日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。
野のアザミ
恒例のシイタケこま打ち
2019-01-13 / 自然


コマうちと今朝のシイタケ
今朝の温かさはどうしたことだろう。雨上がりのせいもあるのだろうが、春はもうすぐの感じ。夕暮れは随分遅くなったが、夜明けはちっとも早くならず、明るくなるのは7時頃。
その夜明けを待って、冬のうちにやっておかなければならないブルーベリーの剪定を済ませた。30年を過ぎるものが3本、10年程のものが20数本。鋸と剪定ばさみを使って約2時間。どうにかすっきりなった。
その後、シイタケのこま打ち。自家消費用のために、年末にコナラを一本切り倒すのが恒例になっている。数年前までは手鋸で切り倒していたが、今はチェンソーでなくては歯が立たなくなってきた。一本のコナラを6本程に切り分けておいたのだが、コナラも毎年大きくなり、切り分けたものでも根元の方は動かすのが大変だ。年輪を数えてみたら14年。太くなるはずだ。
ということで、コマうちを終え、仮伏せまで終わった頃には少々筋肉疲労。ふと気がつくと、2、3年前に知人からいただいた蝋梅が、初めてほころび始めていた。春近しか。

ほころび始めた蝋梅
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「日は東に月は西」
2018-12-24 / 自然

「菜の花や月は東に日は西に」
画家であり俳人でもある与謝蕪村が詠んだ句だ。1774年(安永3)3月23日に詠まれた句 とされている。しかし当時は旧暦。様々な考察の末に、実際には旧暦の3月23日に詠んだのではなく、その10日くらい前に見た光景を思い出しながら3月23日に詠んだのではないかと言われているようだ。
それはそれとして、今日の月はまるで逆。「日は東に月は西」だ。
朝、夜があけると九州山地を眺めるのが一日の始まりだ。九州山地の方を見れば、空気の澄み具合から一日の天気までおおよそ分かる。今朝はガラス越しではなく、外の空気も感じたく玄関を出た。出た途端「オオッー!」。青い山地の上にまんまるの白い月が出ているではないか。何とも絵画的。それも東山魁夷氏の絵のごとし。これはカメラにおさめておかねば・・・。ということで撮った一枚。なんだか神秘的でもあり、月から地球を眺めると「ああいう風に在るのだろうか」とも思った。
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ミツバチが教えたツワブキのしくみ
2018-11-22 / 自然


冬が近づくと、野山には花が少なくなる。そういう中でひときわ目につくのは黄色い花が美しいツワブキの花だ。ギャラリーのまわりには幾つもツワブキがあり、今は花盛りなのだが、ミツバチがとまった花びらの写真をみて、「はてこれは・・・?」と思った。
花の中心部にニョキニョキと伸びたものが写っているのに気付いたのだ。
ということで、ツワブキの花について少しお勉強。一番外側の黄色い花びらのように見えるひとつひとつが、“舌状花”というそうだ。そういえば舌のようである。そのひとつを抜いてみるとよくわかるが、その中に小さな雌しべがある。雄しべはなく、2つに分かれた雌しべがあるだけだ。花びらの中心部は“筒状花”というそうだ。筒状の形をした花冠だ。花冠の先端は5つに裂け、その中心部から葯(やく:雄しべ先の花粉が入った袋)が伸びている。先に書いたニョキニョキがこれだ。その先端では隠れていた花柱が伸びて花粉を押し出し、花柱はさらに伸びて先端が2つに分かれていく。これまた雌しべで、ミツバチなどの助けで受粉する仕組みのようだ。
関心があれば、舌状花や筒状花を抜いてルーペなどで見てみることだ。自然界の仕組みに感心するかもしれない。今日は一匹のミツバチが知らなかった世界を教えてくれた。自然はすごい!
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大きな目玉模様のタテハモドキ
2018-11-18 / 自然


