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輝いていた児島虎次郎の絵

コウゾ等とともに、和紙の原料となるミツマタに出会った。優しげにあった。場所は、かつて石井十次とその仲間が祈りを捧げたという古い教会近く。教会は現在は改装され、「祈りの丘空想ギャラリー」となっている。

オミクロン株がじわりと増え始めた先日、ストレス解消も兼ねて西都原公園を目指した。西都原公園は、国の特別史跡に指定されている古墳群で名が知られる。円形墳・方形墳・前方後円墳・地下式古墳など約300あまりの古墳が、西都市街地の台地の上にある。その広々した空間の中を散歩したいと思ったのだが、途中で空想ギャラリーのことを思い出し、そちらにハンドルを切った。かねてからの友人が、近くに住んでいるはずだ。ギャラリーそばに車を止めて電話してみた。「久しぶり・・・」等と電話・・・。「今ギャラリーのそば」と言うと、友人は、車を止めたすぐそばの家からスマホ片手に出てきた。
ということで、周辺案内をかねて散歩となった。歩き出してすぐに見つけたのが、道路脇のミツマタだった。冬のミツマタは格別に優しげだった。そして有楽椿。少し盛りを過ぎているようだったが、これも優しげに迎えてくれた。木立の道を通ると、大きなクスノキ。その下にはいつかみたような家もあった。そこを抜けると、牛舎や田んぼがあった。農道脇には芙蓉らしき木が種を付けていた。






そして、石井友愛社へと案内された。いくつかの建物を見て歩いた。昼間に歩くのは初めてだった。実はずっと以前、夜に案内されたことがあったが、夜なので皆目分からずじまい。なので、たくさんの建物を目にするのは初めてだった。その中に静養館(せいようかん)という建物があった。元々は岡山にあったそうだ。1979年(明治12)に建てられ、1913年(大正2)に移築されたという古い木造の建物だ。すぐそばの方舟館(はこぶねかん)とともに、2017年に国の有形文化財に登録されている。靴を脱ぎ中に入ると、冬の日差しを浴びた畳の部屋には座卓が並び、澄んだ空気があった。その空気感とともに、窓ガラスがよかった。窓越しに見える木々は揺らいで見え、それがなんとなく温かく感じた。明治のガラスだという。割れれば、もうだめだ。ガラスに限らないが、工業化に伴う均質化はすっきりスマートにもなるが、一方では人肌のような温かみは失われていくのかもしれない。縁側に出て見上げると、天井もなかなか面白かった。







そこを後にした時、「絵は好き?」と友人が私に尋ねた。「うん!」と私。案内所で許しを請い、講堂みたいな所に案内された。驚いた。児島虎次郎の絵がそこにあったのだ。何点あったのかは覚えていない。多分10数点だったように思う。写真は控えた。そういうつもりで来ていないし、カメラもポケットサイズの小さなものとスマホだけだった。どれも見応えのある作品ばかりだった。その中に2点ほど、かつて見たことがあると思うものがあった。だが初めてだったかもしれない。思うものとはいえ、もう約50年ほども前のことだ。場所は、あの倉敷にある大原美術館でだ。
その大原美術館と虎次郎はとても関係が深い。というより、虎次郎無くして大原美術館はできなかったと言ったほうがいいかもしれない。虎次郎は大原奨学会から支援を得て、フランスやベルギーに留学している。良き師に恵まれたようでベルギーの美術アカデミーを首席での卒業だ。帰国後、大原孫三郎らの勧めで石井十次の長女・友と結婚、倉敷に新居とアトリエを構えている。この良き巡り合いは、優れた作品をたくさん生んだようだ。その後、第一次世界大戦後のヨーロッパへ再び留学。その時、虎次郎は日本芸術会のためとして、美術作品の収集を孫三郎に願い出ている。そして収集されたのが、モネの『睡蓮』やマティスの『マティス嬢の肖像』などだ。帰国後、倉敷市内の小学校での作品公開では、倉敷駅から会場まで長蛇の列が絶えなかったという。
そして今度は、孫三郎が作品収集のために、虎次郎をヨーロッパへと旅立たせ、エル・グレコやゴーギャンなどの作品が収集された。これらが、大原美術館の大元になったようだ。そういうことを成しとげている人の作品を、こんな身近なところで見れるとは、思いもしなかった。ただ、そういうことを知らずとも、児島虎次郎の絵はどれも素晴らしく、モネなど印象派の作品のように輝いて見えた。

