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葛飾北斎『諸国瀧廻り 美濃ノ国 養老の滝』


中央やや左寄りにまっすぐに流れ落ちる瀧。ドウドウと流れ落ちた水は、瀧壺でしぶきとなって四方へ飛び散っている。それはまるで真珠のようにまん丸である。そして瀧壷から溢れ出た水は勢いよく波打ち、左下へ流れ下っている。
ドウドウと流れ落ちる瀧の姿に見入ってしまう。やはり見事というしかない。瀧の近くに行けば、人はそばまで行って瀧を眺めてみたい。この絵の真ん中下でばっちょ笠をかぶり、瀧を見上げているのは、この絵に見入る私であり、あなたに違いない。
印象的な瀧の絵だが、しばし見ていて分からないところがひとつ。真ん中には丸いばっちょ笠が二つ見えるが、左の笠の主がよく分からない。薬売りが荷物を背にして休んでいる姿にも見えるがはたしてどうか・・・。右下では小屋掛けの下に三人の人物が見える。右に二人、左に一人だ。左の人物は、蓑をまとった後ろ姿に見える。きっと、どこから来たとか、あそこは良かったとか話が弾んでいるのだろう。

この浮世絵、「国宝、日本の美をめぐる 東京国立博物館名品展」(大分県立美術館)でのもの。私的使⽤に限り撮影可と掲示してあったので、係員にブログ掲載も可かと尋ね、「いいですよ!」ということで掲載した次第。ほとんどの展示会が撮影不可の中、なんともうれしい返事だった。他の展示会でも、可能な限りこうあって欲しいと思う。
この展示会、名前に違わず素晴らしい名品ぞろいだった。浮世絵では、歌麿や広重、写楽があり、若冲の屏風絵や応挙の写生帖もあった。他に印象に残っているものは、大きな銅鐸や国宝の地獄草紙など。見逃した人は残念至極だ・・・。

◎以下は『諸国瀧廻り 美濃ノ国 養老の滝』キャプションの一部。

諸国瀧廻り 美濃ノ国 養老の滝
葛飾北斎(1760-1849)
1833(天保4)年
大判錦絵

諸国の瀧を描いた全8図シリーズの一図。「富嶽三十六景」が完結した頃、同じ版元の西村屋与八(永寿堂)から出版された。養老の瀧は、岐阜県養老郡養老町にある落差32メートルの瀧。貧しいキコリが瀧の水を父に飲ませたところ、水が酒になったという伝説がある。水が流れ落ちる姿を、あえて垂直の柱のように硬質に描き、直下飛瀑する水勢の凄まじさを強く印象付けている。
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ミツバチが教えたツワブキのしくみ




冬が近づくと、野山には花が少なくなる。そういう中でひときわ目につくのは黄色い花が美しいツワブキの花だ。ギャラリーのまわりには幾つもツワブキがあり、今は花盛りなのだが、ミツバチがとまった花びらの写真をみて、「はてこれは・・・?」と思った。
花の中心部にニョキニョキと伸びたものが写っているのに気付いたのだ。

ということで、ツワブキの花について少しお勉強。一番外側の黄色い花びらのように見えるひとつひとつが、“舌状花”というそうだ。そういえば舌のようである。そのひとつを抜いてみるとよくわかるが、その中に小さな雌しべがある。雄しべはなく、2つに分かれた雌しべがあるだけだ。花びらの中心部は“筒状花”というそうだ。筒状の形をした花冠だ。花冠の先端は5つに裂け、その中心部から葯(やく:雄しべ先の花粉が入った袋)が伸びている。先に書いたニョキニョキがこれだ。その先端では隠れていた花柱が伸びて花粉を押し出し、花柱はさらに伸びて先端が2つに分かれていく。これまた雌しべで、ミツバチなどの助けで受粉する仕組みのようだ。
関心があれば、舌状花や筒状花を抜いてルーペなどで見てみることだ。自然界の仕組みに感心するかもしれない。今日は一匹のミツバチが知らなかった世界を教えてくれた。自然はすごい!
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大きな目玉模様のタテハモドキ



翅を閉じたらまるで枯葉

11月も半ばを過ぎると、ギャラリーまわりのツワブキも花盛り。濃い緑の葉っぱを背景に黄色い花がよく目立つ。窓から眺めていたらそこに一頭のチョウ。あたたかい陽の光を浴びながら翅を閉じたり開いたり。オレンジ色の翅に大きな目玉模様。写真を撮っておこうと外に出てみると、ツワブキから離れ、植木を支える杭の上にとまった。そして、じっと翅を広げたまま。先ほどは翅を閉じたり開いたりしていたのだが、はて・・・?。