翅を閉じたらまるで枯葉
11月も半ばを過ぎると、ギャラリーまわりのツワブキも花盛り。濃い緑の葉っぱを背景に黄色い花がよく目立つ。窓から眺めていたらそこに一頭のチョウ。あたたかい陽の光を浴びながら翅を閉じたり開いたり。オレンジ色の翅に大きな目玉模様。写真を撮っておこうと外に出てみると、ツワブキから離れ、植木を支える杭の上にとまった。そして、じっと翅を広げたまま。先ほどは翅を閉じたり開いたりしていたのだが、はて・・・?。
そうか、やっと気がついた。翅の目玉をみせて警戒しているのだ。野鳥等から身を守るための術なのだろう。タテハモドキは南方系のチョウだ。以前は九州南部でも迷蝶だったそうだが、現在は土着とされている。しばらく杭の上に止まっていたが、私が移動したら向こうも枯れ草の上に移動した。えっつ!、今度は翅をとじたまま。閉じた姿は、まるで枯葉。目を離すと枯れ草の中にとけ込んでしまう。調べると、裏面の枯葉似の模様は秋型なのだそうだ。これも身を守るための術とみた。
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ホシホウジャク(星蜂雀)
2018-09-24 / 自然


「あなたは誰?」と言いたくなった。秋のお彼岸早朝、ほとんど終わりに近づいたゴーヤの花に、行ったり来たり。まるでハチドリのようにホバリングしながら花から花へ。すごい羽ばたきのため、ホバリングしている時はほとんど羽は見えないが、大きさはスズメバチほど。だがハチではない。ハチなら逃げなければならないが、そうではないので安心して観察できる。ストローになっている長い口吻を次から次に花の奥に差し込んでいる。体長と同じ程にに見える口吻は、細い細い針金のようにも見える。口吻だけ見るとチョウのようでもあるが、羽はまるで違う。
ということで名前を調べてみた。行き着いた名前は、ホシホウジャク。漢字で書けば、星蜂雀だ。由来は、どうも蜂のような雀蛾(ハチに擬態したスズメ蛾)ということのようだ。時に見かけることはあったが、いろんな花にくるようだ。それも活動は夜ではなく昼間だ。それもホバリングする上に、きれいな蛾だ。なので、またじっくり観察してみたい。
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眉山(島原大変肥後迷惑)&雲仙岳災害記念館
2018-08-28 / 自然


仁田団地第一公園から見た眉山

右手に九十九島(つくもじま)
島原に行けば、「島原大変肥後迷惑」に触れないわけにはいかない。今から226年ほど前の1792年(寛政4)に起きた眉山の山体崩壊と、それによる津波で、島原や有明海を挟んだ肥後国(現熊本県)が襲われた災害のことだ。死者・行方不明は約15,000人。その約3分の1は熊本県側だ。
その眉山と災害の概要を知るため、仁田団地第一公園へ行った。団地の一角にある公園からは崩壊した地形や崩壊によってできた流れ山を望むことができる。有明海に流れ込んだ流れ山は、小島群をつくり、現在九十九島(つくもじま)と呼ばれている。
崩壊個所は、今でも地肌がむき出しで、公園から眺める稜線は、大鷲が羽を広げたようにも見えた。大鷲の頭のように見える所が天狗山だ。そこから稜線に沿って海の方へ目を移すと、流れ山がつくった小島群が見える。
眉山の崩壊原因は、今も特定されていない。最も有力な説は、地震崩壊説のようだ。眉山の背後にある雲仙岳の火山活動によって誘発された地震で、山体崩壊が起きたというものだ。その他。眉山そのものも火山であるため、火山爆裂説などがある。しかし、原因特定に至らずとも、眉山の崩壊は、島原側で高さ6〜9m、肥後側で4〜5mの大津波を起こし、記録されている限りでは、国内最大の火山災害となっている。



普賢岳噴火による土石流で埋まった家屋
仁田団地第一公園を後にして、昼食をとるため「道の駅みずなし本陣」へ。ところが、ちょうど昼食時でどこも満席、お店の前まで行列状態。ということで、食事はあきらめ、隣接の「土石流被災家屋保存公園」へ。最近は土石流に襲われた家屋等の報道を度々観るようなったが、ここには雲仙普賢岳噴火による土石流に襲われた家屋が、そのまま展示してある。屋根の下まで埋まった惨状は、やはり凄まじい。住んでいた方たちにとっては、この光景を見るだけで涙が出てくるのではないか・・・。残す決断をされた方々の苦悩を思いながら見て回った。
日本は4枚のプレートがせめぎあう世界有数の地震火山国。それに台風や大雨等もある。「明日は我が身」を思いながらここをあとにした。