モネやゴッホ、ピカソなどを次々に書いてきたアート小説の旗手・原田マハに、物語を書いてもらいたい気がしている。当時のヨーロッパや国内の美術の動き等を背景に、孫三郎と虎次郎の出会い・友情などを書けば、きっといい小説が出来上がるはずだ。ここを案内してくれた友人に感謝だ。「持つべきものは友」と改めて感じた。
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甑島(里港周辺〜串木野新港)


3日目の夕食は、地元の居酒屋さん。雲間に時折月が顔を出す天気。傘を持って歩いて出掛けた。観光案内所からは、地元の居酒屋さんなどは地元の人が利用するので、予約しておいた方がいいとアドバイスをいただいていた。集団ともなればなおさらだ。一応、昼間に電話はしてあった。だが、やはりまずかった。大人数にすぐには対応できないのだ。私のほか数人は、最も簡単なはずの刺身定食を頼んだのだが、食事できたのは約1時間後だった。誰が悪いと言うことはないだろう。2、3人で行くならすぐにできたのだろうが、大人数ではやはり無理があったようだ。だが、とにかく食べることができたということで、良としたい。

4日目。今日こそは帰れるだろう。ホテルの朝食は言うことなし。美味しかった。出港は12時50分だ。それまで時間たっぷりある。ということで、またまた里港周辺散歩。歩けばやはり何か見つかる。すぐそばの公園に「里の風」と題する石彫があった。里のシンボルと言ってもよさそうだが、観光パンフ等には載ってないので足を運ぶ人は少ないようだ。見えていても見てないということになりそうだ。題名のごとく、風を感じさせるいい石彫なのにちょっと残念。じっくり見た後、公園の階段を降りた。その時、ちょっといい発見をした。目に止まったのは石垣の石にある紋様。地衣類がきれいな紋様を描いていたのだ。まるで着物の柄そのもの。自然はやはりすごい。ところで、地衣類をコケ類と書きそうになった。調べてみると、やはり違う。コケ類は植物だが、地衣類は植物でなく、菌類なのだそうだ。地衣類は自分では光合成ができないので、藻類と共生して暮らしているらしい。「似て非なるものここにあり」といったところだ。私たちの足元には不思議がいっぱいだ。





さて、時間もそろそろ近づいてきた。乗船名簿を提出し、乗船券をいただいた。待合室も人が増えてきた。今度こそ出港だ。帰路では、左舷窓側のスペースに陣取った。左舷側に双子島が見えるはずだったので、どうしても左舷窓側を確保したかった。大正6年から2年間だけ、銅の採掘も行われた島だが、時代が下ると昭和33年に、鉱床ではウラン・チタン酸化物のブランネル石による放射能異常が確認されている。また、露出している岩から領家帯に属する島とも考えられているのだ。見逃す手はない。近島に続き、野島、そして双子島が姿を見せた。名前のように真ん中から二つに分かれている島だった。そしてその向こうに白く輝く沖ノ島が見えた。ここは、釣りの絶好のポイントのようだ。





というようなことで、写真を撮れるだけ撮って、あとは甲板へ上がった。往路に見たように九州本土側には川内原発や川内火力が見えていた。そして、甑島はフェリーの航跡の先に遠ざかりつつあった。さようなら甑島だ。しばらく見ていると、甑島の方に真っ黒い雲が広がり始め、フェリーをどんどん追いかけてきた。とうとう串木野新港に着く頃には雨粒が落ち始め、下船時は強い雨模様となった。なので、ここで参加者とはお別れだ。と、ここで突然思い出した。会の旗をリュックに入れたままだった。絶景ポイントで、旗を持って集合写真を撮ろうと思っていたのだが、1枚も撮っていなかった。そのため、雨を避けて待合所の軒下に全員集合。最悪ポイントでの写真撮影となった。




帰りに、川内駅まで熊本からの参加者を送り、1階の「駅市 薩摩川内」で甑島産を念頭にお土産を買い足し、わが家を目指した。途中、県境を超える頃には晴れ間が覗き始め、家に帰り着いた時には星空が広がっていた。九州の中でも、九州山地に囲まれた宮崎平野の天気は他所とは違う。冬には晴れ間が多く、雪は全くと言っていいほど降らない。なので、甑島の悪天候も、なかなかいい経験だった。なお、甑島で買った「木立甘酢」(キダチアロエで作られたお酢)は、とても美味しかった。
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