復活した保坂は、柳まつりを実施した。その後、毎年イヴェントを生み出し、二十九年に第一回の銀座祭を実施したのである。保坂の熱意が銀座の小商人たちを動かした話は、古老たちの問に今も伝わっている。」
 キンタロウの娘さんは、三越銀座店の裏通りに住んでいたこの祖父について、たいへんあたたかい想い出をのこしている。祖父の慈愛をうけて育った戦後の日々を鮮やかに描き出している。一時、彼の家の小さな中庭に祀ってあった銀座出世地蔵尊は、空襲で焼野原になったとき行方不明になっていたものというが、それを探しあてたときの「祖父の喜び」は、ほかにたとえようがないほどである。それは三十間堀のお地蔵さまであった。その後、キャバレー美松に祀られ、美松が火事になったあと、三越と王子製紙ビルのあいだの小さな祠にうつされている。いまでは三越屋上に永久存続のかたちで鎮座しているとのことだか、それほどまでに地蔵尊安置に執念をもやしたのは、土地にたいする愛着であり、その愛潜の根底をかたちづくる少年時代の記億であったとおもえる。この本に引用されている保坂の「銀座地蔵尊の縁日」(「銀座百点」昭和三十年五月号)という文章を読むと、それがよくわかる。

この辺りから話は佳境に入っていく。つまり、銀座「キンタロウ」の主人であった保坂幸治という人物にスポットが当たっていく。下町であった銀座、そしてその商人気質というものが銀座という町の底流として存在していることが面白い。今の時代では、建ち並ぶビルに押し潰されそうになってはいるが、それでもまだ生き続けている。銀座の町でも、既にビルディングが二世代目へと建て替えられている。時代を経てきた建物が驚くほどに減っている。先日、本郷館展を見に行った時に銀座の町を歩き回ってみたが、覚えのある建物がほとんど姿を消していたのには驚いた。やはり東京の中でも最も欲望の渦巻く町でもある銀座だけに、古いものを呑み込んで新しいビルへと建て替えてしまう貪欲さも一塩だと思った。
銀座の商人気質ということに繋がるのかもしれないが、私の母親から聞いた話だが、かつての銀座は今でいうセレクトショップの並ぶ町だった。ブランドの直営店などは考えられない時代のことだ。そして、その頃の銀座の店はその店のセンスで仕入れてきた商品を売っていた。そして、ショーウインドウに並ぶ商品についている値札は裏返されていたという。つまり、そのものを買うのは気に入ったから買うのであって、値段で左右されるわけではないというのは、その頃の東京人の心意気であったというのだ。かつては、関西人は本音でものを言い、東京者は見栄っ張りだと言われたものだった。今では、東京でもまず値段から話が始まるのが普通になっている。値段も見ずに買い物をするなんていうのは、今では幻と言えるだろう。

これは本文中に出てくるのとはかなり離れた銀座八丁目の八官神社。丁寧に歩いて回ってみると、銀座の中には結構多くの小さな神社があることが分かる。町割も昔のまま残されているし、江戸以来の町の要素は未だに残されているとも言える。


文中に出てくる大銀座祭りは、その名を聞くと私も懐かしく思う。社会人になって銀座にある会社で働き始めたことは既に書いたが、銀座祭りには私の勤めていた会社もフロートを出していた。だから、パレードの本番の日にはその撮影に行くのも恒例行事になっていた。そして、この夜のパレードの日には良く雨が降ったのも覚えている。冗談半分に「雨の大銀座祭り」と呼んでいたのを思い出した。電通通りの電通ビルの角に出ていたたこ焼きの屋台が美味しかったとか、そんな些末なことも思い出されてくる。