がまだすドーム3階展望所からの普賢岳、眉山、九十九島

展望所には、東日本大震災時の津波の到達高を示す文字が
昼食をとりそこなったので、いざ「雲仙岳災害記念館がまだすドーム」へ。1階のこどもジオパークのコーナーは、夏休みのまっただ中とあって子供たちで溢れ、トランポリンなどでにぎやか最高潮。なので、そこを横目にカフェ・レストランへ。満腹満足、しばし休憩。
エントランスホールへ戻ると係員から展示室への入室を勧められたが、以前入室済みのため、今回はパスして3階の展望所へ。ここからは普賢岳火砕流が流れ下った所や土石流が起きた場所、また眉山の崩壊場所や海側の九十九島もよく望める。海の向こうの熊本県金峰山なども一望だ。ガラス張り、かつ完全冷房だから展望所としてはピカイチだ。外に出て風を楽しむこともできる。20〜30分程、完全冷房の中で体を休めながら山を眺め、海を眺め、そろそろと思った頃に、ふと気付いた。ガラス窓に文字と矢印があるのだ。文字は「東日本大震災 津波の到達高(女川漁港)」。そこから伸びた矢印の先には、見上げる高さに「18.3m」。3階の床からは3mほどの高さだっただろうか。こんなに大きな津波だったのかと、しばしぼう然。なにしろ、展望所から見る有明海の海面は、ずっと足下なのだ。
自然は、私たちをいつもやさしく和ませてくれる。しかし、時に想像もできない程の大きな牙で私たちに襲いかかる。がまだすドームに行くことがあったら、3階展望所の「18.3m」ぜひ見上げて欲しい。
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島原半島ジオパーク:旧大野木場小学校被災校舎
2018-08-26 / 自然



火砕流サージに襲われた旧大野木場小学校被災校舎
雲仙普賢岳で大規模火砕流が起きたのは、記憶に新しい。1991年(平成18)6月3日には、火砕流によって発生した火砕流サージに飲み込まれ、報道関係者や消防団員など43名の死者・行方不明者を出した。
火砕流のことを知りたいと、「雲仙岳災害記念館がまだすドーム」を訪れたのは、何年前だったか。今回はもう少し詳しくと思い、火砕流に襲われた旧大野木場小学校へと足を伸ばした。現在、ここには被災した校舎と、その隣りに大野木場砂防未来館がある。
南島原市から北上を続けると、ゆるやかなスロープの雲仙普賢岳は次第に大きくなり、存在感を増していった。お昼近くでもあり、当初「道の駅ふかえ」をめざしていたのだが、火砕流に襲われた現地を見るために、途中から国道251号線を左に折れた。折れるとすぐに緩やかな上り道。普賢岳は正面に一段と大きくなり始めた。この道も、火砕流の時は、多くの人がかけ下ったのだろうかと思いながら、目的地へ。旧小学校に隣接して建つ未来館に車を止め、すぐ下の小学校跡へ。
窓枠のないむき出しの校舎は、暑い日差しの中で、薄い肌色と暗い室内のコントラストを際立たせていた。静かにそこにある姿は、訪問者に何事かを語りかけているようでもあった。一部焼け残った窓枠や屋上からの配管はグニャリと曲がり、火災流サージというものの怖さを認識させられた。
運動場脇の説明パネルに被災当日の写真があった。驚きだ。「早く逃げろ!早く!早く!」 どんなにか怖かっただろう。校舎から飛び出して来る児童の姿も写っている。校舎の背後には火砕流が大きくせまっていた。
そのパネル写真と同じ付近から写真を撮ってみた。校舎と未来館の背後には、全く別の顔をした普賢岳があった。
私は、この小学校が被災したのは、多数の死者・不明者を出した6月3日のものだと思っていたが、実は9月15日のものだった。大野木場小学校では8月に仮設校舎での授業を開始していた。校舎が焼失したのは、9月15日の18時54分発生の大火砕流によるものだ。それも、火砕流本体ではなく、それに伴う火砕流サージによるものだった。今、この旧校舎は、その時の様子を伝える遺構として残されている。一度は足を運び、火山災害に思いをはせてみたい所だ。

説明パネル掲載の写真(校舎から飛び出す児童の姿も)

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島原半島ジオパーク:原城跡
2018-08-23 / 自然