そうか、やっと気がついた。翅の目玉をみせて警戒しているのだ。野鳥等から身を守るための術なのだろう。タテハモドキは南方系のチョウだ。以前は九州南部でも迷蝶だったそうだが、現在は土着とされている。しばらく杭の上に止まっていたが、私が移動したら向こうも枯れ草の上に移動した。えっつ!、今度は翅をとじたまま。閉じた姿は、まるで枯葉。目を離すと枯れ草の中にとけ込んでしまう。調べると、裏面の枯葉似の模様は秋型なのだそうだ。これも身を守るための術とみた。
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アニッシュ カプーア IN 別府







『Sky Mirror』と名付けられた作品を見たくて別府公園へ出かけた。別府市役所のすぐ南側にある手入れの行き届いた広々した公園だ。大きな松が何本もあり、印象的だ。足を進めると、松の幹の間に丸いMirrorが見え隠れしてきた。広くて大きな広場の一角に目指す作品があった。青空の中に白い雲が刻々と動いている。
すぐ隣りに係員の女性。パフレットをいただき、Mirroの後ろにも回ってみた。後ろもなかなかおもしろい。前から後ろから写真を何枚か撮り、正面に立ってみた。すると鏡面を見ているのに、異次元があるような不思議な感覚。鏡面に写っているのはただの白い雲のはずなのに、白い雲が沸き立っているように見えた。

カプーアの作品は、「霧島アートの森」にもコレクションされている。こちらは『無題』。直径約2m程の、つや消しの青い円の前に立つと、距離感がなくなり、なんだか異空間にいるような感覚を覚える。そのような感覚を覚えさせるのがカプーアの作品なのだろう。別府公園の『Sky Mirror』に写る青空や雲は、遠くから見ていると単に動く青空を写しているだけだったが、真正面に立つと、雲が湧き立つような異空間が出現し、実際にはそこにはないのに在るように覚えてしまうのだ。パンフレットを読むと、イヴ・クラインの影響も感じさせるとある。クラインの『青いビーナス』を観たとき何か深いものを感じたが、その感覚に通じるところがカプーアの作品にもあるのだろう。ただ、カプーアの作品は、とても大きくてシンプルな形のものが多い。

今回、別府公園には、Mirrorの他に仮設パビリオンが2つ用意されている。ひとつは『Volid Pavilion』であり、もうひとつは『コンセプト・オブ・ハピネス』と名付けられている。『Volid Pavilion』の方は、最初に裏から観てと言われ、その後正面扉から中に入り作品を見た。裏からは黒い円の中が無限のようでもあり、正面側からは正面に真っ黒な平面。と思っていたら、横に動いてみるととても大きな球が現れた・・・。『コンセプト・オブ・ハピネス』の方は、身体の内側や大地のマグマ活動を想像させると説明されたが、私的には身体内部の方を強く感じた。幾つかの作品のうち、ひとつは牛の頭のようでもあり、ブニュエルとダリの映画「アンダルシアの犬」に出てきたピアノの上のロバの頭部のようでもあった・・・。
好き嫌いで言えば、『Volid Pavilion』の方が好きで、『コンセプト・オブ・ハピネス』の方は少し拒絶感があった。
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現代美術作家・堀尾貞治さん逝く



11月3日のことと聞いた。大好きな作家のひとりだった。何事も飾らず、ひょうひょうと描き続け造り続ける姿は忘れることができない。身の回りにあるモノは、何でも作品の材料となった。その場にあるモノと状況で次々に新しい作品が生まれていった。ある時は木片、ある時は石ころ、ある時はボンドなどなど。この人にかかれば、時間も空間も自由自在だった。
初めてこの人のことを知ったのは、ずっと以前のこと。宮崎市内で行われたパフォーマンスの時だ。白い壁に太い針金がくねり、その先端に一個の電球が取付けられた。そして灯りがともった。針金は電気のコードだったのだろうが、みるみる作品ができ上がっていくのは、見ていて気持ちよかった。そしてその時、氏から参加者へ思わぬプレゼント。それぞれの似顔絵がプレゼントされたのだ。A3程の西洋紙にクレパスでさっと描かれたものなのに、その人その人の本質が見抜かれていた。もちろん私も描いてもらった。

今、私の作業場の本棚に、黒い背表紙の「堀尾貞治80年代の記録」という本がある。その表紙をめくると、一枚の絵が貼付けてある。印刷ではなく、一枚一枚描かれたものだ。氏の行為の痕跡である。こういう風に、何事にも束縛されず自由であるといい。そういう意味では、氏は人生の先導役だったのかもしれない。この絵をここに載せて、氏の冥福を祈りたい。堀尾さん、ありがとう!
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「文明キャベツ」展