「縁日はたいへん愉しいものだったらしい。毎月七日、十八日、二十九日の夜には有名な露店か出店した。銀座四丁目側はいまの三越の横から三原橋まで、これを左折して三丁目の北端まで、延いては二丁目辺まで、五丁目側はライオンの横から三原橋まで、それから五丁目の木挽橋まで、数百の露店かならんだというのである。轡屋、名所名優の写真屋、風船屋、化粧品、より取り玩具、絵双紙、ぶっきり飴、べっ甲焼、蒸松風、ぶどう餅、はっか糖、しん粉細工、みかん水、アイスクリーム、切りざんしょ、おこし、ねじりんぼう、駄菓子、台所用品、金魚、虫、見世物、からくり、猿芝居、ろくろ首、改良剣舞、珍獣奇鳥(インチキ物)、大蛇、植木、盆栽、箱庭、風鈴、噴水、稗蒔、燈籠、盆石の店。三丁目から六丁目にかけての大通り(保坂によると「縦通り」とある)には、寿司屋、おでん屋、牛めし屋、一品洋食の屋台が出た。
 「この縁日の露店は、午後五時から出店して、たいてい良い場所は定石二であったようである。電気のない時代であるからカンテラで照明し、のちにはアセチリン瓦斯、臨時電灯という風に変遷し、段友と明るくなった。私の子供時代、即ち明治二十六年頃から三十七、八年の日清、日露戦役の時代が最も情緒豊かな時代であったと思う。そして縁日の晩は六時頃から九時頃までは、地蔵堂に参詣する善男善女か狭い路地を往復して、餐銭をあげて礼拝するもの、引きも切らぬ状態で、なかなか往来も出来ないほど混みあったものである。やがて十時ごろとなると、表通りの商店が閉店して、それらの主人や店員が出て来て、またひとしきり賑やかになる。
 ことに人気俳慶が、芸者や女将を連れて、それぞれ団扇片手に槙木屋を冷かして歩書、また粋な浴衣がけで、植木の一鉢を片手に持ち上げて行く姿は、まことにのんびりとしたもので、絵のような情景とも言えよう。」
 四季おりおりの風物、色彩、縁起ものの移りかわりはいうまでもない。少年の日々の忘れ得ぬ愉しさは、焼野原の銀座にあってもつねに保坂幸治の胸中に去来していたのであろう。この文章のおわりを「支那事変以来灯火管制などで事実上縁日の露店は絶無となり、地蔵堂も寂翼となった」と結んでいる。」

この下りは少々長いのだが、在りし日の銀座の縁日、夜店風景を描いているところなので、敢えてそのまま掲載することにした。私の母親に聞いても、幼い頃に両親に連れられて銀座の夜店を冷やかして歩いたのを覚えているという。戦前の昭和14、5年辺りのことだろうと思うが、アセチレンランプの輝く中、私の祖父は骨董の趣味があったので、そういった店やら古書の露店を冷やかしてまわり、両親に片手ずつを持たれた母は眠さのあまりそこにぶら下がるようにして連れて歩かれたという。ある世代以上の人々の銀座の思い出ということになると、必ずこの夜店という話が出てくる。銀ブラといい、この夜店といい、銀座という町はただ買い物や用事を済ませに行くところではなく、そぞろ歩く町であったところに特色があったと言えるのだろう。この辺りになると、高度成長期以降しか知らない私には、想像の中の世界になってしまう。
そして、表通りの夜店が並ぶ町である一方では、カフェの流行もあったわけで、今よりも妖しい空間も銀座には広がっていた。そんなことも含めて、町の情景として想像していく上で、この夜店の話は欠かすことが出来ないと思う。
また、銀座とは別の話になるのだが、明治期の大阪でも町中に縁日の露店が出ることが月に何度も決まっていて、商店の営業が終わった後の商人や奉公人たちの身近な娯楽で息抜きとして日常的なものであったという。日用品の販売も行われていたので、細かい買い物まで含めて、身近で手頃な娯楽としての夜店の露店というのは、大都市の風物でもあったのだろうと思う。

田中康子さんの祖父保坂氏への思い、そして泰明小学校へ通った頃のこと、古い家の思い出など、生きてきた中での思い出として銀座という町、そして自らの育った家のことが語られているという。この「銀座は緑なりき」は未読なのだが、こうしてそれを元にした近藤氏の文章を読んでいると、無性に読みたくなってきてしまう。この「東京・遠く近き」という文章は、私にとってはやはり東京の変遷を知る上での教師のような存在になっている。これを読んだお陰でその存在を知って読んだ本は数知れない。

銀座というと、こんなビルの間の細い露地を思い浮かべる人も多いのではと思う。日常として銀座に通ったことのある人なら、尚のことだろう。ビルの間の薄暗い路地を幾つも覚えておいて、さりげなく近道をしたりというのもやってみたかったように思えたりする。銀座八丁目新幸橋に近い辺りにて。


「「蘭法講習所」の碑の発案は、銀座の商人遺と自分の母校にたいする想いをかさねあわせたところから生まれたのであろう。彼は世のため、人のため、街のために、真ごころをもって働いてきた。しかし碑に自分の名を刻むことはしなかった。そこに人聞としての美しさがある。」