過去に一度訪ねたことはあるが、それは島原・天草一揆の場、つまり歴史上の原城跡。今回は、火砕流露頭を見るのが主な目的。それも近くの雲仙からの火砕流でなく、有明海の向こうにある阿蘇山からの火砕流。阿蘇は超巨大噴火と言われる破局噴火を4回起こしている。最も近くに起きたのが約9万年前だ。その時の火砕流は、阿蘇から約160kmにまで及んだとされる。野を越え山を越え、海も越えて火砕流は走った。その早さは時速100km以上。想像を絶するが、噴火の後は、巨大な噴火口が沈み巨大な鍋底(カルデラ)のようになった。今の阿蘇の姿だ。日本では有史以前から各地でこのような噴火がたびたび起きてきた。起こって欲しくないが、いつの日かまた日本のどこかで超巨大噴火は起きる。
ところで阿蘇山から原城までは約83km。結ぶ直線上には、熊本地震で大きな被害が出た西原村や益城町、そして緑川河口もある。緑川河口から原城までは約35kmの有明海だ。9万年前の火砕流は、その有明海を走り抜け、のちの原城付近へも達し火砕流大地を造った。
というようなことで、原城で火砕流痕跡を見ておきたかった。原城に着いたのは午前10時前。観光客も動き始めたばかりで、臨時駐車場の一角では、お土産売りのパラソルも開いたばかり。そこで地図をいただき、原城本丸跡へ歩を進めた。本丸入口右手には大きな低地。説明板には次のようにあった。
空濠(からぼり)
この低地は、島原の乱の時に防衛のため、○築されたもので、蓮池と通じ、本丸を孤立した「島」とするため、築かれたものです。
寛永十五年(一六三八)二月二一日の夜襲軍四千余人は、食糧・武器等の奪取のため、ここに集結し、黒田軍・鍋島軍等を襲撃したが、失敗に終わった。
籠城の間は、竹や木で柱を建て、「カヤ」でその上を覆い、非戦闘員(老若男女)を収容していたところです。
文部省
南有馬町教育委員会
この低地は、島原の乱の時に防衛のため、○築されたもので、蓮池と通じ、本丸を孤立した「島」とするため、築かれたものです。
寛永十五年(一六三八)二月二一日の夜襲軍四千余人は、食糧・武器等の奪取のため、ここに集結し、黒田軍・鍋島軍等を襲撃したが、失敗に終わった。
籠城の間は、竹や木で柱を建て、「カヤ」でその上を覆い、非戦闘員(老若男女)を収容していたところです。
文部省
南有馬町教育委員会

空濠(からぼり)
大きな空濠ではあるが、本当にここに4千余人もここに収容されていたとすると、とても過酷な環境だったはずだ。写真をあとで見て気付いたが、空濠左右崖の露頭部分は火砕流痕跡にも見える。ただこれは私観。ちゃんとした確認が必要だ。
空濠をあとにして、他の観光客と同じように一通り本丸跡に足を進めた。本丸跡地からは宇土半島や天草の島々の他、雲仙普賢岳の勇姿がよく見えた。天草四郎像や墓石などを見た後、車を止めた前の道路へ引き返し、本丸下の海岸の方へ農道を下った。太陽の強い光と無風状態の農道はとても暑かったが、海岸手前の小さな田んぼを前にホッとひと息。
海岸は急傾斜のコンクリート護岸と遊歩道。満潮らしき護岸下では大きなクロダイが1匹。“見えている魚は釣れたためしがない”などと思いながら本丸下へ歩を進めると、そこは7、8mはありそうな崖。崩壊を防ぐためか、下部には金網に砕石を詰めた蛇籠がずらり。その上に堆積層の一部と火砕流らしき層が見えた。
「島原半島世界ジオパーク」のページには、「海岸沿いの露頭では、下位の口之津層群とAso-4火砕流が不整合で接している様子を確認する事が出来ます。」とある。写真を何枚か撮り、もと来た道を駐車場へと引き返した。しかし、実のところこの露頭でよかったのかどうかはっきり分からないままだ。再び訪問の機会があれば、今度はしっかりとガイドを頼むこととしたい。
この間、気温は38度を超えていたのだろう。コンクリート護岸の上はそれ以上だったはず。お土産売り場で買ったかき氷は、この上なくうまかった。



原城下の崖
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「霧島の火山活動と加久藤カルデラの痕跡探訪」
2018-08-20 / 自然