「文明キャベツ」展の看板と案内チラシ


先頃、高鍋美術館(宮崎県)で開かれている「文明キャベツ」展・作家によるギャラリートークに出かけた。作家は96歳の現代美術家・齋藤秀三郎氏。「九州派」という言葉につられ、楽しみに出かけた。「九州派」の作品に接するのは初めてのことだ。といっても、氏が現在「九州派」ということではなく、かつて「九州派」に所属していたということだ。「九州派」はずっと以前、福岡を中心に活動した団体だ。解散してもう約50年だ。案内チラシには「初期に『九州派』や『グループ西日本』に所属し、前衛的作品を発表」とある。

結論から先に述べれば、メッセージ制のあるとても分かりやすい作品群だった。
作品展は、キャベツを使った作品群と、既に故人となった家族やクラスメートたちの魂の供養という2つの作品群から構成されていた。代表的作品は、案内チラシに掲載されているキャベツの銅版画のようだ。メゾチントという技法を使って表現されている。まっ二つに切られたキャベツからは、様々なコードがのぞいている。二つに切られたキャベツは「脳」のようにも見えるが、そうだとすれば、様々なコードは脳を侵しつつあるか、あるいは既に脳を侵した現代文明か・・・。

立体作品もそのように見えた。キャベツそのものから石膏どりされ、二つに割られてコードが埋め込まれていたり、白や黄や赤に「色付け」され「C-4」などと記号が付けられていた。記号は、総背番号制みたいなものと理解すれば分かりやすいようだ。トークを聞いて理解したが、「色」も記号と同じく「生」を侵すものとして表現されているようだった。立体作品は、ほとんどが机の高さに配置され、上から覗き込むようにつくられていた。そう、様々に加工がされた脳を覗く感じだ。ひときわ大きな枠組みの中のキャベツもあったが、大枠は重大事故を起こした福島第一原発が表現されているようであったが、これは説明がなければ何か分からなかった。ただ、どの作品も、ますますスピードを増して「生」から遠ざかる現代文明を鋭く問う作品と見受けた。キャベツについて、氏は「キャベツは作品の中でいろんな役回りをしてくれました。現代文明を生みだす脳であったり、文明に曝された内蔵であったり、または、抽象的「命」であったりしました。」と述べている。

もうひとつは、供養の表現の空間だった。壁に掛けられた四角の灯籠には、正面に亡くなった家族やクラスメートの顔が描かれ、横には名前と亡くなった日付や年令が書かれていた(と思う)。そして、少し暗めの会場内には心臓の擬音が響き、嫌がうえでも「死」について向き合わさせられた。四角の灯籠は、鹿児島県や宮崎県南西部で、旧暦六月に神社等で行われる「六月灯」を思わせたのは、氏が宮崎県三股町(当時三股村)で小学校時代を過ごしたことによるものか・・・。灯籠に描かれた人たちは、氏にとってとても大切で、かけがえのない人たちだったはずだ。


ギャラリートークの齋藤秀三郎氏


休憩室でのビデオ画面より
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コスモス花見




今年は、台風24号の暴風雨を乗り越え、コスモスの花がきれいに咲いた。
毎年、地区の子供会と老人会の力を借りて種を蒔くのは、飼料用イネの刈り取りが終わった後。天気がよければ何と言うことははないのだが、この2〜3年天気に恵まれなかった。田んぼがぬかるみ整地ができなかったり、子供会等の都合で種まき時期が遅れたりした。「きれいに咲いたら花見会!」ということになっていたが、きれいな花が付かず期待は裏切られるばかり。そのため、今年は種の都合に合わせて雨の前に急遽整地と種まき。しかしその後、数センチに茎が伸びたところに台風24号という強烈パンチ。水に浸かったため心配したが、翌日には水が引き、その後は天気にも恵まれ見事な花畑となった。
ということで、先頃、子供会と老人会など30人程で楽しい花見。と言っても、お菓子ばかりでアルコール抜き。飛び交う会話は、誰がどうしたこうしたというような、たわいもないものだが、何とも言えず楽しい時間。平和なひとときだ。“子供からお年寄りまで”というのが、田舎のいいところ。子供会やみんなの記念撮影のあと、夫婦や仲良しでの記念撮影。連れ添う夫婦は付いたり離れたり・・・。ポーズとる姿もまた楽し・・・。(男どもや大人の写真などは不掲載。想像してたもれ!)



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