銀座はその名を知られる町となって以来、土一升金一升と言われるような土地柄で、それ故に数限りなく欲望や盛衰、そして悲喜こもごもを繰り返してきた土地でもある。そんなところで代々の商いをしっかりと続けていながら、自らの名声を望むことはせずに、自らの町を愛した人物として、保坂氏のことは記憶されるべきだろうと思う。東京人気質の美点を最大限に備えた人であったことが偲ばれる。そこに意地を張るのが美学というものなのではないだろうか。そして、そんなところで意地を張るが故に、多くの東京の商人達は地方からやって来た野心家たちに駆逐されていったのだとも思えてしまう。

「保坂幸治の生涯のいくつかの断片からもわかるように、人間の生き方はその少年期に決定づげられるようにおもえる。ことに小学校、中学校時代の体験は貴重である。場所はどこであろうと、人間の生きた証しはつねにそこへもどってゆく。若年のころはそれに気づ分ずに遇してしまうが、年をかさねるにつれて体験の重さにあらためて気づくのである。」

こういった話は、自らもある程度の年齢に達してこないと響かない話なのかもしれない。幼い頃には、大人というのはどれほど自分と違う存在であるのだろうかと思っていても、いざ自分が年齢を重ねていくと、人の内面というのは幼い頃から変化がないわけではもちろんないのだが、変わらない部分が想像以上に大きいことに気付く。その一方で小学校や中学校の頃に自分が、柔らかくて様々な刺激を受けることで変化したことを、後々になるとよく理解できる。そして、その頃に得た経験で作り上げてきた自分という人間で生きてきていると言うべきなのか。

「私の旧友のお佳さんも銀座生まれの銀座育ちだった。田中康子さんか第二次大戦後の銀座復興の歴史のなかに生きたとすると、お佳さんは昭和四年に泰明小学校に入学しているから、関東大震災あとの銀座再建を眼のあたりにしたことになる。
 彼女と短りあったのは昭和三十三、四年のころである。そのころ勤め先は丸ピルから京橋二丁目の新築ピルに移っていて、私は「婦人公論」の編集部にいた。女流新人賞の担当をしていたので、夏になるとたくさんの応募原稿を読まなければならなかった。そのなかに和歌山から寄せられた長谷川佳「黒肩の眼」という歴史小説があって、きちっとした筆致で奈良の大仏殿造営をあつかい、そこに使役きれた民衆の苦しみを描きこんでいた。惜しくも当選作にはならず、佳作第一席として名をとどめることになったが、円地文子、平林たい子両氏の好意的な批評が印象にのこっている。
 住所と題材から、私は関西の人とおもいこんでいたが、上京されたのを機会に会ってみると、和服のにあう美女で、言葉といい着こなしといい、純然たる東京の下町っ子であった。三十九年になって、音の文学伸間と同人雑誌を再刊したとき、同人にくわわってもらったが、そのお崔さんポ『銀座には川と橋かあった』(昭和五十九年、芸立出版)という本をまとめたのである。」

我がふるさとは銀座というのも、今となってはそういえる人が減る一方に思える。生活空間としての町は、今では銀座にはほとんど見当たらなくなっているように思う。昭和通りを越えてかつての木挽町といった辺りまで行くと、微かに下町の風情や生活感が残されているところもあるが、それも本当に僅かになっている。しばらく前までは、晴海通りと中央通りに近い辺りの銀座五丁目でも、ビルの間を潜り込むように奥へ入っていくと、信じられないような戸建ての一軒家があったりしたものだった。夜になると、バーになったりするのだが。私が勤めていた頃には、そんな中に昼はアジフライ定食だけ出る店があったりとか、記憶がある。いつの間にか、銀座の店も顔触れが随分変わってしまった。

ここからは昭和初期の銀座の生活を、長谷川佳さんの著書と共に辿っていくことになる。泰明小学校は、今も続く銀座の小学校である。震災復興期に建てられた鉄筋の校舎は今も健在で、リニューアルされながら使われ続けている。長谷川さんは今も残る校舎が出来た昭和4年に小学校へ入学されている。関東大震災の後、仮住まいで当時並木通りにあった朝日新聞の旧社屋を借りていたという。その年の六月にようやく新校舎が完成した。
「移転の日、旧校舎にあつまった子供たちは、「新しい上履をめいめい提げ、隊伍を整えて並木通りから新校舎へと行進した」と書いている。」

中央区立泰明小学校。

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