学校が夏休みに入ってまもなく、台風10号の影響で2日間雨が続いた。それも2日目は時折ひどいどしゃ降り。もう一日続くと、稲刈り前の稲穂は倒伏してしまうところだった。雨が上がった夕方、散歩に出てみると、完全に倒伏している田んぼも3、4枚見かけた。幸いわが家の田んぼは無事。
表題の探訪日は、その翌日だった。宮崎平野部は曇り昼時晴れ、目指すえびの市は曇りの予報。霧島・えびの高原は雨かもしれないと思いながら、折りたたみ傘だけはリュックに忍ばせて出発。参加者との集合場所は、「道の駅えびの」だ。わが家からは車で約2時間弱。天気は、予報より良く、晴れ間が広がった。
◎白鳥展望所/えびのエコミュージアム/硫黄山
直前にキャンセルが複数出たため、参加者は13名ほどになったが、県内各地からの参加だ。ガイドは、霧島ジオパークガイドのメンバーでもある「えびのガイドクラブ」の方。思いがけず、霧島市から女性職員もガイドとして駆けつけて頂いた。あいさつもそこそこに、えびのエコミュージアムを目指していざ出発。車4台に分乗しての出発だ。途中、硫黄山の噴火でヒ素などが検出された長江川のことや、加久藤カルデラのかつての湖底面のことなど聞きながら、最初のガイド地・白鳥展望所に到着。ここからの眺めは何とも雄大、えびの市全域を眼下に眺めることができる。通ってきた道も既に眼下だ。正面に加久藤カルデラ外輪山の北面に当たる矢岳高原が望めるはずだが、雲がかかりちょっと残念。
ここを後にして、白鳥温泉や白鳥神社のそばを抜け曲がりくねった道をえびの高原へ急ぐ。ここにして予定時間をすでにオーバーしている。えびの高原へ行く宮崎県側からの道は、硫黄山の噴火で小林市からの道路は閉鎖されているため、白鳥経由しかないのだが、出会う車はほとんどない。やはり新燃岳や硫黄山の噴火が影響しているのだろう。道路横には白い花のノリウツギが時折現れる。樹液を和紙を漉く際の糊に使ったことから、この名が付いたようだ。そしてえびの高原へ到着。エコミュージアム玄関で、霧島ジオパーク事務局の石川さんが出迎えてくれた。予定時間を過ぎているため、すぐに集会室で、石川さんによる「霧島の火山活動」のお話。石川さんは火山の専門家だ。加久藤カルデラの話から近年の新燃岳や硫黄山の活動まで、プロジェクタを用いた話はとても分かりやすかった。
その後、外に出て硫黄山遠望。約1kmという規制ぎりぎりの所からだ。白い噴気を上げ続ける硫黄山に、自然のすごさを見たのか、参加者はみんな釘付けだった。

噴煙を上げる硫黄山を遠望観測
◎矢岳高原
予定時間をオーバーしているため、ここから次の訪問地・矢岳高原へ曲がりくねった道をまっしぐら。地元をよく知るガイドならではの近道も利用し、ようやく展望抜群の矢岳高原へ着いた。ここからの眺めは本当に素晴らしく、宮崎県内では指折りだ。それもそのはず、近くには日本三大車窓のひとつ「肥薩線矢岳駅付近(矢岳越え)」がある。ただ、矢岳高原はそこより高い所に在るから、それに勝る絶景ポイントだ。眼前には霧島連山と加久藤カルデラ全域を望むことができた。阿蘇の大観峰に、勝るとも劣らない絶景のように思う。
ここでは、新しく加わった「えびのガイドクラブ」の方と霧島市からの女性職員から、かつて湖だった頃の加久藤カルデラやその後の姿、長江川水系汚染のことや霧島山麓からの天然水のことなどを説明していただいた。目を凝らせば、眼下には川内川を挟み緑溢れる田んぼと薄茶色の田んぼが対照的にあった。薄茶色の田んぼは、硫黄山噴火の汚染水のために作付けできなかったのだ。米作りをしている身としては、大変さがよく分かる。
そういうことの説明の後は、待ちに待った昼食。絶景の中での昼食は、強い日差しの中でも格別でもあった。そして、絶景を背に記念撮影。


