東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

足立区千住河原町~その二

2014-08-08 18:19:25 | 足立区
足立区千住河原町の続き。この町、なんといっても旧街道沿いにやっちゃ場が賑わったことで知られている。今も、その痕跡を町興しに活かす試みも行われている。
「此処は元やっちゃ場南詰 やっちゃ場の由来
 やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。
 街道の西側に三十数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響きわたり、江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和十六年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青果市場は東京都青果市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残った。
 五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒をならべている。まさに専門店街である。日本の専門店街はここから始まった、と言っても良いだろう。
 旧道を楽しくしようかい 千住大賑会 河原」


京成電車の高架線が頭上を越えて東へと延びていく。旧道はこの下を潜って北へと延びていく。


かつては街道沿いに石畳のスペースが設けられていて、そこがやっちゃ場として野菜が積み上げられていたそうだが、今では建物も建て替えられていて、そんな景色はあまりの残されてはいない。それでも新しい建物にも、かつてそこにあった青物問屋の屋号を記した木札が掛けられている。


包装用品卸の佐々木商店にも、「傘弁 元青物出仲買商 投師 石井」という看板が出ている。
「投師とは
 通称「投師」正式には出仲買商と言う。千住のやっちゃ場だけにあった商人形態である。店を持たず仲買人の店先を借り、セリに参加していち早く大八車に品物を積み東京市内の全市場へ駆けつけ売り捌くのである。やっちゃ場のセリはその為に夏は早朝三時から始まっていた。何が利幅があるかは情報が勝負である。昭和初期の投師は約百五拾人くらい
である。市内の市場はこの投師の持込む青果物でかなりの部分が賄われていたと思われる。それだけ千住のやっちゃ場が巨大な市場であったと言う事であろう。」


平屋の木造店舗。ここは「丸十の紋で、元車茶や 佐野屋」という看板が出ている。


奥へ向けて家が並んでいて、奥に倉があるのが見える。これもやっちゃ場の名残である。


谷清 谷塚屋。案内板が出ている。奥に建物があり、手前に石畳の広場があるやっちゃ場時代の様式を残している。
「谷清 谷塚屋 元青果物問屋 両替商から青果物問屋へ
 江戸後期よりやっちゃ場にて両替商を営み明治三十四年より青果物商となる。初代は磯吉・二代は清吉、ここで谷清 谷塚屋を名乗る。三代から五代までは婿とりで五代目の午三郎を青果物問屋山長和泉屋より婿として迎えて青果物問屋となり、主に土物を扱っていた。谷塚屋に保存されていた両替商時代の帳面からみると、両替商の商圏は千住周辺のみならず埼玉県草加や江戸川区平井附近の地名が読みとれる。青果物商となっても両替商時代の商圏を活用して広範囲に青物の集荷をしているのが現存する帳面から窺い知ることが出来る。特に大正期には関東全般は元より常磐線を利用して福島県いわき市や宮城県仙台附近の地名が印されている。やっちゃ場も昭和二十年四月の空襲で消滅し以後東京都足立市場となる。」


一つ一つ丁寧に見ていくと、それぞれに面白い。豊富に案内板があるので、じっくり見て歩きたい。


その隣には千住宿歴史プチテラスという私設がある。「千住歴史プチテラスの建物は、元千住四丁目の元地漉き紙問屋横山家にあった内蔵を平成5年に解体移築した土蔵です。蔵は間口三間半掛X奥行二間半の木骨土蔵造りです。」


往時の様子が一目で分かる、大きな案内板も設置されている。


旧道の裏手、国道4号線に面したところに、千住河原町稲荷神社がある。あだち観光ネットより。
「千住河原町の鎮守で、古くからヤッチャバの守り神として崇敬されてきました。木造漆塗りの大神輿が区の有形文化財に登録されています。国道4号線拡幅の際境内の一部がその用地となり、その際に境内の整備が進められました。嘉永3年(1850年)に鋳造された天水桶には、地域の人々の名が記されています。明治36年(1903年)に建立された「千住青物市場創立330年祭記念碑」があります。」千住河原町10。


此処も戦災の被害を受けている様で、拝殿はコンクリート造りのもの。青果市場の人たちに大事にされている神社とのこと。


稲荷神社の扁額。


旧道に向いた側が本来の参道であったのだろう。そちら側を望んだところ。こちら側の方が落ち着いた雰囲気をしている。


墨堤通り沿いにあったレンガ積みの蔵。これもやっちゃ場の時代からの名残だろう。周囲はマンションになっていて、青果物問屋のあった雰囲気は他には感じられない。千住河原町18。


この蔵だけが残されているという感じで、ポツリと建っている。この感じだと、もともとは右手に屋敷が連なっていて、邸内という形になっていたのだろう。入口がこの右手の側にある様だ。千住河原町18。


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