矢岳高原から望む加久藤カルデラ。遠くに霧島連山、眼下には川内川が。

毘沙門の滝/めがね橋
矢岳高原を後にして、ガイドは予定していた国道ではなく、外輪山のふもとを縫うように車を走らせた。人家が多い街中より少し高台だ。ただ高台ではあるが、ほぼ平坦だ。その平坦が終わろうかとする頃、車は止まった。そこで説明を聞けば、その平坦な面こそ、かつて湖だった時の湖底面だった。遠望する霧島連山麓の平らな面と共に納得だ。ただ、真夏の午後の日差しは強く、風もないため暑かった。そのため、すぐに次の毘沙門の滝へ。流れ落ちる水しぶきは暑さを忘れさせ、しばしの涼感。火砕流が冷えて固まった溶結凝灰岩を、流れる水は長い年月をかけて削り、峡谷をつくり、滝をつくってきたのだ。滝の名前は、この地に延宝年代(1673〜1681年)頃に毘沙門寺があたことに由来しているようだ。今回は行くことはできなかったが、滝の上は約1kmにわたり遊歩道が整備され、織りなす巨岩はミニ高千穂峡とも呼ばれているようだ。そして、文化遺産のひとつ、めがね橋へ。大きな石橋だ。この橋は、熊本営林局が1928年(昭和3)に木材運搬用のトロッコ軌道として造ったものだ。石造3連アーチ橋だ。橋の下から見上げると、石橋特有のアーチが大きな弧を描いていた。絵になるので橋の下まで降りて写真を一枚。道路横の木陰では、ガイドが模型を使って石橋の作り方を見せてくれた。ありがたし。

毘沙門の滝

大きなアーチの「めがね橋」
◎享保水路太鼓橋/八幡丘公園
そこからまたすぐに次の石橋・享保水路太鼓橋へ。2004年(平成16)国登録有形文化財だ。石橋の側面は蔦や草に被われて石組みの観察はできなかったが、橋の上には、真ん中に水路、両側に農道があった。説明板によれば、水路幅は1.6m、その西側に3.5m、東側に4.5mの農道とあったから、全体幅は9.6mにもなる。享保水路太鼓橋とあるから、建造年は享保年間かと思いきや、そうではなく、水路ができたのが享保年間のようだ。この享保用水は有島川をまたいで横断しているため、大雨のたびに水路は流されていたようだ。そのため、江戸末期(1850年頃)に太鼓橋として建造されたと文献で推察されている。この太鼓橋は、現在も飯野平野の水田約150haを潤す享保水路の重要な一翼を担っている。水路に流れる水量は多く、なるほどと納得。
あとは水路伝いに最終目的地八幡丘公園へ。ここは小高い山になっていて、加久藤カルデラの東端となる。公園の上は桜並木があり、桜のシーズンには花見客でにぎわいそうだ。その並木を抜けて駐車場に車を止め、えびの市が東側から一望できる展望台へ。左手に見えるはずの霧島連山こそ樹木で望めなかったが、加久藤盆地は眼下に一望できる。展望台正面には、その風景をベースに、かつて湖だった頃の水位を表示した説明パネルがあった。現在の市街は湖の下だ。それまでの説明とこのパネルのおかげで、加久藤カルデラのことがほぼ理解できるようになった。
約34万年前、この地で超巨大噴火が起り、その時の火砕流は薩摩・大隅半島中部以北や人吉市、宮崎平野にまで及んだ。その後、この地は湖となった後、霧島の火山活動や姶良カルデラの火砕流等で堆積が進み、最終的には湖口で侵食が進み、水が排出され、今の姿となっている。一般には加久藤カルデラの名前も、人吉方面へ向う時の連山の壁が外輪山であることもあまり知られていない。今後、えびの市訪問の機会があれば、加久藤カルデラのことを知って欲しいと思う。尚、石黒耀氏の小説「死都日本」(2002年)は、加久藤カルデラで破局噴火が起きる様子を描いていておすすめの一冊だ。「死都日本」は、メフィスト賞や宮沢賢治賞奨励賞の他、氏自身も日本地質学会からも表彰されている。
今回、霧島ジオパークガイドの方々には最高のガイドをしていただいた。「ビバ!えびの」だ。今後も絶景の加久藤カルデラを楽しみたい。

享保水路太鼓橋の上に流れる水路

加久藤カルデラ湖底面説明板
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天草:「恐竜の島」御所浦
2018-08-18 / 自然

ずっと行ってみたいと思っていた御所浦に寄ってみることにした。とはいえ、当初考えていたほど時間は取れない。ほとんどトンボ帰り状態になるはずだったが、今後も行く機会があるかどうか分からないので寄ってみることに決めた。御所浦は「恐竜の島」として知られる。本当は、島内をあちこち見て回り、化石採集もやってみたかったが、これは夢のまた夢。本当にトンボ返りとなってしまった。
御所浦は、「恐竜の島」として名が知られるが、過去に高レベル放射性廃棄物処分場問題が持ち上がったことがある。こちらはおもしろくもない話だ。
2003年末、町議会の中である人たちが数回の勉強会を開き、建設の手続きの検討を開始した後、翌年の全員協議会の場で、大多数の町議員が賛成の意向を示し、町長に応募するよう口頭要請したようだ。理由は「調査に入れば多額の交付金が見込め、建設でも多数の地元雇用が期待できる」としたのだ。どこでもこのようにお金が絡む話だが、その後、4月に地元紙の報道するところとなり、大騒ぎとなり、誘致要請を撤回することとなった。
よかった! そのまま誘致に名乗りを上げていれば、町内も近隣自治体も、また県民も二分され、取り返しのつかない事態になっていただろう。
ところで御所浦へは、上島の棚底港からフェリーを利用した。この棚底地域は、石垣群でもよく知られている所だ。棚底の家々には、防風林ならぬ防風石垣がある。その石垣群は、扇状地から出た安山岩質の石を使ったものだ。ゆっくり見る暇はなかったが、港への道すがら少しは楽しむことができた。
車は駐車場へ止め、人だけ渡ることにした。駐車料金は12時間100円という超格安。乗ったフェリーは、想像していたものとはまるで違い、34人乗りという小型フェリー。もちろん車は運べない。ちょうどお盆時期なので超満員。聞こえて来る地元言葉からすると、どうもほとんどが帰省客のようであった。このフェリー、小型ゆえ乗下船するところは、鎖が一本横に渡してあるだけ。横に揺られて落ちれば海の中だ。それは、どこか数十年前の蒸気機関車のデッキのようでもあった。そして船尾のすぐぐ後ろには、湖のように静かな海面に大きな波をつくった。若い女性たちは、颯爽と走る海の上に髪をなびかせ、乗組員も加わり、友人達と誰がどうのこうのと地元同士の会話。その会話に加わっていた乗組員の仕事は、鎖をつないだり、お客さんの数を数えたり、船内を見た回ったりして、まるでバスの車掌さんのよう。そして、途中の港に着くたびに港の名前を告げていたが、エンジン音と波の音に消されて聞き取ることはできなかった。それでも30分で、予定どうり御所浦港に到着。短い間だったが、今までのフェリーでは経験したことのない楽しい船旅だった。大型、中型、小型がそれぞれ違う時間で運行されているようだから、一度は小型フェリーを体験してみるべきだ。

小型フェリーは帰省客でいっぱい!
御所浦に着くとすぐに、岸壁で、頭部だけのティラノサウルスが迎えてくれる。口を開けて睨みを利かせている。時間を気にしながら、すぐに近くの御所浦白亜紀資料館へ。ここには恐竜の復元模型の他、白亜紀の恐竜や貝・アンモナイトの化石などたくさんの標本が展示されていた。見れば見るほど頭が疲れそうでもあったが、うれしかったのは、生きたハイギョやオオサンショウウオの標本に出会えたこと。たくさんの化石標本などについては、ここで説明するより、資料館に聞いた方が無難だろう。案内を頼んで化石採集は経験したかったが、時間がなくパス。少し後ろ髪を引かれる思いで、遅い昼ご飯となった。港の売店でお弁当を買い、恐竜の模型がいくつか並んでいる公園で昼食をとった。背後に見える照葉樹林は輝くような緑で美しく、真っ青な空には2羽のトビがゆっくりと舞っていた。
帰りは、ちょっと大きめの中型フェリーで元きた棚底港へ。行きより寄港地がひとつ多い各駅停車の35分。到着する前には、棚底の町の上の扇状地も船上からくっきり。折しも気温が38度を超すような日々が続いていたが、エアコンが効いた客室はとても涼しく快適だった。

港ではティラノサウルスが迎えてくれる

生きたハイギョ

オオサンショウウオの剥製


港そばの公園の恐竜
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